俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

体育と知育

2016-08-23 09:52:54 | Weblog
 体育と知育では教育方針が随分違うように思えるがこれはなぜなのだろうか。
 体育の仕組みとしてスイミングスクールがよくできていると思う。私自身はスイミングスクールに通ったことは無い。私が子供の頃、プールは殆んど無く屋内プールなど夢の施設だった。だからあくまで聞き齧った知識ではあるが、スイミングスクールでは修得レベル別でレッスンが行われるらしい。水に親しむこと、顔を水に浸けること、浮くこと、といった超初心者向けのレッスンから順にランクアップされる。ここでは年齢は無関係だ。たとえ大人であっても小学生と同様に1から学ばねばならない。低レベルを修得せずに高レベルに飛躍することは無い。
 体育では当たり前のこんなやり方がなぜ知育ではできないのだろうか。算数で落ちこぼれた生徒は悲惨だ。訳の分からない授業を延々と受けさせられる。足し算が分からなければ引き算など理解不能だ。掛け算ができないままでの割り算は無意味だ。こと算数に関しては落第や補修は必須だろう。なぜ基礎を習得させないままトコロテン式に進級させるのかさっぱり理解できない。劣等感を持たせないために無理やり進級させても基礎を習得しないままで応用をさせられることになるのだから何も身に付かない。これでは教師が厄介払いをしているとしか思えない。まるで泳げない子供を深いプールに放り込むような暴挙だろう。
 その一方で、最低レベルに合わせた護送船団方式は理解力の高い子供を勉強嫌いにさせる。学ぶことの最大の喜びは新しいことを知るということなのにその権利が奪われる。延々と復習を繰り返していれば授業は退屈で耐え難いものになる。
 要するに現在の知育は個人の資質の違いを無視して画一的な教育をするからほぼ半分の生徒にとっては堪え難いものになってしまっている。
 私は落第も飛び級もあって然るべきだと考える。少なくとも小学校の算数においては修得レベル別での授業が行われるべきだと考える。5年生で小学校6年分の算数を修得してしまった生徒に対しては、より高度な受験用の算数を学ぶか他の教科を学ぶ時間を増やすかを選択させるべきであって、子供の内からつまらない授業による時間潰しに慣れさせるべきではなかろう。
 学校が、塾や予備校とは違って知育だけではなく情操教育も担うべきであることは確かだ。同年代の子供との交流の場の提供は学校の重要な役割だ。しかしそれは、最低限の知識さえ身に付けずに卒業させても構わないという理屈を正当化しない。逆に折角慣れ親しんだ同級生に置き去りにされないためにも勉学に励むべきだとうい動機付けとして活かされても良かろう。過保護は結局本人のためにならない。