多数決という危険な制度はこれまでに様々な少数派から財産を奪い、追放し、命まで奪った。これは歴史的事実に留まらず今現在も続けられている。
多数決は民主的な制度ではない。極めて専制的な仕組みだ。少数者の権利を否定して多数者の横暴を肯定する強権的で危険な手法だ。
中東を大混乱に陥れIS(イスラミック・ステート)という極悪の犯罪集団を生んだ元凶は多数決だ。多数者が数的優位に基づいて好き勝手に振る舞えば少数者は弾圧される。多数決が認められる限り少数者は「正義」たり得ない。「悪」とされた少数者は自らの正義を守るためにテロに頼らざるを得なくなった。
ウィグル地区における多数者はウィグル族だ。だからウィグル地区において正義を決める主体はウィグル族であるべきだ。しかしウィグル地区は漢民族によって支配されている。そのためにウィグル地区は中国の一部に過ぎず、ウィグル地区における正義をウィグル族が自ら決めることはできず、中国における多数者である漢民族がウィグル族の正義を決める。漢民族はウィグル族が意思表示をすることさえ許さない。これが多数決の実態であり少数派は多数派によって弾圧されている。
私は子供の頃から多数決が大嫌いだった。自分自身が多数派であれば極力多数決を使わずに少数派との宥和を図ろうとした。しかし少数派に属した時には多数者によって理不尽なルールを押し付けられたものだった。
戦後しばらくの間、教師は多数決という宗教の伝道師として生徒に多数決を植え付けた。多数決という武器を与えられた子供達はその武器の危険性を理解せずに弄んだ。一部の狂った学級では、物理の法則まで多数決によって否定するという暴挙まで行われたらしい。多数決は事実をも凌駕する究極の武器にまで祭り上げられた。
枠組みが流動的であれば議論を通じて少数派が多数派に転じることも可能だ。思想なら流動的だから少数派も多数派も固定されない。しかし地位や民族や宗派などの枠組みが前面に持ち出されれば多数派と少数派は対立し、多数決という強権的な手法によって社会は分断される。民族や宗教の対立を煽り立てるように階級の対立をクローズアップすれば、社会は多数を占める貧者と少数の富者の対立という架空の構造に再構成できる。多数者が正しいのであれば貧者による独裁が正義となる。
多数決では枠組みを悪用すべきではないと私は考える。多数の貧者とか多数の高齢者といった枠組みを重視すれば多数者による横暴という極悪の社会が肯定される。これは民族や宗教による分断と同様、多数者による「正義」の独占を招く。正義の側に所属できない少数者はテロを通じてしか自分達の正義を主張できなくされてしまう。
もしかしたら議会制民主主義は根本的に誤っているのかも知れない。多数派に権力を預ければ権力者は多数派のみを優遇して「多数派の多数派による多数派のための政治」が理想とされこれが民主主義の名の元で行使される。これがポピュリズム民主主義でありタイのタクシン派やギリシャのチプラス派が典型例だ。
日本ではこれまで圧倒的多数を占めるサラリーマンの利害を代表する政党の力が乏しかった。皮肉なことに、多数派が権力を握らなかったことが政治を上手く機能させていたのではないだろうか。今後、多数者である高齢者の利益を守ろうとする政党が権力を握り続けることによって政治が歪められて社会は劣悪化するのではないだろうか。多数派に権力を預けるべきではなく、権力を預けられた少数派が多数派に配慮する時に、初めて民主主義は上手く機能するのではないだろうか。
多数決は民主的な制度ではない。極めて専制的な仕組みだ。少数者の権利を否定して多数者の横暴を肯定する強権的で危険な手法だ。
中東を大混乱に陥れIS(イスラミック・ステート)という極悪の犯罪集団を生んだ元凶は多数決だ。多数者が数的優位に基づいて好き勝手に振る舞えば少数者は弾圧される。多数決が認められる限り少数者は「正義」たり得ない。「悪」とされた少数者は自らの正義を守るためにテロに頼らざるを得なくなった。
ウィグル地区における多数者はウィグル族だ。だからウィグル地区において正義を決める主体はウィグル族であるべきだ。しかしウィグル地区は漢民族によって支配されている。そのためにウィグル地区は中国の一部に過ぎず、ウィグル地区における正義をウィグル族が自ら決めることはできず、中国における多数者である漢民族がウィグル族の正義を決める。漢民族はウィグル族が意思表示をすることさえ許さない。これが多数決の実態であり少数派は多数派によって弾圧されている。
私は子供の頃から多数決が大嫌いだった。自分自身が多数派であれば極力多数決を使わずに少数派との宥和を図ろうとした。しかし少数派に属した時には多数者によって理不尽なルールを押し付けられたものだった。
戦後しばらくの間、教師は多数決という宗教の伝道師として生徒に多数決を植え付けた。多数決という武器を与えられた子供達はその武器の危険性を理解せずに弄んだ。一部の狂った学級では、物理の法則まで多数決によって否定するという暴挙まで行われたらしい。多数決は事実をも凌駕する究極の武器にまで祭り上げられた。
枠組みが流動的であれば議論を通じて少数派が多数派に転じることも可能だ。思想なら流動的だから少数派も多数派も固定されない。しかし地位や民族や宗派などの枠組みが前面に持ち出されれば多数派と少数派は対立し、多数決という強権的な手法によって社会は分断される。民族や宗教の対立を煽り立てるように階級の対立をクローズアップすれば、社会は多数を占める貧者と少数の富者の対立という架空の構造に再構成できる。多数者が正しいのであれば貧者による独裁が正義となる。
多数決では枠組みを悪用すべきではないと私は考える。多数の貧者とか多数の高齢者といった枠組みを重視すれば多数者による横暴という極悪の社会が肯定される。これは民族や宗教による分断と同様、多数者による「正義」の独占を招く。正義の側に所属できない少数者はテロを通じてしか自分達の正義を主張できなくされてしまう。
もしかしたら議会制民主主義は根本的に誤っているのかも知れない。多数派に権力を預ければ権力者は多数派のみを優遇して「多数派の多数派による多数派のための政治」が理想とされこれが民主主義の名の元で行使される。これがポピュリズム民主主義でありタイのタクシン派やギリシャのチプラス派が典型例だ。
日本ではこれまで圧倒的多数を占めるサラリーマンの利害を代表する政党の力が乏しかった。皮肉なことに、多数派が権力を握らなかったことが政治を上手く機能させていたのではないだろうか。今後、多数者である高齢者の利益を守ろうとする政党が権力を握り続けることによって政治が歪められて社会は劣悪化するのではないだろうか。多数派に権力を預けるべきではなく、権力を預けられた少数派が多数派に配慮する時に、初めて民主主義は上手く機能するのではないだろうか。