俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

鈍痛

2016-08-05 09:49:23 | Weblog
 食道にステントを装着して以来、鈍痛に悩まされている。胸部の痛みは所詮鈍痛に過ぎず耐えられない痛みではない。それにも拘わらず総ての行動を拘束する。耐えられる程度の痛みのせいで行動が大きく制約される自分自身に対して憤りを感じる。
 痛みに対する恐怖は本能に基づく。痛みとは警鐘でありそれに従うことは本能に従うということだ。自然治癒力が働くべき時には痛みが生じ、痛みが行動を抑制し、温存された患部は自然治癒力によって治癒される。これが動物に共通する治癒のメカニズムであり本能とも連動している。だから自然治癒力に拠る治癒は本能に従っていれば自然に治る。極力動かないこと、特に睡眠は自然治癒力を活発化させる最も有効な対応だ。
 しかしこれは自然治癒力が有効な場合に限られる。自然治癒力が働かない状態、例えば義足や人工関節を装着する時には、患部を保護すること以上にリハビリが重要になる。痛みに対する本能的な恐怖を克服してリハビリに励んで人工物と同化せねばならない。
 胸部の鈍痛そのものよりも、自分が痛みの恐怖を克服できないという事実が辛い。恐れるべきではない鈍痛を前にして萎縮してしまう自分の非合理性に呆れる。
 痛みが警鐘であることを体は熟知している。だから体は痛みに対して反射的に反応する。尖った物に触れれば脳が痛みを感じる前に動作が止まる。だからこそ大半の怪我が未然に防止される。体は軽微な痛みにも過剰に反応することによって傷の悪化を防ぐ。これは進化を通じて育まれた優れた仕組みだ。
 しかし人工的な痛みを回避していても治癒は起こらない。人工関節や義手・義足あるいはステントの装着などによる痛みに自然治癒力は働かないのだから痛みに慣れねばならない。
 人間は合理的な動物ではない。経済合理性に基づいて生きる「ホモ・エコノミクス」を仮定した時点で経済学は致命的な誤りを犯した。経済学は砂上の楼閣を築くことになった。
 私にとって「自由」よりも群居のほうが心地良いと気付いた時には愕然とした。自分の本性に背く「自由」を求めるよりもたとえ理性を欺くことになろうとも、集団内に自分の居場所を見付けたほうが快適だ。
 痛みに対する恐怖は私にとって「理性の第三の敗北」だ。痛みに対する恐怖を克服できないのなら本能に従ったほうが良い。つまり有害な対症療法に対する屈服だ。
 人は不快感が薄れれば快癒しつつあると錯覚する。これを利用するのが患者を欺く対症療法だ。患者を治療しようとしない偽医者はこれを乱発して患者を楽にするが決して治療をしない。
 しかし自分自身が理性的でないからには、ステント装着についての対症療法を受け入れざるを得ない。たとえ治療効果を伴わない偽医療であろうとも、鎮痛剤による鈍痛の軽減が有効ということになる。この際、対症療法に対する蔑視を捨てて積極的に受け入れるべきだろう。
 流石に毎日鎮痛剤に頼るべきではなかろう。数日間耐えたことに対するご褒美として許容しようと思う。鈍痛の恐怖を克服することは本能を克服することにも繋がるのだが、私はそれを実践できるほどには理性的ではないようだ。