俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

旨味

2013-04-13 09:18:05 | Weblog
 インド人のシェフが日本でカレーライスを食べてこう言ったそうだ。「この素晴らしい料理は何という名前ですか?」冗談のような話だが実話だ。日本のカレーはインドのカレーとは別の料理に進化している。
 カレールーも馬鹿にはできない。日本人の主婦がインドからの留学生に日本式のカレーライスを振舞ったところ大好評だったそうだ。インド人がその後カレールーを本国に持ち帰ったかどうかは知らないが、これも日本式の隠し味が効いているからだろう。
 日本のカレー料理のチェーン店のCoCo壱番屋がインドやタイなどでも成功しているそうだ。これもスパイスだけに頼らない日本式カレーが評価されているのだろう。
 インドには行ったことが無いので本場のカレーがどんな味なのかは知らないが、日本で食べるインド料理店のカレーやタイで食べたカレーは余り旨いとは思えない。
 来日した観光客に日本の美味について尋ねたところこんな結果だったそうだ。①寿司②ラーメン③さしみ④うどん⑤天ぷら。どれも旨味を生かした料理だ。醤油と出汁の旨味は外国人にも理解されているようだ。
 「味の素」はアジア各国では必需品だ。タイの国際空港前には「味の素」の巨大な看板がある。しかしアジア人と比べてヨーロッパ人は旨味には鈍感なようだ。流石にフランス人はトマトのグルタミン酸を料理に生かしているが、ドイツ人とイギリス人に旨味は理解し難いようだ。質実剛健のゲルマン民族は禁欲的と解釈すべきなのか、旨味を知らずに人生をつまらなくしている可哀想な人と考えるべきなのか?

ノーリターン

2013-04-13 08:34:49 | Weblog
 ハイリスクはハイリターンでローリスクはローリターンだ。ここまでなら誰でも納得する。ではノーリスクなら・・・当然ノーリターンとなる。このことを理解できない人が少なくないようだ。
 公園の遊具で子供が怪我をしたとする。遊具に欠陥があれば改善される。整備不良なら修繕される。では問題が無ければ・・・撤去される。不良箇所が無ければ改善も修繕もできないからだ。こんな理不尽が罷り通っているように思える。
 エスカレータで事故があれば大々的に報道されるが階段での事故なら問題にされない。エスカレータでの死亡事故は殆んど皆無だが階段事故での死亡者数は毎年100人ほどだ。しかもエスカレータでの事故の大半は子供による逆走など不適切な使用が原因だ。一方、階段で子供が怪我をしても誰も階段を問題にはしない。
 何にでもリスクが伴う。料理をすれば指を切ったり火傷を負ったりするだろうし、買い物に出掛ければ引ったくりや交通事故に会うかも知れない。
 徹底的にリスクを避けるとは結局何もしないということだ。それでも食べなければ生きられない。しかし食べれば食中毒というリスクがあるし、動かなければ生活習慣病のリスクが高まる。 
 リスク回避は最も愚かな選択だろう。リターンを失うことになるからだ。リスクとリターンのバランスを見るべきだ。リスク嫌いの人には今は亡きマリリン・モンローの「帰らざる河」を聞かせるのが一番だろう。モンローが色っぽく諭してくれる「♪ノーリターン、ノーリターン♪」と。

マスコミ

2013-04-11 09:40:42 | Weblog
 マスコミは権力に弱い。マスコミが攻撃するのは落ち目の政治家と政党だけであり、勢いのある政治家・政党には只管媚びる。「水に落ちた犬を打つ」のがマスコミのやり方で、水に落ちていない犬なら怖れ・敬う。
 宗教団体にも弱い。実はマスコミだけではなく教育も宗教には弱腰だ。天文法華の乱という宗教戦争があったがこの事件の認知度は聖バーソロミューの大虐殺よりも遥かに低い。平安時代から安土桃山時代にかけて、宗教勢力はかなり暴力的な組織だったがこのことは殆んど教えられていない。武蔵坊弁慶は僧兵の1人だったがあくまで例外扱いだ。これは偏向教育だと思うのだがマスコミは指摘しない。
 そしてスポンサーに弱い。この3つが3大欠陥だと思う。マスコミは広告収入に依存しているから「スポンサー様」のご意向に沿わない情報は自粛される。
 スポンサーは数が多いだけにタブーも多い。金額では自動車、製薬、家電などが多いが、地域独占企業の電力会社もかつては膨大な広告費を使っており電力各社を合わせれば最大級だった。
 広告費は口止め料の意味も持つ。かつて東電は莫大な広告費を使っていたからマスコミは東電批判を謹んでいたが、今は金を出さないので批判に晒されている。製薬業界も派手に広告費を使っているので薬の有害性は殆んど指摘されない。宝くじのCMは射幸心を煽る有害CMの代表例だと思うが放映することによって加担するだけではなく、配当率が5割に満たない世界最低のギャンブルであることなど絶対に報じられない。
 マスコミは少なくともこの3つの強敵については嘘を言い情報を隠蔽する。情報操作をされないためにはこの3つが要注意だ。

強制売春

2013-04-11 09:15:54 | Weblog
 昨日(10日)下村文部科学大臣は「自分の国に誇りと自信を持った歴史教育を実行しなければならない」と言ったが、そのために歴史を歪めても良いということにはならない。日本人の誇りと自信を損ないそうな話だが、日本軍による強制売春はあった。但しこれはオランダ人に対してであり朝鮮人に対してではない。
 インドネシアを占領した時、植民地支配をしていたオランダの民間人が取り残されていた。このオランダ人女性を性奴隷にしたという恥ずかしい歴史がある。これは捕虜虐待であり国際法にも背く野蛮な犯罪だ。多分、憧れの金髪美女を前にして白人に対するコンプレックスが暴発したものだろう。
 しかしこれが事実であってもこのことは朝鮮人従軍慰安婦の強制連行を裏付けるものではない。オランダは敵国であり、一方、当時の朝鮮は台湾と共に日本の一部だった。敵国人と同胞とでは扱いが違って当然だ。日本軍は同胞に対しては敵ではなく日本人と同等に扱ったと考えられる。
 朝鮮人の従軍慰安婦は日本人の売春婦と同様にビジネスとして従軍したものだろう。多分、待遇はかなり悪かっただろうが、それは国内での売春婦に対する処遇が悪かったのと大差は無かろう。
 実は今でも韓国人の売春婦はかなり多い。「売春婦輸出大国」という汚名まであるほどで、グアム、ハワイ、アメリカ本土、そして日本などに進出している。
 こんな現状になったのは韓国での女性差別が一因だろう。儒教の悪影響による男尊女卑、そしてそれに基く職業選択の不自由が売春婦という職業を選ばせているのだろう。アジアで最も美女が多い民族(と私は思っている)であることが災いしたのかも知れない。

日本史

2013-04-09 10:32:02 | Weblog
 中国と韓国は反日教育を続けている。このこともありこの両国の対日感情の悪さは世界1位と2位だ。これに対抗して反中・反韓の教育や報道をすべきだろうか。とんでもない。目には目を、では喧嘩にしかならない。では「徳を以って報いる」べきだろうか。そんな聖人君子紛いのことなどすべきではない。なすべきことは正しい歴史を知ることだ。
 反○○には大きな弱点がある。都合の良いことしか見ないからだ。都合の悪いことは伏せている。こんな歪んだ教育に対して日本人は徹底的に歴史的事実を学ぶべきだ。
 強硬な意見は大抵重要な事実を隠蔽している。論理学で言えば正(テーゼ)しか知らない状態だ。反(アンチテーゼ)を知って止揚(アウフヘーベン)した上で合(ジンテーゼ)のレベルに達して初めて正しい判断が可能になる。但しこれは必ずしも日本政府の公式見解とは一致しない。
 日本が「良い」であろうと「悪い」であろうと、先に結論があれば史実を受け入れられない。総て歪んだフィルターによって捻じ曲げられてしまう。予め結論を持つことなく史実を見てこそ正しい知識が得られる。こうして得られた知は力となる。
 領土問題に関しては多くの日本人の歴史認識は誤っている。日本の領土は総て1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約が基本になる。日本(大日本帝国)は無条件降伏をしたのだからそれ以前の歴史は一旦リセットされたと考えねばならない。これを否定したいなら再度連合軍と戦争をして勝たねばならない。こんな馬鹿なことを考える人は誰もいないだろう。講和条約の重さを理解すべきだ。
 サンフランシスコ平和条約に書かれていることが基準なのがからこの条文を熟読していない人は領土問題について語る資格を持たない。

自然治癒力

2013-04-09 10:05:58 | Weblog
 黄砂のせいかどうかは分からないが月初に物貰いを患った。小学生の時以来だから50年振りのことだ。同居する母から眼科に行くよう勧められたが水洗いをするだけで放置した。現在ではほぼ完治している。
 もし眼科に行っていたら治療したから治ったと思うだろうし、お祓いを受けていたらそのご利益だと信じていただろう。動物には自然治癒力が備わっている。だから大抵の怪我や病気は放っておいても治る。ツバを付けておけば治る、は必ずしも迷信ではない。それどころか傷を消毒すべきでないことまで最近では証明されている。
 治癒が医療や祈祷のお蔭なのか自然治癒力に基くものなのかは検証できない。怪我や病気は個々に異なる1回限りのものなので同じ状態を再現して対応だけを変えることなどできない。
 更に困ったことには、人にはプラセボ(偽薬)効果という曲者がある。これは小麦粉などの本来、薬効の無い物を薬と偽って処方しても、心理効果が働いてかなり高い確率で薬効が現れてしまう現象だ。安心するだけで免疫力が向上するからだ。信じただけで治療効果が上がるのだから詐欺師がこれを狙わない筈が無い。インチキ医療や健康食品やオカルト宗教などがこの市場で儲けようとする。怪我も病気も個々に異なるから検証できないのをいいことに騙し放題だ。
 歯には自然治癒力が無いから歯科医に頼らざるを得ないが、他の治療については医療も含めてかなり詐欺に近いものが横行している。大半の治癒は自然治癒力に基いている。つまり放っておいても治る。薬やお祓いの効果ではない。

選べない

2013-04-07 09:33:17 | Weblog
 マスコミは1票の格差ばかり騒いでいるがもっと大切な問題を忘れていないだろうか。確かに1票の格差など無いほうが良い。しかし有権者が権利を行使できないことはもっと大きな問題だろう。つまり事実上投票権が剥奪されている有権者がいるということだ。
 選択肢が無い選挙区がある。①強過ぎる議員がいる②碌な候補者がいない③選挙協力の犠牲。多分、他にも色々とあるだろう。
 ①強過ぎる議員がいる・・・昔の新潟県なら誰も田中角栄氏には勝てなかった。負け戦と分かっているからまともな対立候補もいない。田中氏に批判的な人は死に票を投じざるを得なかった。
 ②碌な候補者がいない・・・その選挙区にムカデとゴキブリしか立候補していなければどちらにも投票したくない。棄権するしか無い。
 ③選挙協力の犠牲・・・昨年の衆院選挙では大阪などの一部の選挙区で維新の会が公明党支持に回った。維新としては他の選挙区での支援を得るために捨てた選挙区だろうが、そこの住民は他の選挙区では投票できない。党にとってはワン・オブ・ゼムであろうとも住民にとってはオンリーワンだ。維新支持者としては半自民である公明党にも与党民主党にも投票できなかった。
 1票の格差よりも選べない有権者の存在のほうが問題だと思う。自分の選挙区で選択肢の無い人には他の選挙区への投票を認めても良いのではなかろうか。これは選挙区の格差だ。
 もし国会議員が、首長や地方議会議員のように地域の代表なら居住区での人材難と諦めざるを得ない。しかし国の代表なのだから、選挙区ごとの不公平はあるべきではなかろう。

欲求

2013-04-07 09:06:33 | Weblog
 小学校の3年生か4年生の頃のことだ。どういう経緯だったのかは思い出せないが、先生が「行きたくないのに行った場所」を尋ねた。同級生は床屋とか歯医者などを挙げた。私は「便所」と答えて大爆笑を招いた。別に「受け」を狙った訳ではない。大真面目にそう考えたからだ。
 確かに私の答えは異質だ。他の答えはどれも、自分では行きたくないのに親に命じられて行った話だ。私の答えでは親による強制は無い。あくまで自発的な行為だ。他の答えが外因的な強制であるのに対して私の答えは内因的な強制だ。「排泄したい」という欲求と「臭いから行きたくない」という思いが同居している。
 「眠い」や「空腹」は睡眠欲や食欲とされているがこれらは欲求と呼ぶよりも内因的強制だろう。眠りたくない人が沢山いるから違法でありながら覚醒剤が売れ続けているのだろう。
 快適とは欲求が充たされることという定義がある。これに異を唱えたのはソクラテスだ。「体中痒くてボリボリ掻いている人と痒くない人とではどちらが幸福だろうか」と問題提起をした。
 内因的強制から解放されることは決して快適なこととは言えない。単に「不快でなくなる」ということに過ぎない。痒いよりは痒くない状態のほうが好ましい。一方で、内因的強制が無くても快適なものは幾らでもある。例えば良い香りとか快い音楽とか美などが挙げられよう。
 不快からの解放と快適性の獲得とは区別されるべきだろう。空腹からの解放は「何でも良いから食べたい」であり、快適追求は「美味しい物を食べたい」だ。不快でないということと快適とは同義語ではない。

尿管結石

2013-04-05 09:29:20 | Weblog
 尿管結石という病気がある。この病気は内臓の病気としては2番目に痛いと言われている。一番痛いのは急性膵炎だそうだ。
 内臓には痛覚が無い。だから手術では内臓に対して麻酔を使わない。内臓に痛覚が無いのは痛みを感じても対処できないからだろう。皮膚や骨が傷付いた場合、そこを労ることによって悪化を防ぐことができるが内臓を労ることは難しい。肺に傷が付いても呼吸をやめる訳には行かないからだ。
 内臓には痛覚が無いから尿管結石や腎臓結石ではとんでもない場所に症状が現れる。なぜか脇腹が痛むのだ。高校生の時にこの病を患った。脇腹に激痛があり近所の外科医に行って湿布薬を貰ったが一向に痛みが治まらない。その後尿管結石だと分かった。私が対症療法を目の敵にするのはこの経験が少なからず影響しているのかも知れない。痛む場所に対する対症療法が全く役に立たない典型的な病気だからだ。
 他の対症療法も多かれ少なかれ、尿管結石の患者に湿布薬を処方するのと同じ愚を犯している。例えば血圧が高い人には降圧剤を処方する。これは湿布薬のようなものだ。何らかの原因があるから血圧が高くなっているのであり、原因を放置したままで結果である血圧だけを下げても全く治療には繋がらない。これで治ると信じるのは阿呆だけだ。
 尿管結石には予防方法がある。水分を多く摂ることだ。尿の量が増えればカルシュウムなどが結晶化しにくくなる。これは原因が分かっているから予防もできるということだ。原因が分からなければ予防も治療もできる筈が無い。治療は原因に対する対処であるべきだ。

男女の違い

2013-04-05 09:02:27 | Weblog
 私が子供の頃は、男女に生まれ付きの違いは無い、というイデオロギーが罷り通っていた。生まれ付きの違いを認めることは差別だ、という偏見だ。理屈としてはこういうことだ。「人は平等であるべきだ。そのためには男女の違いなどあってはならない。」戦前の男尊女卑を否定するためとは言え、イデオロギーに基くデタラメな理屈だ。当為が事実を否定しているのだから明らかに論理的に誤っている。しかし恥ずかしながら私も洗脳されていた。
 この間違いに気付いたのは大学生の時だ。非常に賢い同級生に出会った。しかし彼女の思考回路がどうしても理解できなかった。散々考えあぐねた挙句、到達した結論は実に単純なものだった。男と女は異なる生き物だ、ということだ。
 男女の違いを認めることは決して差別ではない。違いを認めずに、質的な違いを量的な違いに還元しようとすることこそ差別を生む。
 例えばダイコンとカボチャとの間には優劣は無い。質的に異なるからだ。これを価格とか栄養価とかいった一元論的な基準で判定した場合にのみ優劣が現れる。最も正当な評価は、ダイコンもカボチャも優れた野菜だ、ということだ。
 男と女は同じ社会にいながら異なった心的世界を生きている。これは動物としての宿命だ。人類は哺乳類なのだからオスとメスの役割が違うのは当然であり、そのことは遺伝子レベルで刷り込まれている。それが無ければ絶滅する。
 かつて「話を聞かない男、地図が読めない女」という本がベストセラーになったが、私は競争する男・協調する女、が最も根本的な差異だと思っている。当然のことだがこれは優劣を意味しない。
 差別をする人とは、男女それぞれの特有の長所を認めない一元論者だ。違うからこそ相互に惹かれあう。異質だからこそどちらも正しいのであり、質的に異なるものを偏った基準で一元論的に評価することこそ差別を招く。