俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

美白教徒(続・紫外線恐怖症)

2013-10-23 10:08:27 | Weblog
 昔から日本人には美白願望があった。東北地方が美人の産地と言われるのは肌の白さが一因だろう。明治維新を経て西洋人を見るようになってから白人コンプレックスも手伝ってこの傾向は一層助長された。
 但しこれはあくまで女性による評価だ。男性は必ずしも色白だけを評価した訳ではない。前田美波里さんや夏目雅子さんや南沙織さんやアグネス・ラム、あるいは安室奈美恵さんなどの小麦色の肌が熱烈に支持されたのはその現われだろう。
 男性にとって最も了解困難なのは女性における美白・痩身願望だ。明らかに不健康なレベルの蒼白・痩身が求められている。なぜこんなことになっているのだろうか。
 確かに色黒・デブは美しくない。その否定として美白・痩身が理想とされるならこれは悪しき二分割法の弊害だ。白と黒の存在しか認めなければグレーは「白くない」として否定される。その結果として蒼白・痩身が奨励されているのならこれはとんでもない話だ。
 美白信仰には化粧品会社も大いに加担している。陽焼け止めや美白化粧品の販売促進のためには自然状態よりも異常状態を奨励するほうが都合が良い。つまり不自然なまでに白い状態を奨励すれば反自然である薬品(=毒物)の市場が拡大するということだ。
 化粧品会社は自然状態を否定した。色白を奨励するために陽焼けを断罪し紫外線の有害性を事実以上に吹聴した。このプロパガンダに毒された人が美白のためなら健康を損なっても構わないという美白教徒になった。美白教徒は美白に狂奔することによって自らが斑肌になるだけでは飽き足らず愛児までくる病に罹らせている。
 美白教も痩身教も、美のためなら健康を損なっても構わないという教義を持つ邪教だ。歪んだ美を宣伝して女性を劣化させてでも金儲けをしようという極悪の商業主義の犠牲者が余りにも多い。これらはオウム真理教よりも悪質であり信者数も多い。彼女らをマインドコントロールから解放せねばならない。

予防原則

2013-10-23 09:29:47 | Weblog
 イソップ寓話の狼少年は村人を騙そうという意図を持って「狼が来た」と騒いだ。そのために本当に狼が来た時には誰も助けに来てくれず狼に食べられてしまった。
 では騙そうという意図が無ければ誤報は許されるのだろうか。マスコミは環境ホルモンとかダイオキシンなどを騒ぎ立てたがこれらはその後、大した毒性が無いことが判明した。騒動の渦中にあっても一部の学者は疑問を表明していたが殆んど無視された。これはマスコミによる作為だろう。今、マスコミは地球温暖化の危機を煽っているが私はこれも虚報だと確信している。
 マスコミは予防原則を盾にして自己批判をしない。これは危険か危険でないか分からない時には危険であることを前提にせよという原則だ。それなら関東大震災での朝鮮人虐殺も肯定されるのだろうか。情報が混乱していて何が本当か分からない時に「朝鮮人が井戸に毒を入れている」という注意喚起情報を信じるべきだと考えるのだろうか。危険という情報を過大評価せずに正しい情報に基くべきだろう。
 妙な屁理屈を捏ね回すのは最近の避難勧告の扱いについて疑問を感じているからだ。避難勧告や避難指示はたとえそれが空振りであっても正しく、避難勧告をしないことはたとえそれが結果的には正しかったとしても業務怠慢として非難されている。マスコミがこんな姿勢を取り続けるなら、自治体は責任逃れのために避難勧告を垂れ流すことになり、住民は徐々にそれを信じなくなるだろう。狼少年現象だ。
 一昨年の9月、台風15号の接近に伴い、名古屋市は108万人に対して避難勧告を出した。総人口227万人の名古屋市で一体どうやって避難させられるのだろうか。実際には4,565人しか避難しなかったから事無きを得たが、もし本当に108万人が避難していたらそれこそ大惨事を招いていただろう。名古屋市役所とは違って名古屋市民は賢明だった。
 普段から嘘を垂れ流しているマスコミは名古屋市のこの愚挙を非難しなかったしできなかったが、避難施設も碌に無いのに108万人に避難勧告を出した名古屋市の無責任さには呆れずにはいられない。

対岸の火事

2013-10-22 10:58:08 | Weblog
 中国の大気汚染はいよいよ危機的レベルに達したようだ。大気汚染指数(AQI)が6日の北京で310と6段階の最悪値に達したと思ったら、20から21日にかけて今度は北京から北東に約1000㎞も離れた(日本なら東京・鹿児島間に相当)ハルビンで計測可能限界の500を超えてしまった。従来は北京の南西約1500㎞の重慶の大気汚染が騒がれていたが、汚染は中国全土に広がっているようで、最早、南東の沿岸部以外は人間が住めない場所になりつつある。中国では風が吹かないことが原因と報じているようだが冗談じゃない、風が吹けば日本側に拡散するだけだ。
 恐ろしいことに今がヤマ場ではない。ピークはこれからで冬が本番だ。家庭用暖房の大半が石炭に頼っているからだ。しかもこの暖房器具がとんでもない代物で100年前から変わらない構造の原始的なものだ。数億世帯の中国人民がこれを一斉に使うのだからどうしようもない。
 日本の公害は企業による犯罪だった。足尾銅山にせよ四日市公害にせよ水俣病にせよ、企業が加害者で国民は被害者だった。中国の場合、こんな構図ではない。主犯は国営企業で共犯は中国人民だ。両者が大量のPM2.5を排出する。企業の設備を改善することは可能であっても、数億世帯にまで普及したポンコツ暖房器具を一新することは不可能だろう。
 これでは対岸の火事では済まない。延焼必至の状況だ。
 困ったことに中国はプライドの高い国でしかも独裁制だ。誤りを最も認めにくい条件を2つとも満たしている。外国が非難しても聞く耳を持つまい。自らが誤りを認めない限り改めることはなかろう。
 今でこそヨーロッパ諸国は環境意識が高いが、これは深刻な公害を経験したからだ。光化学スモッグや酸性雨によって酷い目に会っているから環境による報復を恐れている。`A burnt child dreads the fire.'の諺そのままだ。中国にはこれを追体験して貰うしか無かろう。大気汚染による日照不足は必ず農作物の不作を招き農民反乱が頻発するだろう。日本は余計なお節介などせずに諸外国と連携して抗議すると共に、降り掛かる火の粉を払うことに専念すべきだろう。善意に基く干渉など無効であり中国をますます頑なにさせるだけだ。

紫外線恐怖症

2013-10-21 10:12:15 | Weblog
 最近くる病の子供が増えているそうだ。栄養状態が良くなっているのにこんなビタミンD欠乏症が現れる原因は1つしか無い、日光を浴びないからだ。
 福島第一原発の近くに住む人は気の毒だ。放射能が怖いので子供を外で遊ばせることができないからだ。問題なのはそれ以外の地域に住む「母親」だ。多分、くる病の子供の母親は痩せて青白い人が大半だろう。本人が痩せて青白いことをとやかく言う気は無い。個人の自由だ。しかし誤った知識に基いて子供を病気にさせることは児童虐待にも等しい愚行だ。警察が介入しても構わないとさえ思える犯罪的行為だ。
 彼女らは痩せて白いことが美しいと信じている。不充分な栄養しか摂取せず、日傘・帽子・手袋などを使って紫外線を避ける。これは個人の自由だ。たとえ医学的には間違っていても、本人がそう信じているなら他人が指図できることではない。
 彼女らは紫外線が有害だからではなく、色白でありたいために日光を嫌っているに過ぎない。紫外線の有益性について聞く耳など持たない。肌の弱い北欧人でさえ積極的に日光浴をしているという事実など知ろうとしない。色白であることを否定する情報など欲しくない。紫外線は敵という信念を揺るがせたくない。
 しかし子供は別の人格であり彼女らの所有物ではない。子供は正しい健康情報に基いて健やかに育てられねばならない。それが親の責任だ。
 彼女らが知るべきことは皮膚が単なる外装ではないということだ。彼女らは肌がスベスベであればそれで充分だと思っている。大間違いだ。皮膚から太陽エネルギーを吸収せねば病気になる。
 この原稿を書いている時に奇妙な新聞記事に出会った。18日付けの毎日新聞の朝刊で、「卵と乳製品を除去して(中略)ビタミンDが不足した」から子供がくる病に罹った、という内容だった。日光浴には全く触れていない。これは署名記事で記者は女性だった。新聞記者でさえ日光不足の危険性について全く考慮できないのだから一般の女性が知らなくても無理は無かろうが、こんな無知な状態を放置して良いとは思えない。細さと白さのみが美しいという誤った信仰から女性を解放することは喫緊の課題だ。

人智の限界

2013-10-21 09:40:26 | Weblog
 かつて私は、思考力は無限だと考えていた。100万光年彼方の100万年後の世界を想像することができるからだ。瞬時にして時間・空間という物理的制約を超えて無限の力を発揮する奇跡の能力だと信じていた。
 この傲慢な考えを正してくれたのがカントの「純粋理性批判」だった。人間が知り得るのは知覚を通じた狭小な世界に過ぎず、経験に拘束された理性には偏った思考しかできないということを知らされた。地べたを這いずり回る虫ケラが大空を飛翔しているかのように思い上がっていただけだった。
 私が科学と医学に対して特に批判的なのはこの苦い経験に負う。できないこと・分からないことがあるのに傲慢にも「できる・分かる」と主張すべきではないからだ。
 科学は単純で連続的な変化に対してのみ有効だ。逆に言えば複雑なもの・非連続なものに対しては無力だということだ。
 複雑なものの代表例は気候変動だ。気候変動の原因は太陽の活動、地球の活動、人間の活動など無数にある。他の要因を無視して人間の活動の一部に過ぎないCO2の排出が総ての決定因であるかのような仮説は分かり易いが根本的に誤っている。彼らはスーパーコンピュータを駆使したシミュレーションだと言う。全くの子供騙しだ。シミュレーションに使う数値など幾らでも操作できる。危険度3を7に変えたりするだけで望みどおりの結論を捻出できる。
 非連続の代表例は突発的災害だ。地震も山崩れも非連続的な変化なので予測できない。予測できないことを予知可能と見なすべきではない。それは錯覚か詐欺に過ぎない。
 医学は科学以下、敢えて言えば科学以前のレベルだ。現代医学の大半は対症療法に過ぎず、実は毒でもある薬を使って不快な症状を緩和するだけだ。大半の治療行為には治療効果は無く、患者が持つ自然治癒力(免疫力)によって自力で治っているに過ぎない。それどころか風邪に対する解熱剤のように自然治癒力を妨害するような行為でさえ医療と見なされている。
 癌は今もなお不治の病だ。癌は病ではなく老化現象だとさえ私は思っている。私が癌に罹ったら殆んどの治療を拒否して、只管、免疫力の向上に努めたいと思っている。

軽い球

2013-10-19 09:46:02 | Weblog
 今では余り使われない言葉だが、昔は投手の球を「軽い・重い」と評価したものだ。体が大きくてパワーのある投手の球は「重い球」で打たれても余り飛ばない。逆に小柄や細身の投手の「軽い球」はホームランを打たれ易いと言われていた。漫画「巨人の星」の主人公・星飛雄馬は小柄なために球が軽く、その弱点を克服して「大リーグボール1号」を編み出した。
 物理的に考えればこれは誤っている。投手のパワーがボールに乗り移ることなどあり得ない。同じボールを使う限りその威力は速度の二乗に比例する。国民に科学知識が広まるに連れて「軽い球・重い球」の区別は迷信として排除されたようだ。
 しかしこれこそ生半可な知識に基く似非科学だ。軽い球・重い球の違いは実在する。
 大学時代、私の草野球チームには3人の投手がいた。エースは中学時代に実績を残した男で、2番手は高校ではテニス部、3番手は高校野球でショートを守っていた。この第3の男が軽い球の投手だった。それなりにスピードもコントロールもあったのでド素人相手なら通用したのだが、少し野球経験のある者には滅多打ちを食らった。私はキャッチャーだったので相手チームの声がよく聞こえた。投球練習中は「キレの良さそうな球だな」と感心して見ているのだが打席を終えるや評価は一変した。「何て素直で打ち易い球だ」とか「最高のバッティングピッチャーだ」と散々な評価へと変わった。
 高校でショートを守っていた彼は癖の無い球を投げるように仕付けられていた。これは一塁手にとっては捕り易い良い球なのだがバッターにとっては芯に当て易い棒球になる。
 一方、2番手の男はテニス出身なので癖球だった。手元でも微妙に変化した。だからバットの芯を外れることが多く凡打になり易い。彼は所謂「重い球」を投げていた。
 つまり重い球の正体は、球筋が汚く手元で変化する球か緩急の変化があってタイミングが狂い易い球のことであり、軽い球とはバットの芯で捕え易い素直な球のことだ。実際には違いがあっても、生半可な知識に基いて世界を色眼鏡を通してしか見なければ、却って事実が見えなくなってしまう。

させない権利(2)

2013-10-19 09:08:28 | Weblog
 JR東日本ではエスカレータ上を歩かないよう勧めているそうだ。私は「歩く権利」も「歩かない権利」も認めるが「歩かせない権利」があるとは思えない。エスカレータはほぼ歩くのと同じ早さなのでその上を歩けば所要時間は半減して走るのと同じくらいの早さになる。急いでいる人のために片側を空けることは、急ぐ人と急がない人の共存に繋がる良きマナーだと思うのだが、既に定着している習慣をわざわざ改める必要などあるのだろうか。
 よく根拠として使われるのは転倒の恐れがあるということだが、エスカレータ上を歩けば歩数が階段の半分で済む。従って転倒の可能性は階段の半分になるし、走ることと比べれば危険性は1/10以下だろう。
 データによってかなりバラ付きがあるが、日本では階段での事故によって毎年1,000人ほどの人が亡くなっているらしい。エスカレータの年間事故総数が僅か1,200件程度で死亡事故など殆んど皆無であることと比べて階段は非常に危険な場所と言えるだろう。ごく稀にしか起こらない事故を根拠にして、急ぐ人に危険で不便な階段使用を強いることは本末転倒であり、肥大した権利意識に迎合した事勿れ主義者による個人の自由に対する侵害だろう。
 異論はあるだろうが、嫌煙権運動にも同種のものを感じる。煙草の有害性は車の排気ガスや中国のPM2.5よりも遥かに微弱だ。喫煙するかどうかは個人の自由であり、それをマナーやモラルとして抑え付け、果ては副流煙のほうが喫煙よりも有害だなどと誰が考えても嘘だと分かる非科学的なこじつけまでも動員する姿勢には憤りさえ覚える。正しいと信じることを正当化するためなら嘘も厭わないのは邪教の布教活動と全く同じ手口だ。

カタストロフィー

2013-10-18 10:26:02 | Weblog
 台風26号による伊豆大島での土石流災害に関して、事前に避難させなかったことを非難する人がいるが、結果から遡るべきではない。既に起こっていることならその後を予測することは可能だが、未だ起こっていないことがいつ起こるかを予測することは至難だ。
 台風の進路や降水量、あるいは川の氾濫などはある程度予測できる。これらは既に起こったことがどう推移するかの連続的な変化の予測だからだ。
 逆に、地震の発生や崖崩れ、あるいはダムや堤防の決壊などを予測することは困難だ。せいぜい危険性が高いか低いかしか指摘できない。これらの不連続な変化を連続的な変化と同一視すべきではない。
 40年ほど前に「カタストロフィー理論」が話題になった。例えば金属を曲げれば途中まではしなって突然折れる。あるいはロープを引っ張ればある程度まで耐えて突然切れる。こういった不連続な変化を理論化することによって株の暴落や戦争のような惨事を回避できるのではないか、という期待を集めたが、結局、尻すぼみになった。
 物理学が単純なものしか対象にできず複雑なものに対してはお手上げであるように、不連続な変化は予測困難だ。可能なことは、起こった後で、こんな原因があった、と説明することだけだ。これは試合に負けた後で、あれが敗因だったと指摘するようなものだ。それが敗因になると予め分かっていれば誰もそんな作戦など採る訳が無い。
 原因究明の必要性を否定する気は無いが、原因が分かるだけで事故を未然に防止できると考えることは余りにも楽観的だ。このことは交通事故の原因が分かっても事故が無くならないのと同じことだ。
 人智を超えるものは必ずあり、総て予測可能と考えることは地震予知と同様、科学に対する過剰な期待だ。「可能にしたい」と「可能である」とを混同すべきではない。

漫画家の寿命

2013-10-17 09:29:40 | Weblog
 医師や元スポーツ選手(特に力士)の寿命が短いことは割とよく知られているが、漫画家が短命であることも顕著だ。私の特に好きな漫画家5人のうち3人が60代で亡くなっている。
 「漫画の神様」手塚治虫氏は62歳、「サイボーグ009」や「仮面ライダー」などの石ノ森章太郎氏は60歳、「鉄人28号」や「三国志」などの横山光輝氏は69歳で亡くなった。存命なのは「あしたのジョー」などのちばてつや氏と「エイトマン」などの桑田次郎氏だ。
 この2人については特殊な事情がある。ちば氏の場合、実弟でやはり漫画家だったちばあきお氏が41歳で自殺した。その後ちば氏は、印税収入もあるので無理な連載を避けているようだ。桑田氏は漫画家をやめて今では新興宗教の教祖だ。
 なぜ漫画家は短命なのだろうか。社会的地位が決して高くないのに影響力が大きいことが一因だろう。読者数は非常に多い。このアンバランスな境遇のために締切りに追われて無茶な生活を強いられる。ストレスを溜めて徹夜を続けていればどんな健康な人でも病気になるだろう。
 13日に亡くなったやなせたかし氏は94歳だった。やなせ氏の場合、所謂「売れっ子漫画家」とは違って執筆量は余り多くない。「アンパンマン」がヒットしたのは1980年頃で、その後もマイペースで仕事をできる環境だった。
 一方、多くの漫画家は、人気のあるうちにできるだけ多くの作品を描こうとする。これは必ずしも誤った戦略ではない。芸能界でもピンクレディの2人は、人気絶頂期には睡眠時間を2・3時間に削ってまで頑張ったからこそ、今ではあくせく働かなくても悠々自適の生活が可能だ。しかし幾ら人気商売でも健康を損なっては元も子も無い。日本が世界に誇れる偉大なサブカルチャーである漫画界の人材を守る方法は無いものだろうか。

禁止

2013-10-17 08:56:26 | Weblog
 昔から「遊泳禁止」というルールに不満を持っていた。今ではどうなっているのか知らないが20年前の沖縄本島のビーチには縄が張られており、その外に出れば監視員に注意された。離島に行けばそんな規則は無く、沖で自由に泳げた。
 外国にもそんな規則は無く、大半のビーチにはCaution(警告)の看板がありクラゲの大量発生やサメの出没などが告知されており、Guard Yourself(自己防衛せよ)と書かれていた。勿論これは遊泳禁止という意味ではない。
 内外のこの違いはなぜだろうか。海外では沖で自由に泳げるのに国内では「危ないから」と禁止される。小学生ではあるまいし。日本では自由が軽視されている。誰だって死にたくないのだから沖で泳ぐかどうかぐらい自分で判断できるだろう。
 監視員の制度も違う。海外にはLife Saver(救命員)がいるのに日本にはLife Guard(保安員)しかいない。このことだけでも姿勢の違いが現れている。海外では救命が仕事であるのに対して日本では禁止するだけ、つまり沖に行かせないことだけが仕事だ。
 もし日本にグランドキャニオンがあれば間違い無く「立入禁止」にされるだろう。何しろ年平均13人が事故死するという危険な場所だからだ。それでも多くの日本人観光客がわざわざ訪れている。
 危ないからという理由で「遊泳禁止」や「立入禁止」にする権利は認められるのだろうか。私は「自由」が優先すると考える。日本ではお上が民事に介入し過ぎている。余計なお節介ばかりをするから個人の危機管理意識が育たない。危機管理意識が低いから戦場へノコノコ出掛けて人質にされるという醜態を晒す者まで現れる始末だ。
 生肉食の禁止なども過剰介入だろう。国内で禁止されているから日本よりも衛生管理が悪い外国で生肉を食べて食中毒を起こす。こんな余計な干渉は国民のためではなく役人が面倒を避けるためだろう。禁止にしてしまえば厄介払いができるからだ。そのうち河豚料理も茸料理も禁止されるのではないかと私は危惧している。