俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

必勝請負人(続・入試改革)

2013-10-15 10:09:08 | Weblog
 学習塾や予備校が「必勝」を保証することがある。本来そんなことはあり得ない筈だ。もし受験生全員が加入すれば不合格者がいなくなってしまう。実際には一定数の不合格者が生じている。
 では彼らはどうやって「必勝」を保証するのか。不合格者に対して授業料を返還する。こうすれば不満を回避できる。
 今でも医学部などで裏口入学の噂が絶えない。モメるのは不合格になった場合だけだ。大学の有力者に賄賂を納めたのに不合格になった受験生と親族が騒ぎ立てる。
 今のように不正が行いにくい受験制度でも裏口入学の賄賂があるのだから、面接重視になれば面接官は賄賂で大儲けできるようになるだろう。1点100万円、10点1千万円というような形で面接点が市場取引の対象になるだろう。今は試験官の引受手が少なくて困っているらしいが、面接官なら喜んで引受けようとする人が大勢現れるだろう。
 現在の賄賂は前金と成功報酬という形で分割されているらしいが、面接重視の試験制度になれば一回払いが主流になるのではないだろうか。つまり不合格になれば返金するという必勝請負制だ。こうすれば不合格者からの不満を避けられる。こんなことが可能になるのは賄賂市場が拡大するからだ。多くの人から賄賂を集めるためには信頼性が重要という市場原理が拡張するのは当然のことだ。
 考えれば考えるほど面接重視という試験制度は酷いものだと思う。得点が市場で売買されるなら金持ちが有利になり、格差の世襲も今以上に拡大するだろう。そしてこのことこそが入試改革の本当の狙いだろう。公正過ぎる現在の入試制度を不公正なものに変えることが目的であり、「人物評価」など100%嘘っぱちの金持ち優遇制度だ。

させない権利

2013-10-15 09:41:18 | Weblog
 人には「する権利」と「しない権利」はあると思うが、近頃なぜか「させない権利」を主張する人が多い。「子宮頸癌ワクチンの接種を中止せよ」とか「歩きスマホをやめさせろ」とか「臭い柔軟剤を販売禁止にせよ」あるいは「エスカレータ上を歩かせるな」などだ。私は他者に危害を加えない限り「する権利」は最大限に認められるべきだと考えており、こういう「させない権利」には違和感を覚える。
 自由は権利以上に基本的かつ重要な概念だ。「する権利」も「しない権利」も実は「する自由」と「しない自由」から派生した概念に過ぎない。殆んどの国に「自由党」はあるが「権利党」は無い。このことからだけでも「自由」が人間にとって普遍的に重要な概念であることは明らかだ。「自由・平等・博愛」がフランス革命のスローガンであったように「自由」こそ近代社会にとって最重要な概念だ。
 「させない権利」および「させる権利」はそれぞれが他者の「する自由」と「しない自由」を侵害する。「させない権利」は余りにも頻繁にマスコミが取り上げているために正当な主張であるかのように錯覚されているが、これは肥大した権利意識が生んだ妄想だ。
 念のために日本国憲法の全文を読んでみた。「する自由」は1度、「の自由」は4度、「する権利」は9度、「しない権利」は1度登場するが、「させる権利」や「させない権利」は1度も出現しない。代わりに「させる義務」が1度だけ、「子女に義務教育を受けさせる義務」として登場する。
 「させない権利」に類する主張は「権利」という言葉を利用して他者の自由を奪おうとするかなり卑劣で我儘な放言と思えてならない。

引き技

2013-10-13 10:01:02 | Weblog
 大相撲のテレビ中継を見ていると解説者は「引いてはいけない」としばしば言う。確かに引いた力士は大半が負けている。しかし「引いたから負けた」という理屈は原因と結果の混同だと思える。
 相撲には投げ技もあるが基本は押し合いだ。相手を土俵の外へ押し出したら勝ちだ。決まり手も大半が寄り切りと押し出しだ。誰もが相手を土俵の外へ出そうとして前進する。
 人間の前進力は後進力よりも遥かに強く早い。多分2倍以上だろう。押すほうが引くよりも強いのになぜ引くのだろうか。理由は単純だ、押し負けるからだ。
 両者が正面から向き合って押し合えば、力の強いほうが押し勝って力の弱い方は押し込まれることになる。この時点で勝負は半分以上決まったようなものだ。押し負けたほうはズルズルと下がるしか無い。だから「引いたから負けた」のではなく「押し合いで負けたから引いた」のであり、引くことは結果であって原因ではない。
 同様に議論でも押したほうが優勢になり勝ちだ。受身に立ったほうが分が悪い。これは攻撃的なほうが有利になるという意味ではない。攻撃する材料があるから攻撃できるのであって、攻撃される材料を持つ側はたとえ不本意であろうとも受身に回らざるを得ない。これを攻撃したほうが有利になると勘違いをして、変な因縁を付けるヤクザ者やヤクザ国家、あるいはその因縁に対して弱腰な者はみずほ銀行や某国政府などと同様、軽蔑されることを免れ得ない。

入試改革

2013-10-13 09:35:39 | Weblog
 大学入試は見直されるたびに変な方向へと向かうようだ。政府の教育再生実行会議は面接などによる人物評価を重視する大学に対して補助金などで財政支援する方針だそうだ。金の力で教育を歪めようとするのだろうか。
 ペーパーテストは公平だ。名前ではなく受験番号に基いて採点されるので不正の入り込む余地は殆んど無い。一方、面接は極めて主観的だ。親の社会的地位が高いだけで何点かは嵩上げされるだろうし、総合評価という隠れ蓑が使われるので外国籍であることとか顔が悪いとかいったとんでもない差別や偏見であろうとも得点に反映され得る。
 そもそも大学に正しく人物評価をできる人がどれほどいるのだろうか。面接試験の前に面接官の資質を審査する必要がある。
 面接による採点には他にも大きな欠陥がある。極端な採点をする人、つまり良いか悪いか、白か黒かで判定する偏狭な人が実質的に決定権を持ち得るからだ。仮に面接官が3人で、その内2人が10点満点で6点か7点ばかりを付けたとする。もう一人が0点と10点しか付けなければこの人が10点を付けた受験生しか合格できない。
 昨年12月24日付けの朝日新聞の記事によると、秋田大学の医学部の入試でペーパーテストで9割以上を取りながら面接点が0点だったために不合格にされた女子受験生がいるそうだ。面接は密室で行われるのでこの受験生がどんな応答をしたのかは当事者以外には分からないが、錯乱して意味不明な発言でも連発しない限り、0点は無かろう。このように面接は作為の働く余地があり過ぎる。公正な入試でなければ受験生は努力のし甲斐が無い。
 下村文科大臣は「暗記・記憶中心の入試を2回も科す必要はない」と言う。しかしそれは暗記・記憶力だけで解けるような問題しか作れない大学が悪いのであって、受験生の資質のせいではない。理解力・応用力を問う試験問題を大学に作らせようとせずに、阿弥陀籤のような制度で合否を決められては受験生は堪ったものではない。これはあのゆとり教育にも匹敵する愚策だ。

飲酒運転

2013-10-11 10:14:08 | Weblog
 飲酒運転を肯定する気は無いが、飲酒運転を無くせという話は全く都会人の独り善がりであり、地方の事情を無視したものだと感じずにはいられない。
 都会人なら外で飲んだあと電車で帰宅できる。夜間の電車なら素面の人のほうが少ないくらいだ。多くの人は定期券の区間内で飲むから実質的に無料で安全に帰宅できる。
 都会人には安くて安全な「足」が与えられているのに、地方居住者にはそれが無い。自動車だけではなく自転車にまで飲酒運転の罰則が適用されるから、地方に住む人は歩いて行ける範囲で飲むか往復にタクシーを使うかしか無い。都会人は飲酒運転を禁じられても何も不自由を感じないが、地方人は大きな制約を受ける。同じ日本人で同じように納税しながらなぜこのような差別が認められているのだろうか。
 泥酔した乗客から罰金を取ったらどうだろうか。泥酔者は他の乗客にとっても迷惑なのだからこのことには都会人も反対しないだろう。そしてその罰金を基金にして、タクシーで帰る地方の飲酒者への補助金に使えば少しは公平になる。
 飲酒運転の厳罰化は解決策にはならない。それは地方居住者に一方的に不便を強いるだけだ。都会と地方では交通事情が違う。晩酌後に急用が発生した場合、地方人は他の交通手段が無いから飲酒運転をせざるを得ないのであって、安全で合法的な交通手段がありながら飲酒運転をする悪質な都会人と同等に扱うべきではない。全国一律ではなく交通事情を考慮して罰則に差を設けるべきだろう。
 阪神大震災から2年半経った頃には神戸の街は随分復興していた。今の東北地方とは全然違う。政治家も官僚も都会ばかりを見て地方を見ない。地方人の権利は都会人の半分程度しか無いように思える。

海産物

2013-10-11 09:46:25 | Weblog
 寿司が世界中で食べられるようになったことを、日本の食文化が世界に広まったと単純に喜んでいてはとんでもないことになりかねない。食資源としての魚が枯渇することにも繋がるからだ。
 元々、魚を常食する民族は限られていた。日本以外は地中海沿岸と北欧ぐらいではなかっただろうか。せいぜい数億人の規模だった。これに中国人・アメリカ人・インド人などが加わった。更に鯨という大敵もいる。商業捕鯨が禁じられて以来増え続けている鯨が食べる魚の量は全人類が食べる量の3倍ほどらしい。ノルウェーが決して捕鯨をやめないのは、鯨を放置すればシシャモが根こそぎ食べられてしまうからだとも言われている。
 かつてマグロを食べるのは日本人だけだった。今、日本のシェアは3割ほどだ。エビに至っては1割ほどでアメリカや中国よりも少ない。
 日本の消費シェアが高いのはタコだ。日本が7割を占める。これは西洋人が「悪魔の魚」と呼んで嫌っており、ギリシア・イタリア・スペインなどの地中海沿岸諸国以外のキリスト教国人が食べないからだ。
 動物界には棲み分けがある。それぞれが違った環境を選ぶから競争ではなく共存になる。人類も食べ分けをすれば食資源を有効活用できる。以前は魚類を食べる民族は少なかったのにこんなに増えれば競争になり、しばしば買い負けすることもあるそうだ。
 日本人は海草を再評価すべきだろう。海草を食べる民族は少ない。かつて私は海外に住む知人に海苔・昆布・若布を送ろうとして途方に暮れたことがある。どれもseaweedとしか翻訳できないからだ。西洋人にとって海草とは「海の雑草」のようなものなのだろう。
 海草は栄養価に富む水産資源だ。お人好しの日本人はこんな大切な情報を平気で公開する。中国人が昆布の価値を知ったら昆布は絶滅危惧種になってしまうだろう。

二宮金次郎

2013-10-09 10:09:48 | Weblog
 今では殆んど見掛けないが、昔はあちこちの小学校に薪を背負った二宮金次郎の銅像があった。家計を助けるために毎日薪拾いに励み、その道中でも本を読み続けて偉い人になったという教訓だった。私はその話を馬鹿にしていた。昔ならともかく、今、本を読みながら歩いたら交通事故に遭うと思ったからだ。同じように考える人も少なくなかったようで、殆んどの学校から銅像が撤去された。
 今、スマートホンを操りながら歩いている人が多い。街中でも駅でも多く見掛ける。他人とぶつかる人もいれば駅のホームから落ちる人もいる。
 アメリカのアイダホ州では歩きスマホには罰金55ドルが科されるそうだ。歩きスマホを迷惑行為としてこんな罰則を設けたのだろうが、これよりも横一列で歩く集団のほうが迷惑だ。歩きスマホは迷惑ではあっても他人に危害を与える行為ではない。危険なのはむしろスマホ自転車だろう。
 先日、歩道上を大きく蛇行する自転車を見掛けた。歩道一杯に蛇行するから酔っ払いかと思った。実は右手にスマホを持ってスマホを見ながら片手運転をしていた。
 歩きスマホで危険な目に会うのは自分自身だ。これは自業自得であり自己責任だ。しかし自転車スマホなら加害者にもなり得る。自業自得の行為を罰する必要は無いと思うが、危害を与え得る行為なら取り締まっても良かろう。これは室内でナイフを振り回すのと公道上で振り回すのと同じぐらい違う。
 とは言え、歩きスマホの危険性は増している。恐喝に会うという危険が加わったからだ。わざとぶつかったり盗撮をしたと因縁を付けたりする人がいるそうだ。そんな目に会わないためにも自重したほうが良かろう。

食糧

2013-10-09 09:41:12 | Weblog
 現時点では世界の食糧の生産高は人口に見合っている。毎年約1500万人が餓死しているのは富が偏っているせいであり、もし公平に分配されたら誰一人餓えることは無い。しかし現在の人口70億が80億や100億になった時には、現在の食糧生産技術では絶対量が足りなくなる。地表の面積は有限であり、農業や畜産業はいずれ限界に達するからだ。
 蛋白質を得るために牛肉ならその十数倍の穀物が必要だ。つまり十数㎏の餌を与えてやっと1㎏の牛肉が得られる。これは牛が恒温動物であるために多くのエネルギーを基礎代謝に使うからだ。哺乳類を使った畜産はエネルギー効率が悪い。
 今後まず注目すべきなのは魚の養殖だろう。魚類は変温動物なので体温を維持するためのエネルギーが必要ない。しかし骨などのように食用に適さない組織も多く作られる。
 無脊椎動物なら骨が無いから丸ごと食べられる。具体的にはイモムシとゴキブリが有力だろう。イモムシは現在でも多くの地域で食料にされており、ゴキブリは生命力・繁殖力がズバ抜けているから養殖のためには最適だ。無菌ゴキブリなら衛生面でも問題ない。更に原生動物であるミドリムシまで既に日本でも食料として利用されている。
 だんだんゲテモノ食の話になってしまったが、将来の食料危機を考えるなら、現在、食資源とされていない物の有効活用は欠かせない。
 食糧の優先順位は①先進国の人②先進国向けの家畜③後進国の人、であり、後進国の人は家畜よりも冷遇されているから、ここまでやっても食糧が回って来ないだろう。そうなればいよいよ空気や海水からでも食糧を作らなければ飢餓を防ぐことはできないだろう。もう1つの選択肢はこれ以上人口を増やさないことだ。地球上の資源は無限ではない。

白人の目

2013-10-07 10:03:07 | Weblog
 白人の目はなぜ凹んでいるのだろうか。凹んだ目には少なくとも2つの弱点がある。まず視野が狭い。黄色人種や黒人ならほぼ180度が視野に入るが、白人の視野は160度程度らしい。また目が凹んでいれば物との距離が離れる。僅か数ミリの違いであっても、近くの物を瞬時に見届けようとする時にはハンディになる。これらのことから凹んだ目は機能的に劣ったものと思える。しかし生存競争において不利な筈の凹んだ目が定着しているのはこれらを補うだけのメリットがあるからだろう。
 凹んだ目のメリットを考える前に凹んでいるものを列挙してみよう。溝などの排水施設、コンセント、塹壕、堀、エクボ、ヘソ、カッコウの雛の背中の凹み、様々な穴・・・・凹んでいるものは意外と少ないがどうやら安全性と関係がありそうだ。
 余談だがカッコウの雛の背中の凹みはとんでもない「不道徳な」進化だ。託卵するカッコウの雛の凹みは、託卵先の鳥の卵を巣から落とす作業のために最適の構造になっているそうだ。
 閑話休題、安全性を高めるためなら機能性を多少犠牲にする方向への進化も納得できる。動物がアンバランスなほど頑丈な頭蓋骨を持っているのは脳を守るためであり、鉄道や自動車ならたとえ高速性を多少損なってでも安全性に配慮せざるを得ない。
 では具体的に凹んだ目はどう安全性を高めているのだろうか。2つの可能性が考えられる。1つは上からの光を遮断するためであり、もう1つは前からの攻撃を防ぐためだ。
 凹んだ目は上からの光に強い。しかし光から目を守るためなら凹ませるよりも少し濃い色にするほうが簡単にできる適応だ。
 やはり攻撃に対する防御のためだろう。目が凹んでいれば目の周りの骨が眼球を守る。これは白人が乱暴で殴り合いの喧嘩ばかりをしていたということではない。木の枝から守るという意味だ。数十万年の長きに亘って狩猟採集生活を続けていた彼らにとっては森の中で木の葉や枝から目を守ることが重要なことだったからその方向に進化したのだろう。

贋国産米

2013-10-07 09:30:53 | Weblog
 三瀧商事という企業が中国産や米国産、あるいは加工用の米まで混ぜて国産米として販売していたそうだ。情けない話だ。
 情けないのはこの企業だけではない。騙された消費者も情けない。この事件は多分、内部告発によって発覚したものであり、消費者から「不味い」という苦情が殺到したからではなかろう。それだけ味の分からない消費者ばかりだということだ。
 中でも贋の「魚沼産コシヒカリ」を買って気付かなかった人には呆れる。こんな味の分からない人は古々米などの安い米で充分だろう。
 日本の消費者は舌が肥えているという話は真っ赤な嘘だ。国産米と輸入米の区別さえできない人が大半であることが図らずも証明されてしまった。TPPで安い農産物が輸入されれば、実際には質的優位性を持たない国産品はあっと言う間に淘汰されてしまうだろう。
 元々、日本人は識別力が乏しく権威に頼る傾向がある。自分の味覚ではなくブランドに頼っている。「魚沼産コシヒカリが一番だ」と言っている人の一体どれだけがその良さを識別できることやら。
 昔の話だが、洋酒と言えばジョニ黒とナポレオンという時代があった。ウィスキーとブランデーの区別さえできない人が、高価な洋酒だということだけで有難がって飲んでいた。その頃から少しも進歩していない。味ではなく名前と価格が価値を決めている。日本人の食文化は呆れるほど底の浅いものだ。
 味に限らず、日本人には主体性が欠けている。流行に流される。「半沢直樹」の視聴率が高いと聞けば我先にと見るから更に視聴率が高まる。ベストセラーと聞けば遅れまいと購入する。日本人は今なお付和雷同し続けている。これでは文明人ではない。自分で良し悪しを判断できず、味覚も意見も借り物なのだから、人間以下の畜群だ。マスコミや政治家にとってこんな操り易い獣は世界中どこにもいない。