俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

老後

2014-04-12 10:16:48 | Weblog
 人は生活費を得るために働く。もし金銭的報酬が無ければ誰も働かないだろう。人は自分の時間を売って生きる。言い換えれば自由を換金している。それなら自由は金で買える筈だ。
 金からの自由は時間の自由だ。サラリーマン時代、私の時間の大半が企業のものだった。勤務時間中だけではなく、殆んど毎日、仕事を持ち帰っていた。三十余年間、仕事のために時間を費やしていた。この期間があるからこそ今の貯えも年金もある。しかし無駄な時間だった。大半が業界内どころか社内でしか役に立たない知恵と知識だ。この期間にもっと学問やスポーツに励んでいたらずっと賢く健康になっていただろう。
 この三十余年のハンディは大きい。私が社内でしか役に立たない知識と知恵を蓄えている間に学者は学識を深め、アスリートは体を鍛えていた。この遅れを取り返すことは不可能だ。
 企業は人の一番良い時間だけを奪う。20代から50代の自立できる期間だけ雇用してその後は使い捨てる。定年が60歳から65歳に延長されることによって自由な時間は一層短くなる。
 老後になって自由を得てもそれはかなり不自由な自由だ。若い内の自由こそ望ましい。頭も体も若い内でなければ鍛えられないということをこの歳になって初めて知った。鍛えても現状維持が精一杯だ。これを虚しいことと思わずに、元気でいられることを喜びとするように意識を変革する必要がある。
 長寿社会になったとは言え年々老化することは避けられない。視力は衰える一方で回復することは無かろう。感情や気力まで衰える。老化すればするほど楽しめることが減ってしまう。金銭的に余裕があればリタイアは早いほど良い。早いほど自由を満喫できる。

乱交

2014-04-12 09:41:55 | Weblog
 チンパンジーの群れが争うことがある。多分、多くは縄張り争いだろう。流血の惨事になるかと思いきや、意外な、全く意外な形で終結する。争っていた筈のオスが相手の群れのメスと交尾を始めるからだ。戦闘が突然、乱交パーティに変わる。これは一体全体どういうことなのだろうか。
 チンパンジーは人間に最も近く、最も賢い動物だろう。この乱交は本能でありかつ知恵の現れと思える。
 この乱交パーティの価値は高い。種にとってダメージとなる筈の状況が種の多様性に繋がるからだ。闘って怪我や死を招く筈の状況が、近親交配を避けてお互いの群れの遺伝子の交流というメリットを生む。チンパンジーは進化のプロセスでこんな驚異的な繁殖システムを築いたのだろう。
 進化は時折、奇跡としか思えないようなことを仕出かす。例えば目の機能だ。こんな便利で複雑な器官は全知全能の神でなければ創れないとして進化論を否定する根拠として使われたものだ。集団行動の進化としてチンパンジーの乱交はそれに匹敵するほど優れた仕組みだろう。
 チンパンジーの近縁種である人類は当然これに類似した本能を持っているだろう。ベトナム戦争で韓国兵は多くのベトナム人女性を強姦した。戦場という極限状況で、明日も知れぬ我が身ということから子孫を残そうとして先祖返りをしたのかも知れない。幸いなことに従軍経験の無い私には窺い知れないことだ。しかしこれが最大3万人(「釜山日報」より)と言われるライダイハン(大韓混血児)という問題を残した。キリスト教徒の多い韓国人は「汝の敵を愛せ」という神の教えに忠実だった。もし可能ならその時だけ愛するのではなくその後のことまで責任を果たして欲しいと思う。
 チンパンジーの乱交は群の融和という平和維持システムになっている。これはメスによる献身的行為だろう。そんなシステムを理解せずに暴行に終始したのなら韓国人はチンパンジー以下の動物だ。
 韓国で売春が禁止されたのは2004年のことだ。それまで売春は公認されて外貨獲得にも貢献していた。当時の妓生観光に参加した日本人も少なくない。単に過去の話だけではなく今でも世界有数の「売春婦輸出大国」だ。そんな国から「性奴隷」とか「強制連行」などと言い掛かりを付けられることは不愉快だ。オランダ人に批判されるのならともかく韓国人にそう言われる筋合いは無い。その場凌ぎの宥和のために譲歩し続けた日本政府の日和見外交が生んだ禍根は重大だ。

過失相殺

2014-04-10 10:19:50 | Weblog
 民法には過失相殺という概念がある。これは素晴らしい考え方であり刑法や憲法あるいは国際法にも導入して貰いたいと思う。
 例えば歩きスマホでぶつかった場合、歩きスマホ側が一方的に悪い訳ではない。多分、相手側も余所見をしていたからぶつかったのだろう。歩きスマホ側には客観的な落ち度があり、相手側の落ち度は曖昧だ。これに白黒を付けようとするなら歩きスマホ側が悪いということになる。こんな時に便利なのが過失相殺だ。歩きスマホ側の落ち度を8割、相手側を2割とする。言わば喧嘩両成敗だ。
 暴力を肯定する気は無いが、暴力に訴えた側が一方的に悪いとする風潮にも賛同できない。シカトなどの非暴力のいじめに対して暴力を使った場合、暴力を使った側が一方的に悪いとされる。悪者にされないためには被害者になるしか無い。だから自殺という手段に訴えて究極の被害者になる。
 刑事裁判でも多くの被害者は決して無辜ではない。借金を返さないなど様々な悪事を重ねていることが少なくない。積もり積もった怒りをぶつけた加害者を一方的に悪人とすることには納得できない。過失相殺に相当する概念があるべきだろう。「情状酌量」が近い意味で使われるがこれは裁判官による温情判決だ。もっと積極的に被害者側における違法行為を考慮すべきだろう。
 中国は尖閣諸島で日本を挑発する。国際法では挑発に乗せられたほうが悪いとされるが、度重なる挑発に問題は無いのだろうか。アメリカによる挑発に乗せられて開戦した大日本帝国は愚かな選択をしたが、挑発した側に全く責任が無いとは思えない。
 原因と結果は一対一対応するものではない。小さな悪事を積み重ねれば「点滴石を穿つ」ということにもなりかねない。耐えかねて報復する者だけを断罪するのは片手落ちだ。
 昔から「泥棒にも三分の道理」と言うように加害者が100%悪いとは限らない。通り魔事件は論外だが、刑事事件で被害者を善、加害者を悪と決め付ける善悪二分論には疑問を感じざるを得ない。悪事を重ねたからこそ被害者になった人は決して少なくない。

リケジョ(2)

2014-04-10 09:47:14 | Weblog
 昨日(9日)小保方晴子博士による記者会見が行われた。悪意がある質問にも誠実に答えようとする姿勢には好感が持てた。実は私はこの記者会見に危惧を抱いていた。泣き出してしまって充分な質疑応答ができないのではないかと心配していた。しかしこれは本当に失礼な思い込みだった。博士は感情的にはならず淡々と応答していた。流石は一流の科学者であり「強い女(ひと)」だ。
 博士の立場は微妙だ。理化学研究所は「小保方個人による捏造・改竄」と発表したその日に博士との雇用契約を更新していた。この理研の行動が全然理解できなかった。捏造・改竄する研究者となぜ契約更新したのか全く分からなかった。研究できる状態ではないのだから契約保留にしておけば充分だろう。わざわざ更新したのは発言を封じるためだったのではないかと私は勘繰っている。
 もしクビになっていれば何の遠慮も無く反論できる。しかし組織内部の人間でありしかもこの職場で働き続けることを希望しているのだから遠慮せざるを得ない。下手に理研を攻撃し過ぎれば今後働きにくくなる。だから理研攻撃を極力避けてあくまで研究内容の釈明に終始せざるを得なかった。
 科学は宗教とは違って、信じる・信じないではなく実証できるかできないかで決まる。しかし生物学の証明は難しい。個体差があるからだ。水素と酸素を化合させれば水ができるような単純な反応ではない。ある薬が人によって毒にも薬にもなるように生物は複雑だ。物理学の実験のように簡単には再現できないという弱点がある。
 今後、STAP細胞の存在が証明されるかどうかは分からない。しかし博士が誠実な人であることはよく分かった。私は研究者には謙虚さと自信という相矛盾する資質が必要だと思っている。他者による批判を受け入れる謙虚さと成果に対する自信だ。博士にはこの両者が備わっているようだ。
 職場からもマスコミからもあれだけ袋叩きに会いながら逃げも隠れもしない勇気にも敬服した。私なら耐えられない。その一方で、説明責任を果たさずに逃げと隠れに徹して挙句の果てに「妻の口座」という新技の言い逃れを使った渡辺某には博士の爪の垢でも煎じて飲ませたいものだ。彼は逃げ回っている間、只管、言い逃れ方の研究をしていたのだろう。個人に責任を押し付けて責任逃れを図る理研の幹部も含めて卑怯な男ばかりが目立つ今日この頃だ。

邪教

2014-04-08 10:06:14 | Weblog
 邪教は間違った宗教だ。邪教は二重三重に悪い。邪教は人を正しい道へと導かずに悪事を重ねさせる。正しい教えを最も妨害するのは邪教だ。邪教は滅ぼさねばならない。邪教徒を殺すことは邪教徒本人のためにもなる。それ以上悪事を重ねることからの解放だからだ。
 こんな無茶苦茶な理屈を使うのはオウム真理教だけではない。キリスト教もイスラム教もあるいは日本の鎌倉仏教もこんな理屈に基づいて宗教戦争を続けていた。日本から宗教戦争が無くなったのは一重に織田信長の功績による。こんな理不尽な集団を武力で鎮圧して強制的に武装解除をさせたからだ。
 織田信長や徳川家康などがキリスト教を嫌ったのは排他性が顕著だったからだろう。一神教であるキリスト教は鎌倉仏教以上に排他的かつ暴力的だった。こんな危険思想を認める訳には行かなかった。
 理性に基づいて信じたことであればそれに背く事実を提示することによって考えを改めることができる。しかし理性に基づかずに信じていることを反証することは不可能だ。宗教が論争にならず対立の火種になるのはこんな事情からだろう。宗教に頼った秩序や平和は贋物だ。嘘に基づく安泰は砂上の楼閣に過ぎない。
 共産主義もマルクス教という宗教だった。論理ではなく教条主義が支配していた。共産党あるいは独裁者の決定が事実よりも優先する。だから邪教徒は粛清される。ソ連・中国・カンボジア・北朝鮮などでの大量粛清の歴史はこのことを証明する。
 事実は必ずしも美しくない。どんな美女でも性器は醜い。美人モデルがみっともない姿を晒すこともある。事実に対しては清濁併せ飲まねばならないが虚構なら常に美しいものであり得る。だから人は事実よりも虚構を好む。宗教という嘘に頼ることは虚構を愛して事実を否定することだ。虚構と虚構との対立であればまともな方法では解決できない。

英語教育

2014-04-08 09:39:37 | Weblog
 近頃は小学校でも英語を教えているがこれは必要なことだろうか。優先順位が違うだろう。小学生に必要なのは日本語教育と情操教育と体育だろう。これらを疎かにしてまで英語を学ばせる必要は無い。私自身、この歳になっても毎日、日本語力の不足に悩んでいる。文章を書いても修正に次ぐ修正で元の文章が跡形も無くなるほど表現力が拙い。日本語力の向上は私にとっては今尚、大きな課題だ。
 英語を学ばせるよりも国語教育の見直しのほうが急務だろう。そもそも教師が国語教育の重要性を理解していない。日本語なんて自然に身に付くと思っているから授業では教科書を読むだけ、試験では漢字の読み書きで点差を付けることしか考えていない。
 国語教育で最も重要なのは読解力と表現力だと私は考える。つまり思考力だ。国語教育を通じて思考力が育まれる。
 意外と気付かれないことだが、言葉が変われば思考パターンも変わる。日本語では「会議で決まった」だが英語なら「(我々が)会議で決めた」と表現する。私は英語を使うと自己主張が強くなる。それは`I want'と明確に意思表示をするからだ。そんな文法だからそう考えてそう表現する。個人的には極力言葉以前のレベルで考えようとしているが表現するためには言葉に頼らざるを得ない。アインシュタインは「科学者は頭の中では数式を使わない」と言っているが表現する時には数式に頼る。
 他の言語により他の思考パターンを身に付けることは必要だがそれは第一の思考力が身に付いてからでも充分だろう。ある調査によると日本語力の高い人ほど英語修得能力も高いそうだ。
 外国語を修得するためには多大な時間が掛かり、その割に役に立たない。私は英・独・仏・ラテン・ギリシア語を学んだが、海外旅行での英語以外は殆んど使うことは無い。外国語の学習は実際に使う機会の無い人にとっては全く役に立たないものだ。英語教育に貴重な時間を割くぐらいなら道路交通法でも教えたほうがずっと有益だろう。
 小学生に必要なのは国語教育と情操教育と体育だ。しかし情操教育もまた酷く歪められて道徳教育にされつつあるようだ。体育は東京オリンピックのためのスポーツエリート養成が偏重されそうだが重要なのは全員の基礎運動能力の育成だろう。こんな変な教育ばかりをしているようでは日本の将来が心配になる。

2014-04-06 10:00:21 | Weblog
 明治の初めに来日したドイツ人医師のベルツは「日本人は長州人と薩摩人によって構成されている」と記録した。長州人とは弥生系であり、薩摩人とは縄文系のことだ。日本人自身は余りにも身近で見過ぎているためにこの違いが分かりにくいが外国人にはよく分かるらしく似た話をしばしば聞く。
 縄文人は雑種民族だ。西・南・北からバラバラに集まった種族が日本列島に隔離されることによって縄文人になった。その後、紀元前4世紀頃から大陸あるいは半島から渡来する人が増えて、縄文人と混血して弥生人になったとされている。その流入ルートは主に北九州と山陰だが、政治・文化の中心地であった近畿に居住する人が少なくなかった。
 ブラッド・ピット氏は失顔症で顔の識別力が乏しいそうだが、彼が異常であると言うよりも人間が顔に極度に敏感であることのほうが不思議なことだ。どの顔も目が2つで鼻と口は1つ、みんな同じようなものだ。慣れ親しんでいるからこそ微妙な違いを識別できるのだろう。
 昔、西洋人は東洋人の顔を区別できないと言われた。皆、同じ顔に見えたそうだ。国際交流が盛んになった現代では昨年のミスコリア候補者以外なら見分けできるだろう。日本人は今でも黒人の見分けが苦手だ。流石にオバマ大統領なら分かるが、典型的ネグロイドを見分けることは苦手だ。
 結局、よく知っていれば区別できて見慣れていなければ区別できないということだろう。若い人には老人が同じように見え、中高年者の多くはAKB48のメンバーが区別できない。
 脳はかなり怠け者であり慣れ親しんだものが好きだ。同じ音楽を何度も聞けば好きになるように、見慣れた顔を好むようだ。「美人は3日で飽きるがブスは3日で慣れる」と言うが慣れることは飽きることにも繋がる。ハーフを特に美しいと感じるのは親近性と新奇性のバランスが絶妙だからだろう。

資産税

2014-04-06 09:25:50 | Weblog
 消費税が実は資産税であることに気付いた。現金資産に対する課税だ。
 現役時代はそう感じなかった。収入があったからだ。消費税率が上がってもその後に収入があるので余り痛みを感じなかった。ところが引退すれば虎の子の現金資産が目減りすることが分かった。
 老後のために1000万円貯えたとする。消費税が無ければ1000万円をそのまま使える。ところが消費税率が10%であれば909万円しか使えず91万円は税金として取り上げられる。消費増税によって現金資産が目減りするということだ。
 消費税は逆進性ばかりが問題にされるが現金資産が目減りするということには誰も注目しない。殆んど金利の無い預金にしていれば財産が劣化してしまう。
 現金資産が目減りするからと言って現物資産に投資しても困ったことを招く。投資の本命は消費税の対象外の土地だろう。人口減少社会においては人は都市に集まり地方は過疎化するから都心の地価は上昇して地方では下落する。当然、投資は都心に集中する。老人の資産が都心の土地に投資されて地価が上がっても有効活用されることは少なかろう。資産にすることが目標なのだから塩漬けにして値上がりを待つ。そんな状況では都心で働く人のための土地供給が不足するから土地が更に値上がりして、都心で働く人が近郊ではなく遠隔地に居住することを強いられるようになるだろう。通勤時間が長くなって働くためには不便になる。投資が労働条件を悪化させる。
 もっと困る消費税対策は、消費税の無い国に移住することだ。物価が安くて消費税の無い国に行けば国内より数倍贅沢な暮らしが可能だろう。しかしこれは資産の流出であって国内産業にとって好ましいことではない。それどころか1000兆円と言われる老人の資産が海外に流出してしまえば国家財政が破綻してしまいかねない。

注意報

2014-04-04 10:01:35 | Weblog
 津波注意報が3日午前3時から午後6時まで延々15時間に亘って出され続けた。しかし2日の午後11時頃の時点で危険性が殆んど無いことが分かっていた筈だ。ハワイやニュージーランドなどで被害が無かったからだ。
 ではなぜこんな無意味な注意報がやめられなかったのだろうか。被害があれば非難されるからだ。豪雨や豪雪を予報できなければ非難される。それを回避するために予報は常に大袈裟なものになっている。これは困ったことだ。イソップ寓話の狼少年と同じように、本当に危険な時に信じて貰えなくなる。
 私は降水確率を6掛けにして判断している。それは降水確率が常に高目に発表されているからだ。読売新聞が検証した結果も私の経験則と全く同じで6掛けだった。明らかに気象庁は降水確率を高目に補正して発表している。
 NHKが伝える気象情報も自分勝手に修正している。降水量1㎜/時の予報であればその前後の時間帯の予報も参考にして、大半を確率ゼロと判断する。1日中1㎜/時と予報された日に実際に雨が降る時間帯は殆んど無い。意味があるのは2㎜/時以上の時だけだ。
 降らないと予報して降れば多くの人が不満を持つ。降ると予報して外れても余り咎められない。だから気象庁は常に降水確率を水増しする。これは意図的な情報偽装だ。
 危険に関する情報は常に水増しされる。環境汚染も食品添加物も地震も大袈裟に騒ぎ立てるが殆んどが空騒ぎだ。ダイオキシンや合成保存料による被害者など国内には一人もいないだろう。
 こんな変な状況になるのはマスコミが危機を煽るからだ。騒げば視聴率も発行部数も増える。危機を煽って架空の鬼の首を取ろうとするからだ。予報は正確であることが最優先だ。危険と騒ぐことによって自らの安全を図ったり儲けようとすべきではない。これは責任逃れという無責任だ。

リケジョ

2014-04-04 09:32:30 | Weblog
 マスコミはリケジョ(理系女子)が嫌いなのではないだろうか。小保方博士がSTAP細胞について発表した時に、発見そのものを評価するよりも博士をまるでパンダのように扱っていたことに違和感を覚えたが、一転してペテン師扱いをするのは元々あった悪意が露呈したのではないだろうか。
 マスコミは「小保方による捏造・改竄」に終始する理化学研究所の弁明に疑惑を感じないのだろうか。これは政治家の「秘書がやった」と同じ、トカゲの尻尾切りだろう。共同研究において一人で捏造・改竄をすることは不可能だろう。
 私自身は元々が理科系だったので感じないのだが、多くの文科系の人は理科系の人に妙な偏見を持ち勝ちだ。物事を単純化し過ぎると考える。困ったことに記者の大半を占める文科系出身者には理数科が苦手だった人が多い。自分と違ったタイプの人を好む人と嫌う人がおり、後者にとってはリケジョは嫌いなタイプだろう。
 北杜夫氏は「私より背の高い女はゴリラのようなものだ」と書いてボロクソに非難されたそうだが、背が高いことや力が強いことや理数科が得意なことなどは「女らしくない」と捉えられるようだ。
 感情的になると大切なことが忘れられる。理性は大脳皮質が司っているが、感情反応はそれよりも原始的な部分で起こる。今回の騒動で最も大切なことはSTAP細胞が存在するかどうかとなぜすぐにバレるような偽装をする必要があったのかということだと思うのだが、これらが曖昧なままにされているのはこれが感情反応だからではないだろうか。
 ノーベル賞受賞者の山中教授の応答は流石に科学者らしく冷静だ。「再現実験の結果を待ちたい」とのことだ。科学は仮説の検証によって発展する。間違っていれば改めれば良いことだ。この検証可能であることこそ科学の最大の長所だ。検証を怠ればオカルトや神話や誤報になってしまう。