俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

エネルギー

2014-06-20 10:18:46 | Weblog
 自動車であれ飛行機であれエネルギーがあれば動く。このことから類推してカロリー論が生まれたと思われる。エネルギー万能主義の一元論がまるで科学そのものであるかのように誤解された時代があり、これが敷衍されてフロイトのリビドー論や栄養学のカロリー論に繋がったものと思える。
 しかしこの類推は大きな見落としをしている。機械にはエネルギーだけではなくメインテナンスが必要だ。部品の修理・交換や連結部の円滑化などが欠かせない。これを怠れば機械は正常に稼動しなくなる。カロリー論ではこの視点が欠けている。動物はメインテナンスのための素材を食物として摂取せねばならないということが忘れられている。
 人体は約7割が水分で残りの大半が蛋白質と脂質だ。つまりメインテナンスを担う栄養素は蛋白質と脂肪であり、エネルギー源にしかならない炭水化物とは全く別枠で考える必要がある。
 蛋白質と脂肪はまずメインテナンスのために使われる。使いきれない分だけがエネルギー源にも充当される。
 炭水化物はエネルギー源としてしか使い道が無い。だから余った分は脂肪に変形して蓄えられる。この脂肪はあくまで備蓄のためのものであり、人類は必須脂肪酸を合成する能力を持っていない。必須脂肪酸は食物として摂り入れるしか無い。つまり必須脂肪酸と皮下脂肪・内臓脂肪はどちらも「脂肪」と呼ばれているが全く別の物だ。
 日本人は蛋白質と必須脂肪酸を充分に摂取しているだろうか。多分、不充分だろう。特に脂肪は高カロリーとして忌避され勝ちだ。ここにカロリー主義の欠陥がある。摂取される脂肪の主たる用途はメインテナンスだ。メインテナンスに使った残りだけがエネルギーとして使われる。つまり現代の栄養学の常識とは違って、脂肪がカロリーとして使われるのはそのごく一部に過ぎない。摂取される脂肪の多くは体細胞のメインテナンスに使われるのでカロリー源としては大きくならない。どちらも「脂肪」と呼ばれているので混同され勝ちだが必須脂肪酸と体脂肪・内臓脂肪は全く別のものだ。
 蛋白質についても同じことが言える。蛋白質も大半がメインテナンスに使われるのでカロリー源にはなりにくい。
 炭水化物偏重の食事を続ければメインテナンスをしない機械のようになる。つまりポンコツの自動車に満タンのガソリンを入れているようなものだ。これでは燃費が悪いしすぐに故障してしまいそうだ。栄養学の根本的な見直しが急務と思われる。

第一の性

2014-06-20 09:41:08 | Weblog
 シモーヌ・ド・ボーボワールの「第二の性」にはこう書かれている。「人は女に生まれるのではなく女になる。」残念ながらこれは生物学的にも社会学的にも間違っている。作られるのは女ではなく男のほうだ。
 動物の基本型はメスでオスは改造型だ。それもデキの悪い変異体だ。進化のために都合の良いだけのバラツキの多い実験体だ。男とは実は「出来損ないの女」に他ならない。
 動物は総てメスとして発生する。その後、オスの遺伝子を持つ者は改造される。当初、人類のオスにはメスと同じワレメがある。男性性器に継ぎ目があるのはその痕跡だ。継ぎ目は男性性器と頭蓋骨にしか無い極めて例外的な構造だ。
 外食をするなら様々なメニューから選びたい。牛丼やラーメンの単品の店よりもメニューの豊富な店のほうが便利だ。客が贅沢になれば牛丼店は定食を出し、ラーメン屋は餃子や炒飯などを提供する。
 背の高低、知能の優劣、容姿の美醜、何でも構わない。オスが適度にバラ付いてさえいればメスは自分の好みのオスを選べる。メスが選ぶ側でオスが選ばれる側であることは動物界ではほぼ普遍的な事実だ。人類のオスが見境無く発情するのは無節操だからではなく、元々、選択権など持っていなかったからだろう。
 人間社会の支配者は実は女性だ。元々、協調的ではない男が無理やり社会に適応させられて社会的動物に改造される。このことは男女を動物に喩えてみれば理解し易い。多くの人は女を猫に、男を犬に喩えるだろう。猫は野性に近い我儘な動物だ。人は無意識の内に、女は自然体であり、男は鎖に繋がれた惨めな動物であると考える。寿命も女のほうが長い。「夫とは鵜飼の鵜のようなものだ」という嘆きを聞いたことがある。男は社会の歯車として限界まで働かされる。男とは使い捨ての部品のようなものだ。こんな惨めな境遇が男の一生だ。「♪何のために、何を夢見て、歯を食いしばり働いて死ぬのか♪」(フォーク・クルセダーズ「何のために」より)
 女性を男性社会に引き摺り降ろそうと一部の男が企んでいるようだが、聡明な女性であればこんな悪意ある嘘に騙されることは無かろう。女性には現在の恵まれた境遇を守る権利がある。日本は専業主婦と退職者だけが自由であり得る奇妙な社会だ。

10大誤審

2014-06-18 10:09:32 | Weblog
 サッカーのワールドカップ・ブラジル大会の真っ最中だが、FIFAは2006年に創立100周年を記念したDVDを発売しその中で10大誤審も発表した。DVDなので映像が残っている1962年以降しか選ばれていないが、驚くべき内容だ。
 1位はアルゼンチンのスーパースターのマラドーナによる「神の手」だ。1986年のメキシコ大会の対イングランド戦でのことだ。
 6位から9位には呆れる。総て2002年の日韓大会でどれも韓国に有利な判定だ。6位・7位は対イタリア戦で、8位・9位は対スペイン戦だ。ここまで極端だと単にホームタウンデシジョンとは言えまい。八百長だろう。昔は「中東の笛」が問題にされたものだが今では韓国の笛のほうが酷いようだ。
 審判だけではなく選手にも問題がある。ラフプレイが多いので韓国との親善試合は嫌われ勝ちだ。実際に試合を見ていても審判の目を盗んだ反則が非常に多い。日本の「お行儀の良い」サッカーとは大違いだ。
 勝つために手段を選ばないのが韓国の特徴だ。だからこそソチ・オリンピックで金ヨナ選手が銀メダルに終わったことにクレイムを付ける。自分達が日常的に不正をしていることを投影して審判団による不正があったと決め付ける。これはスポーツだけではなく政界や芸能界などにも蔓延している。隣国であっても「和を以って貴しと為す」日本とは余りにも違い過ぎる。
 私自身、仕事上で韓国の企業と付き合ったことがある。相手に大使館による推薦を求めたところ、かなりいかがわしい企業も含めて殆んどの企業が最も良い企業とのお墨付きを持って来たことには心底呆れ果てた。どうやら大使館員が勝手に公印を使って公文書を乱発しているらしい。公文書でさえこんな有様なのだから契約など全くアテにならない。中国から夜逃げする企業が後を絶たず社会問題化しているそうだ。不正が蔓延る韓国を文明国扱いすべきではないようだ。

安全な社会

2014-06-18 09:39:25 | Weblog
 安全な社会は同時に低コストな社会だ。呼吸をするためにマスクは要らないし殆んどタダ同然で清潔な水道水が飲める。護身のために武器を携帯する必要も無ければ自宅に警備システムを備える人も殆んどいない。女性や子供の一人旅でも安心だ。
 アメリカやフィリピンなどの宝石店には銃で武装した警備員が常駐する。その警備員が強盗になったら大変だから身元の確かな人をある程度高給で雇わざるを得ない。実際に銃を使うことは殆んど無いのだから全く予防だけのための投資であり高過ぎる保険料だ。
 万引きが多ければ経営が圧迫される。万引きロスまで織り込んで売価が設定されればその割高な価格を負担させられるのは善良な消費者だ。
 かつてイザヤ・ベンダサン(山本七平氏)は「日本人とユダヤ人」で「日本人は、安全と水は無料で手にはいると思いこんでいる」と衝撃的な指摘をして多くの人が目から鱗が落ちる思いをしたものだ。44年も前のこの指摘を改めて噛み締めるべきではないだろうか。安全な社会の有難さを日本人は再び忘れてしまっている。
 日本は世界で一番安全な社会だろう。ブラジルに限らず海外旅行をすれば日本がどれだけ安全かを痛感せざるを得ない。海外旅行初心者の頃の私は散々嫌な思いをして、怖くて夜は出歩けずホテルに籠っていたものだ。
 この安全な社会を破壊すればそれは国民にとって大きな負担となる。経済的な負担だけではない、精神的な負担も大きい。相互信頼の社会が相互不信に変われば憎悪の連鎖さえ起こるだろう。安全な社会が急激に危険な社会へと変わり得る。
 低賃金労働者の安易な輸入に私は断固反対する。それは日本中に西成や山谷のドヤ街を拡散させるような愚行だ。国民の安全を守るべき政府が国民を危険に晒すような政策を選ぶべきではない。低賃金労働者の輸入は外国人からの搾取であり奴隷の輸入にも等しい蛮行だ。外国人であれば低賃金でこき使っても構わないという人種差別でもある。こんなやり方は本人のためにも日本のためにもならない。働いていない高齢者や女性などを有効に活用できれば充分に日本の社会を維持できる。外国人からの搾取に頼るべきではない。悪業に頼ればそれはもっと酷い事態を招く原因ともなり得る。

第三新卒

2014-06-16 10:05:06 | Weblog
 和民やすき家などで求人難による閉店が発生しているそうだ。これが少子化が招いた問題であるなら解決策は当然、高齢化に求めるべきだろう。つまり学生アルバイトの代わりに高齢者を雇えば良い。
 内閣府が13日に発表した調査によると、60歳以降も働きたいと考えている人が81.8%を占めているそうだ。しかし勤労意欲のある人が充分に活用されているとは思えない。既に人生から半分降りた私なら今更フルタイムで働きたいとは思わないが、外国人労働者の輸入より先に、勤労意欲のある高齢者の完全雇用を実現すべきではないだろうか。彼らが働かない最大の理由は、人を馬鹿にしたような最低賃金以下の仕事しか斡旋されないからだ。
 児童福祉法があるので子供の雇用は制限されるが高齢者の雇用に関する規制は無い。認知症や病弱者でなければ労働力、それも上質の労働力だ。新卒者とは違って充分な社会内訓練を受けており、修羅場を経験した人も少なくなかろう。中には、新卒であれば到底雇えないような高度な能力を備えた人もいるだろう。こんな人を低賃金で雇えるのだから第三新卒は宝の山とさえ思える。
 高齢者を一括りにして考えるべきではない。高齢者の格差はどの世代よりも大きい。極端な言い方をすれば勝ち組と負け組に二分できる。現役時代にそれなりの地位を得てストックがありフロー(年金)も充分な人と、ストックもフローも乏しい人だ。勤労意欲が高いのは後者であり、前者は職よりもむしろ名誉を求める。
 企業が主に狙うのは後者だ。アルバイト並みの賃金で高齢者を雇えば双方にメリットがある。高齢者としてもシルバー人材センターやボランティア紛いの仕事よりもずっと高賃金だ。
 私には竹馬の友とも言える、小学校から高校までずっと同じ学校に通い良き競争相手でもあった友人がいる。彼は50代半ばで病院勤めを辞め、今ではフリーの医師として働いている。健康を害しかねない過酷な勤務医を辞めたことによって余裕を持って暮らしている。これが勝ち組の理想的な老後ではないだろうか。金銭的に余裕があればフルタイムで働く必要など無い。専門知識を生かせるコンサルタントやアドバイザーとして短時間働くことが彼らには最も相応しかろう。

嘘と事実

2014-06-16 09:32:10 | Weblog
 人は都合の良い嘘を信じる。事実よりも願望が優先する。宗教はその典型だ。霊魂の不滅とか天国とかいった願望に過ぎない嘘を信じる。死後は無だという事実よりも死後に報われるという嘘のほうが心地良いからだ。
 社会に流布する嘘の多くは人の欲望に付け込んだものだ。たらふく食べてダラダラ暮らし、それでも美しく痩せたいと考える人は○○ダイエット法といった明らかに嘘と分かる手法にのめり込む。それが高価であればあるほど有難がって無駄遣いを重ねる。
 肉食は殺生でありそのことに後ろめたさを感じている人は「肉食は健康に悪い」という怪しげな情報を信じて他人にまでそれを強制しようとする。倫理と健康は全く無関係なのに倫理に基づいて事実を歪めようとする。彼らは草食も殺生であるという事実は無視する。都合の悪い事実からは目を背ける。
 色白を美しいと信じる人は紫外線の有害性しか見ず有益性を無視する。日本人よりも紫外線に弱い白人でさえ日光浴をするのに彼らは紫外線を放射線のように忌み嫌う。そんな人が子供をビタミンD欠乏症のくる病にしてしまう。
 エネルギーの浪費を憂える人はCO2による地球温暖化を根拠にしてエネルギーの使用削減を訴える。こんな理論武装は有害だ。エネルギーの使用を抑制すべきだと考えるなら事実に基づいて主張すべきだ。省エネは国策でもあるから怪しげな情報であっても批判し辛い空気が生まれておりマスコミもこれに便乗している。こんなオカルトに頼るのは「嘘をついたら閻魔大王に舌を抜かれる」と嘘をついて子供を仕付けるようなものだ。
 贔屓チームが勝てば嬉しいから公正な判断ができない。アウトかセーフか、あるいはゴールかノーゴールかはあくまで事実に基づいて判定されるべきであって好き嫌いに基づくべきではない。
 個人の価値観とは全く独立して事実は存在する。価値観に基づいて事実が歪められることは人間の困った欠点ではあるが、どれだけ事実を直視できるかということだけで彼の徳のレベルが露呈する。

神頼み

2014-06-14 10:12:21 | Weblog
 ランダムに起こることが何らかの意味付けをされることは非常に多い。これが迷信を生む。
 話を分かり易くするために極端な寓話にする。10箇国の歴史を学び、それぞれの生徒は興味を持った国の歴史だけしか覚えなかったとする。ある生徒はフランスとドイツという2箇国の歴史だけしか覚えず、ある生徒は9箇国の歴史を覚えたとする。2つの歴史しか覚えなかった生徒の期待値は20点で9つを覚えた生徒なら90点だ。
 もし必ず異なる国について出題する5問の試験をすればどうなるか。全部覚えた生徒なら毎回100点だがそれ以外の生徒の得点は毎回バラ付く。5箇国の歴史しか覚えなかった生徒であれば0点から100点まであり得る。覚えている国ばかりが出題されれば(俗に言う「ヤマが当たった」条件)100点で、覚えていない国ばかりが出題されれば(「ヤマが外れれば」)0点だ。しかし確率的にはそんなことは殆んど起こらない(10C5=5/10×4/10×3/10×2/10×1/10=120/100000=0.12%)。実際には平均50点で上下にバラ付く。同様に3箇国しか覚えていない生徒なら平均30点でバラ付く。
 この場合、成績が下位の者ほど運不運に左右される。平均30点の生徒が0点を取ったあと「神頼み」をすればどうなるか、多分次の試験では20~40点を取るだろう。これは決してご利益があった訳ではない、本来の得点に戻っただけだ。心理学ではこれを回帰効果と呼ぶがこれがご利益と誤解される。多くの人はドン底の時に神頼みをするから「報われる」ことが多い。
 成績の悪い者ほど得点が不安定で運に左右され易いから彼らは迷信に頼り勝ちになる。余り利巧でない人がご利益宗教にはまり易いのはこんな事情からだろう。

審判

2014-06-14 09:38:53 | Weblog
 昨日(13日)のW杯開幕戦のブラジル対クロアチア戦の審判は日本人3人だった。非常に名誉なことだと思う。公平な判定をするということが世界的に認められたと言って良かろう。
 日本の審判のレベルが高いのは相撲の行司以来の伝統だろう。「物言い」という優れた仕組みがあり、行司は差し違えたら切腹をするという覚悟で脇差を帯刀していると言う。本当に切腹をした行司はいないが、行司=審判が命懸けで取り組むという真摯な姿勢は他に類を見ない。
 しかし日本の審判が常にフェアだったかと言えば必ずしもそうではなかった。プロレスは論外として、かつて今の政治状況のように読売巨人軍が一強多弱だった頃の審判は不公正だった。「長嶋ボール」という言葉もあった。これは長嶋選手が見送った際どい球はボールと判定された。長嶋という権威に審判が屈服していた。他のチームのファンはよくボヤいていたものだ。「こっちは9人で試合をしているのに巨人は10人だ。」つまり審判が巨人に肩入れしていた。
 こんな例外はあるが概して日本の審判のレベルは高い。中立性を守ろうとする意識も高い。やはり行司の伝統が生きているのだろう。
 それと比べて政治意識は何と低いことだろうか。明らかに違憲である自衛隊を合憲としている。ルール遵守という日本人の美徳が憲法においては発揮されていない。
 この国民性にも背くような奇妙な現象はなぜ起こるのだろうか。多分、誤った教育の弊害だろう。高校までの教師は憲法を是々非々としては教えない。まるで不磨の大典であるかのように教える。憲法は無条件に守るべきものであるとして、間違ったルールを改めるという考え方を欠いている。気違いじみたルールであろうとも守れと教える。子供は従順だから教えられたことをそのまま受け入れる。「♪赤い鳥小鳥、なぜなぜ赤い。赤い実を食べた♪」という歌詞のとおりだ。
 しかし憲法を守るということが、国民の安全を守るということと矛盾することは明らかだ。この矛盾を誤魔化すために論理や公正性が否定される。せっかく優れた徳性を備えた日本人が徳を失って違憲状態を公認している。ゲームに対するように憲法に対しても公正であるべきだろう。

分配

2014-06-12 10:12:01 | Weblog
 給食のおかずの分け方は色々考えられる。
 ①最初から全員に同じ量を分配する。
 ②少しだけ少ない目に分配してもっと欲しい人には追加を認める。
 ③ビュッフェ(バイキング)形式のように各自が自由に好きなだけ取る。
 ④強い者が先に取って残りをみんなで分ける。
 多分③や④に賛成する人は殆んどいないと思うから①と②を比較しよう。①を選ぶ人も少なくないと思うが、私は②のほうが断然良いと思う。人には好き嫌いがあり適量もそれぞれ異なるから、全員に同じ量を配れば多過ぎる人も少な過ぎる人も現れる。②のほうが却って「公平」だと思う。
 資産についても同じように考えてはどうだろうか。まず少量を平等に分ける。もっと欲しい人はもっと働くか重い責任を担う。企業の給料もこの考えに基づいている。まず基本給があって時間外手当や役職給がそれに付加される。日本やヨーロッパの制度は概ねこれに近い。もっと欲しければもっと働けということだ。
 共産主義は①に近い。分配された物を市民同士で融通し合えれば充分豊かな社会になり得るだろうが、社会全体の資源が充分に豊かでなければ皆が等しく貧乏になる。
 アメリカは③だ。自由と権利を優先すればこうなる。しかし資産が有り余るほど豊かでなければ猛烈な競争社会になる。
 現代の中国は最悪の④だ。権力者が真っ先に資産を奪って残りを庶民が奪い合う。だからジニ係数が世界一高い。まるで専制君主が支配する古代社会のようなものだ。歴史から学ばないこんな社会では人民は不幸になる。
 日本を③の競争社会に変えるべきだと考える人もいるが、心優しき日本人にはお互いの権利を尊重する②が一番向いていると思う。日本人には競争社会よりも協調社会のほうが相応しい。

育児

2014-06-12 09:43:34 | Weblog
 専業主夫は特定の条件でのみ可能だ。それは小さな子供がいないということだ。小さな子供がいないという条件であれば男女の役割分担の逆転はあり得る。育児以外の家事においては男女の能力差は殆んど無かろう。計画的で力が強く生理日の不安定さが無いのだから男性のほうが適しているかも知れない。
 しかし育児能力は決定的に異なる。まず男には授乳能力が無い。肌触りも男が劣る。剛毛の堅い肌と柔毛の柔らかい肌とどちらが乳幼児にとって心地良いかは比較する必要も無かろう。
 これら以上に差が大きいのが非論理でのコミュニケーション力だ。赤ん坊が泣き叫んだ時、父親はどうしたら良いのか分からず狼狽えるだけだが母親なら大抵、正しく対応できる。
 これは脳の特性と大いに関係があるようだ。元々、男脳は競争的で女脳は協調的だ。育児においてはこの違いが更に拡大する。女性は妊娠中に情緒不安定になり易いそうだ。この不安定感を見事に描いたのが「ローズマリーの赤ちゃん」という恐怖小説・映画だった。情緒不安定になるのは実は乳児とのコミュニケーションのための準備だという説がある。乳児との非論理的コミュニケーションを円滑にするためには非論理の世界を理解せねばならない。女脳が妊娠中から既にその準備を進めているのであれば乳児の意思を正しく理解できるだろう。男には真似のできない芸当だ。
 私が、こと育児に関しては女性の役割を殊更、重視するのは、女性の能力のほうが圧倒的に優れているからだ。育児を女性の義務と考えるからではなく、適性の差だ。男性のほうが重い荷物を運ぶのに適しているように、育児においては明確に女性のほうが高い能力を備えている。多分、児童教育においても同様だろう。
 私は、男女の違いを認めようとしないフェミニストとは全く対極の立場に立つ。男女の能力は明らかに異なっておりまるで別の動物のようだ。その違いを認め合うことによって社会は成立している。平等(=同質化)にするために事実を歪めるのではなくて、お互いの違いを認めてそれを長所として尊重し合うことこそ重要だ。それぞれの特性を否定するのではなく特性を尊重し合ってこそ正しい男女平等が成立する。