俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

アイシング(続・炎症)

2014-08-03 09:39:38 | Weblog
 昔は、野球の投手は肩と肘を冷やしてはならないとされていた。しかし現在の投手は登板後にアイシングをする。アイシングには肩や肘の炎症を予防する効果があると言われている。
 アイシングには痛みを抑える効果もある。但しこれは痛みそのものの軽減ではなく、痛覚を鈍化させることによって痛みを感知しにくくしているだけだ。丁度、大量に砂糖が含まれる飲料水でも冷たければ甘ったるく感じないように、低温が痛覚を麻痺させているだけだ。
 アイシングが炎症を予防することは事実だろう。スポーツ医なら無数の事例を挙げて証明するだろう。しかし炎症を起こさないことによって肩や肘の故障が防止できることは証明されていない。ここに論理の短絡がある。
 酷使すれば炎症を起こして痛む。ここで重要なことはどこが患部であるかだ。患部は関節や筋肉だ。ではなぜその周縁部が炎症を起こして痛むのか、代謝機能を活性化させて患部を治癒するためだろう。患部を治癒するために起こる生体反応が炎症でありそれを抑制することは治癒を妨害することになる。
 因果を取り違えている。関節や筋肉に損傷が生じた場合に周縁部に発生する炎症を障害と考えているが、これこそ自然治癒力の発現そのものだ。炎症が起これば血流が増えて代謝機能が向上する。炎症を抑えてしまえば自然治癒力が働きにくくなる。
 火事が起これば消防隊が来る。火事と消防隊には因果関係がある。火事を無くせば消防隊は来ないが、消防隊が来ないようにしても火事は無くならない。道路を狭くして消防車が来れないようにすれば火事が無くなると考える人はいないが、それと同様の錯覚に基づいてアイシングをしているのではないだろうか。炎症を抑えれば損傷は治らない。それは消防隊の活動を妨害するような愚行だ。結果に対する対策は原因に対する対策にはならないし、対策に対する妨害であれば有害なだけだ。影を真っ直ぐに直しても本体が真っ直ぐに直る訳ではない。
 ダルビッシュ有選手の「中6日」発言がアメリカで波紋を広げているようだがそれは投手の肘の故障が社会問題化するほどに増えているからだろう。アイシングによって腫れず痛まない状態のままで損傷が温存されている。これはコレラの患者の症状だけを薬で抑えて退院させるような暴挙にも等しい。損傷が放置されるから肘の手術が増えているのだと私は考える。
 対症療法に対する過信こそ人間の思い上がりだ。現代の医療に可能なことは自然治癒力を支援することだけだ。現代医学だけでは治療など不可能だ。自然治癒力に対する妨害は絶対にしてはならない。専門家による反論に期待したい。

炎症

2014-08-01 10:25:38 | Weblog
 先日、足の指を捻挫したらしく足を大きく腫らした。腫れた足は当然熱を持った。
 こんな時、冷やすべきか温めるべきか?現代の常識では冷やすことが奨励されている。スポーツ選手はコールドスプレイやアイシングを使う。スポーツ医療は何らかのエビデンス(根拠)に基づいてアイシングを勧めているのだろうが、これは炎症を防ぐことと傷の治療との関係について根本的な誤りを犯しているのではないだろうか。アイシングによって投手の肘の炎症は軽減されるかも知れないが、肘の手術は却って増えているように思える。炎症という症状の軽減は全くの対症療法に過ぎず、損傷の治療とは言い難い。炎症は治癒のために必要な自然治癒力の活動でありそれを抑えることは快癒に対する妨害なのではないだろうか?
 風邪の誤った治療法と同じ間違いを犯しているのではないかと疑う。風邪をひけば体温が上がり全身がだるくなる。これは症状ではなく実は抗ウィルス反応だ。前者によって免疫力が高まり、後者によって不要な行動を抑制して体力を温存する。解熱剤によって熱を下げれば免疫力が低下するだけではなく安静を怠り勝ちになるので却って風邪を悪化させてしまう。捻挫した時の炎症と痛みは風邪に対するこれらの生体反応と同じものなのではないだろうか?
 本来の怪我は関節部の損傷だ。ところがこの時その周縁部で炎症が発生して痛む。これは損傷を治癒するための働きだろう。炎症を起こすことによって血流が増えて代謝機能が活性化し、痛みによって傷んでいる場所の使用を抑制する。風邪における抗ウィルス反応と非常によく似たメカニズムだ。炎症を抑え痛みを和らげることは対症療法であって損傷部分の治癒には全く役に立たない。むしろ治ったと錯覚させることによって損傷を悪化させかねない。
 自然に治癒する時には痛みがバロメーターになる。痛ければ動かさないし、痛みが和らげば治癒が進んでいるのだから徐々に動かす。痛み止めで誤魔化してしまえば自己診断さえできなくなる。
 二日酔いの時の迎え酒のように、冷やすことは楽にさせるが実は悪化させているのではないだろうか。機械であれば熱を持つことは悪い兆候だ。オーバーヒートの状態だからだ。しかし自己修復力を持つ動物の体を機械と同等に考えるべきではあるまい。修復のために発熱していると考えられるからだ。

多元論

2014-08-01 09:44:10 | Weblog
 私は多元論者であり多文化共存主義者だ。一元論、一神教、選民思想などには反発して価値の多様性を肯定する。しかし明確に誤ったものに対しては容赦しない。だからこそマスコミが垂れ流すデマなどに対する批判をやめようとは思わない。
 私の母の口癖は「人それぞれ」と「色々」だ。これは多価値を許容しているようだがそうではない。母の話には非常にしばしばデマや迷信が紛れ込む。それらの真贋を調べようともしないし辞書さえ引かないのだから総てが等価値にされてしまう。甲論乙駁があれば両方共に正しいということにする。これは「和」の精神ではなくただの「うやむや」であり放任だ。こんな無知に付け込むのが詐欺師やマスコミだ。
 こんなことがあった。母が「外宮と内宮のどちらを先に参っても構わない。みんな好きなようにしている」と言った。奇妙なことだが無神論者で絶対に参拝などしない私が猛烈に反論した。「慣習やしきたりがあるのに知らないだけだ。」私は伊勢神宮や伊勢市、あるいは三重交通などの企業が官民共同で、古来の慣習として外宮から内宮へという順路を推奨していることを知っている。たとえ天皇陛下であれ皇太子殿下であれこのルールに従う。 
 外宮と内宮のどちらを先に参るべきかなどただのしきたりに過ぎない。科学的あるいは合理的根拠などあるまい。それでもそのしきたりを知った上で守らないのと知らずに守らないのとでは全然意味が違う。テーブルマナーであれ礼儀作法であれ、知りながらそれを破る人はそのことによって意思表示をしている。知らずに破る人は無知なだけだ。
 一時期、奇妙なテーブルマナーが蔓延っていた。ライスはフォークの背に乗せよというものだ。知らない間、私は律儀にそのマナーを守っていたが、嘘と知ってからは無視するようになった。
 多元論はデマや無知を容認する立場ではない。多くの正しいものがあり多くの間違ったものがあるから、間違ったものを排除した上で正しいもの同士の共存を図ろうとする。間違ったものと正しいものの混在を容認する訳ではない。
 「米洗う前にホタルが2つ3つ」という句がある。「前を」や「前へ」と比べてどれが良いかと言われれば迷う。それぞれに違った味わいがあるからだ。しかし「前が」や「前の」であれば論外だ。どれがベストであるかを決めることは難しいが駄目なものなら簡単に仕分けられる。ある程度以上のレベルを満たせばほぼ等価値であり得るが、そのレベルに達していないものまで同等に扱う必要は無い。誤りとして否定すべきだ。
 多元論は不可知論やニヒリズムとは全く異なる。明確に誤ったものを排除した上で、優れたもの同士の共存を求める立場だ。多元論者は嘘や偽りに対しては決して寛大ではない。