仮に「男らしさ」とされている特性のみが価値を認められるなら、男らしい女の価値が高く、女らしい女は人間のクズということになる。こんな馬鹿なことを考えている人が2種類いる。フェミニストと男性原理にどっぷりと漬かった石頭の男だ。奇妙なことにこの両極は男性原理の絶対的優位性という変な価値観を共有している。
幾ら猫好きな人でも猫らしい犬を好きになることはあるまい。犬らし過ぎる犬よりはマシだろうが好きになれるレベルではあるまい。ライオンみたいな犬であればそれなりに面白いが、猫みたいな犬であれば猫以下の動物としか評価されない。要するに紛い物であり、猫以下かつ犬以下だ。
個性とは先天性×後天性だと私は考えている。優れた先天性を健やかに伸ばして初めて優れた個性になる。乏しい先天性を無理やり伸ばそうとしても充分には伸びず却って歪なものになってしまう。天賦の才を正しく知ってそれを伸ばすべきだろう。
男女は先天的に異なる。違った長所を持っている。長所を伸ばすことこそ自己実現であり、先天性とは異なったものを追及しても徒労に終わる。犬を猫として育てても猫になる訳ではない。出来損ないの犬になるだけだ。
男女が先天的に異なることは優劣ではない。個性だ。不思議なことだが質的に異なったものに対して優劣を付けたがる人がいる。例えばカレーライスとラーメンとどちらが優れているかを決めたがる人だ。こんな人はアンケートに基づいて優劣を付けようとまでする。しかし多数決は商売の尺度にならなり得るが価値の尺度にはならない。
優劣なんて要らない。優劣のような一元論ではなく、社会にとって必要なのは異なる価値を認め合う寛容性であり、それに基づく共存と棲み分けだ。
古来、日本人は異文化を貪欲に受け入れて来た。これは自文化を劣ったものと考えるからではなく、他文化には異なった魅力があると感じたからだ。他文化を邪文化ではなく新文化として受け入れる包容力こそ重要だ。
違ったものは違っているからこそ魅力がある。音楽と美術のどちらが優れた芸術かというような無意味な比較などせずに質的に違ったものをその違いゆえにこそどちらも優れたものとして受け入れるべきだろう。
幾ら猫好きな人でも猫らしい犬を好きになることはあるまい。犬らし過ぎる犬よりはマシだろうが好きになれるレベルではあるまい。ライオンみたいな犬であればそれなりに面白いが、猫みたいな犬であれば猫以下の動物としか評価されない。要するに紛い物であり、猫以下かつ犬以下だ。
個性とは先天性×後天性だと私は考えている。優れた先天性を健やかに伸ばして初めて優れた個性になる。乏しい先天性を無理やり伸ばそうとしても充分には伸びず却って歪なものになってしまう。天賦の才を正しく知ってそれを伸ばすべきだろう。
男女は先天的に異なる。違った長所を持っている。長所を伸ばすことこそ自己実現であり、先天性とは異なったものを追及しても徒労に終わる。犬を猫として育てても猫になる訳ではない。出来損ないの犬になるだけだ。
男女が先天的に異なることは優劣ではない。個性だ。不思議なことだが質的に異なったものに対して優劣を付けたがる人がいる。例えばカレーライスとラーメンとどちらが優れているかを決めたがる人だ。こんな人はアンケートに基づいて優劣を付けようとまでする。しかし多数決は商売の尺度にならなり得るが価値の尺度にはならない。
優劣なんて要らない。優劣のような一元論ではなく、社会にとって必要なのは異なる価値を認め合う寛容性であり、それに基づく共存と棲み分けだ。
古来、日本人は異文化を貪欲に受け入れて来た。これは自文化を劣ったものと考えるからではなく、他文化には異なった魅力があると感じたからだ。他文化を邪文化ではなく新文化として受け入れる包容力こそ重要だ。
違ったものは違っているからこそ魅力がある。音楽と美術のどちらが優れた芸術かというような無意味な比較などせずに質的に違ったものをその違いゆえにこそどちらも優れたものとして受け入れるべきだろう。