俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

水泳

2015-07-22 10:16:42 | Weblog
 夏になると水の事故が連日報じられるが、水泳は危険なスポーツだろうか。多分最も安全なスポーツだろう。私は殆んど毎日泳いでいるが、足が吊る以外のトラブルは滅多に無い。最も痛い思いをしたのは、30年ほど前に下手な平泳ぎの横を摺り抜けようとして顔面を蹴られたことだ。他にはクロールのリカバリーで手がぶつかることがたまにある。水泳では捻挫をすることさえ無い。
 水の事故は大半が水泳ではなく水遊びでの事故だ。これを区別しないことは、戦場での戦闘機の事故を旅客機の事故数に含めるようなものだ。
 但し川も海も怖い。川が怖いのは突然深くなったり流れが変わったりすることだけではない。上流での雨による鉄砲水は殆んど予測できない。川は雨が降らなくても増水する。正確に言えば、その地域で降らなくても上流で降れば下流では驚くほど増水する。だからこそ怖い。山の天気は変わり易くしかも狭い地域内で変動する。晴れた日に一部の地域でだけ俄雨がありそれが川下では濁流になるということもあり得る。川下にいる人には予想できない。
 海にはサメ、ウミヘビ、クラゲなど有害な動物が沢山いる。これらも危険なのは自然そのものであり、山や森などが危険であるのと同じことだ。水泳が危険な訳ではない。
 紫外線はどの程度危険だろうか。動植物は殆んどが紫外線の元で生きている。それどころか、紫外線の強い熱帯や亜熱帯のほうが動植物は豊富だ。これは動植物にとって紫外線が必要だからだろう。
 人類の起源もアフリカだ。紫外線の弱い環境に適応した白人が紫外線によって皮膚癌に罹り易いのは事実だが、それにも拘わらず北欧人は日光浴を好む。これは何らかの医学的根拠があってのことだろう。皮膚癌に強い筈の日本人が紫外線を嫌うのは美白信仰とそれを煽る化粧品会社によって作り上げられたものだろう。幼児のくる病が増えていると言う。この大半は日光浴をしないことによるビタミンD欠乏症だろう。私がこれまでに浴びた紫外線の量は平均的日本人の10倍ぐらいだと思うが、今のところ何の支障も無い。紫外線の害と日焼け止めクリームの害を比較したデータは見つからないが、確実に副作用のある薬品が無害であるとは考えられない。充分に安全基準を満たしている食品添加物と比べて有害性が高いことは間違いあるまい。

自律神経

2015-07-22 09:39:38 | Weblog
 もしマラソンランナーに正常な呼吸つまり通常の呼吸を強制したら多分1㎞も走れないだろう。あるいは意識的に最大限の呼吸をすれば過呼吸によって体調を崩す。かつて萩原智子(愛称「ハギトモ」)という天才スイマーがいた。彼女は「充分に酸素を摂取せねばならない」という意識が強過ぎて必要以上に呼吸する癖があった。過呼吸症候群が持病になってしまい素晴らしい才能を発揮し切れなかった。体は合理的にできている。意識しなくても自律神経が働いて最適状態が保たれる。マラソンのために最適の呼吸や脈拍数を算出することはできないが、体は刻一刻、自動的に反応する。もしマラソンランナーの激しい呼吸や発汗を薬で抑えてしまえば多分、死を招くだろう。これと同じように、医療の名の元で行われる対症療法の多くが自律神経の妨害をして却って人を不健康にしているだろう。
 「ムカデのジレンマ」と呼ばれる寓話がある。100本の足を使って器用に歩くことを誉められたムカデが、いざどう歩いているのかを考えた途端に足がもつれて歩けなくなってしまった、という話だ。要するに、意識よりも無意識のほうが賢いということだ。この出典は「荘子」とされることが多く、3月28日付けの毎日新聞のコラム「憂楽帳」でも間違ってそう記載されていたが、正しい典拠は「マザーグース」だ。
 病原体に感染した時の発熱や有害物を食べた時の下痢は体が正しく反応するから起こる。解熱剤や下痢止めは自然治癒力を妨害するものであり有害だ。受験などのための一時凌ぎであればある程度やむを得ないが、これが治療ではなく一時凌ぎの有害な行為であることは充分に理解されるべきだろう。
 体は賢く脳は愚かだ。せっかく体が自分を守るために正しく反応しているのに、脳は薬と称する毒物を使ってその妨害をする。対症療法はいかにも脳が好みそうな野蛮な祈祷術だ。脳は快不快原則に従うから快適(=不快の軽減)をほぼ無条件に良いものと認識する。だからその場の快楽に溺れる。体は利巧だ。数十億年の進化の中で生存と生殖に有益な行為を意識以前のレベルで選択する。せいぜい数百万年の生存競争にしか晒されていない霊長類の脳はもっと謙虚になって、分不相応にも自律神経を制御しようなどと企まないほうが良かろう。

薬効

2015-07-20 10:19:22 | Weblog
 通常の医療であれば治療効果があって初めて「効く」と評価される。様々な薬であれ手術であれ、治療効果があるからこそ承認されている。ところが癌の場合、治療効果は必ずしも期待されていない。腫瘤の縮小や延命効果があれば医療として承認される。この特殊性が悪用され易い。
 例えば胃癌患者に対する抗癌剤や放射線治療によって癌細胞が縮小したとする。この縮小はあくまで当初標的とされた癌細胞だけが評価対象にされる。仮に肺癌が新たに発症しても「効いた」ということになる。これでは細長い風船を押し込んで凹ませるようなものではないだろうか。別の場所が膨らむだけだ。これでも「効いた」と言えるのだろうか。あくまで陰口だが「抗癌剤は増癌剤」とまで言われている。
 同じ人についてその治療をした場合としなかった場合を比較することは困難だから、延命効果についてはデータのトリックが使われ易い。例えば抗癌剤の副作用で死んだ人の場合、全死亡率ではデータとして使われるが、癌死亡率の対象外になる。事故などを含めて他の原因で死ぬ人が多いほど癌死亡率は下がる。極論だが、全員が抗癌剤の副作用で死んでしまえば癌死亡者数はゼロになる。
 連絡を取れなくなった人の扱いも酷い。死亡したから連絡が取れなくなった可能性が高いがデータ操作に利用される。1年間、生死が確認できなかった患者であればいつ死んだか分からないことを利用して生存期間を任意に増減できる。
 軽度の患者を混入させることによって有効性が高いように捏造することもある。承認申請をする薬に軽症者を、比較対象薬に重症者を割り振れば簡単に優良性を「証明」できる。臨床データの捏造は、散々騒がれた血圧降下剤ディオバンだけの話ではない。
 捏造ではないが数字のマジックも少なくない。100人中99人が死ぬ病気で2人助かれば「生存の可能性が2倍になった」と騒ぐ。しかしこれは99%から98%に1%下がっただけだ。誤差の範囲内だろう。
 癌のような先端医療でさえこのザマなのだから通常の医療はデタラメとオカルトの世界だ。頭痛薬の効能は頭痛の原因を取り除くことではなく頭痛を感じにくくするだけだ。頭痛薬の最大の副作用は頭痛の慢性化と言われている。笑えない笑い話だ。
 風邪の治療薬を発明すればノーベル賞が貰えるとまで言われているのに、不快な症状を緩和するだけの対症療法が横行している。1に睡眠、2に休養、3に栄養ではないだろうか。癌や風邪のような治療できない病気や老化現象などに関してはデタラメ医療が氾濫している。

臨界期

2015-07-20 09:37:38 | Weblog
 ある時期迄に適切な刺激が与えられないと成長が阻害されてしまう。これを臨界期という。視力であれば生後100日程度だ。先天性白内障の手術は生後100日以内でなければ効果が激減するそうだ。
 言語の習得にも臨界期があるようだ。特殊な事情があって10歳頃迄に言語を修得できなかった人の場合、その遅れを取り戻すことは殆んど不可能だと言われている。このことを根拠にして英語の早期教育が主張されるが、私は英語教育よりも日本語教育のほうが重要と考える。日本人の英語力が低いのは時期が原因ではなく使用頻度が原因だろう。日本ほど外国の文献が自国語で読める国は稀だ。殆んどの国では翻訳文化が貧弱なので英語で読まざるを得ないだけだ。だから英語力が高い。文化レベルが高いからこそ世界中の文献を日本語で読めるということを素直に喜ぶべきだろう。
 肉体にも精神にも臨界期がある。臨界期を過ぎれば成長は難しい。定年後に脳と体を鍛えようと思っても成長させることは難しい。現状維持が精一杯だろう。
 男性の場合、20代迄に鍛えれば筋肉が発達する。私は高校時代サッカー部に所属していた。その頃は日に日に太腿が太くなった。そのせいで就職する時にスーツ選びで困ったものだ。太腿で合わせるとウェストなどがブカブカになった。それから30年ほど経ってから同僚に「入社した頃の服が今でも着られる」と言って驚かせたが、何のことは無い。ウェストが太くなり太腿が細くなったから日本人の標準的な体型になり、当時の既製服が合うようになっただけのことだ。
 マッチョ老人を夢見たものだがそのためにはせめて40代迄に充分に鍛えておくべきだった。60代で鍛えても筋肉は成長しない。脳も若い内に鍛えておかないと手遅れになる。幾つになっても成長できるという話は嘘だ。老人を慰めるための俗説を真に受けて若い頃の鍛錬を怠っていれば後になってから後悔するばかりだ。

過疎化

2015-07-18 10:20:18 | Weblog
 地方の過疎化が進むのは当然だろう。地方には農家と漁師しか残らないのではないかと思うほど格差が大きい。地方の過疎化を防ぐためには何らかの優遇策が必要ではないだろうか。そうでなければ「平等」ではない。
 私は母の世話をするために田舎帰りをしたものの不便さに呆れている。私のような老人でさえそう感じるのだから行動的な若年層であればもっと不満に思うだろう。商業施設は貧弱だし労働環境も悪い。高校時代の同級生で地元に残っているのは教師を含めた公務員と医者と地方銀行員だけだ。
 雨が降れば泳げない。これは当たり前のことのようだが、大阪に住んでいた頃は雨でも屋内プールで泳げた。夏の晴れた日は屋外で、それ以外の日は屋内で泳いでいた。大阪では高級リゾート地のような生活を低価格で楽しめた。
 今住んでいる伊勢市での主な交通手段は自転車だ。競泳の萩野公介選手が骨折事故を起こしたように自転車は余り安全な乗物ではないが、雨が降れば更に危険性が高まる。視界が悪くなりブレーキは利きにくくなりスリップもする。これでは怖くて出掛けられない。電車もバスも便数が少なく、都会と比べれば割高だから利用する気にならない。だから雨の日は家に籠ることになる。
 伊勢市は決してド田舎ではない。人口13万人の地方都市だ。それでも都会と比べれば随分不便だ。流石に「♪オラの村には電気が無エ♪」ということは無かろうが「電車が無エ」という町、あるいは日に数便しか無い町は少なくなかろう。
 伊勢では土曜の夕刊が無い。まさかと思われるような話だが日経新聞と地域紙の中日新聞以外の土曜日の夕刊を見たことが無い。それにも拘わらず月間の購読料は都会と同じ4,037円だ。月に4・5回夕刊が少ないにも拘わらず料金は同じなのだから、全国共通の筈の新聞料金でさえ差が生じている。
 本を買うのも大変だ。大型書店は都会にしか無いから頼りにするのはブックオフ・オンラインだ。しかし書名だけを頼りにして購入するからしばしば失敗する。親切なブックオフは以前にブックオフで買った本であれば告知してくれるが他所で買った本はフリーパスだ。これまでに何度重複購入をしたことやら。だから大阪へ出掛ける度に10冊ぐらいは纏め買いをする。
 大阪へ出ようとすれば近鉄特急で1時間50分掛かる。距離的にはもっと遠い名古屋から大阪までは新幹線でたった50分だ。近鉄特急は1時間に2本程度しか無いが新幹線なら10本以上ある。しかも始発は早くから、終電も遅くまである。大阪へ出るための電車は伊勢よりも名古屋のほうが圧倒的に便利だ。都会のほうが便利なのだから人は必然的に都会に集まる。地方の長所は住居費の安さだけだ。不便な場所ほど安くなる。

強行採決

2015-07-18 09:37:02 | Weblog
 自民党の肩を持つつもりは無いが安保関連法案の採決は「強行採決」だったのだろうか。他紙やテレビはともかく、狡賢い朝日新聞は極力「強行採決」という言葉を使わず「採決を強行」と表現していた。これは朝日新聞でさえ強行採決とは見なし難いと考えているからだろう。
 強行採決という言葉はいかにも反民主的で暴力的なイメージがある。しかし採決をする側と採決を阻止しようとする側のどちらのほうがより非民主主義的だろうか。
 昨年12月の衆議院選挙の手口は悪辣だった。野党がバラバラになった時期を見計らって解散をした。私はこれこそ「強行選挙」だったと思う。これと比べれば今回の採決は決して「強行」ではない。
 多数決は民主主義の根幹だ。これを否定すれば民主主義というシステムそのものが崩壊する。だから、野党が何等かの事情で採決に参加できない時を狙った採決でなければ強行とは言い難い。むしろ暴力的な手段で採決を阻止しようとすることこそ反民主主義だろう。少数派が反対すれば採決さえできないような仕組みは多数決よりも悪い「少数決」だろう。
 今回の採決が抜き打ち的でなかったことは明らかだ。だからこそ一部の政治家はプラカードを事前に準備して、委員長や議席ではなくカメラに向けてアピールをしていた。プラカードの総てがテレビカメラに向かっている姿は醜悪だった。
 昨年2月、タイのインラック政権は総選挙を実施しようとした。国を破綻させかねないポピュリズム政策を採るインラック政権は選挙になれば勝てると確信していた。選挙で勝てないと考えた反政府側は選挙阻止を図った。多くの投票所が占拠されたために選挙は無効になった。議会政治が機能しなくなったから5月に軍事クーデターが起こって今に至る。
 私はインラック政権やギリシャのチプラス政権のポピュリズム政策には大反対だ。私はポピュリズムを民主主義の「鬼っ子」だと考える。未来を犠牲にして現在の安逸を提供する政策は、未来のことなど気に掛けない多数者の支持を集め易い。メタボになりそうなそんな甘ったるい政策ではなく、口に苦い良薬こそ求められるべきだろう。しかしタイの民主主義を崩壊させたのは選挙を暴力的に阻止した反政府勢力だろう。現時点では多数決に代わる制度が無いのだから、多数決の否定は民主主義の否定になる。現行制度の元では採決する権利を奪うことはできない。私は未来の人々も含めた多数決を理想とするが、これを制度化することはできない。今の有権者が未来に充分に配慮することを期待するだけだ。

心療内科

2015-07-16 10:26:13 | Weblog
 心療内科のほうが精神科よりも敷居が低く感じられるらしい。精神科の対象は狂人であり、心療内科の対象は軽度の神経症患者というイメージがあるようだ。しかしこの敷居の低さが曲者だ。軽い気持ちで通院して薬漬けにされる。
 実は私は精神科を受診したことがある。それは決して幻覚や妄想があったからではなく、当時は「神経性下痢」、今では「過敏性腸症候群」と呼ばれる疾患の治療のためだ。当時も今も過敏性腸症候群は病気ではなく体質だと思っているが、試験中の便意で何度も失敗していただけに治しておきたかった。当時の医療は現在のような薬一辺倒の時代ではなかったので、問診の他にロールシャッハテストなども受けた。
 現在の心療内科医は碌に問診もせず、ロールシャッハテストなど知らないのではないだろうか。只管、対症療法薬を処方するだけだ。医師も患者も根本的な勘違いをしている。対症療法薬は治療薬ではない。不快な症状を緩和するだけであって原因は放置される。
 例えば鬱病を患った人であれば大半が生活上の悩みを抱えている。家族の不幸や不仲、あるいは劣悪な労働環境など様々な事情がある。その原因を放置したまま、薬によって感情だけを操作しても全く無意味だ。困った状況にいながらそれを苦痛と感じさせなくさせるのが精神医療であるなら、それは治療ではなく家畜化・狂人化だ。
 精神も内臓も外からは見えないからこんなデタラメが罷り通る。これが傷口であればこんなやり方では通用しないことが誰にでも分かる。切り傷で真っ先にすべきことは止血だ。もし不潔な環境での傷であれば雑菌や汚れの除去も必要だろう。少なくとも痛み止めは二の次・三の次だ。たとえ患者が「痛い、痛い」と訴えても傷口の治療を優先すべきだ。それなのに対症療法では原因を放置したままでの不快感の緩和が治療と思い込まれている。心療内科医や精神科医は、傷口を放置して痛み止めに尽力する狂った救急外科医のようなものだ。こんなことをしていれば悪化させるだけだ。
 目に見える切り傷でさえ長年、消毒が奨励されていた。今では水洗いが正しい対処とされており、小学校の保健室からは消毒液が取り除かれつつある。ところが「怪我をしたのに消毒さえしない」と怒鳴り込む親が絶えないそうだ。無知とは迷惑なものだ。

平和国家

2015-07-16 09:47:42 | Weblog
 集団的自衛権が違憲か合憲かを議論する必要は無い。自衛隊の存在そのものが既に違憲だ。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」という9条の条文をどう読んでも、集団的自衛権も個別的自衛権も、それ以前に戦力さえ認められないことは明白だ。
 自衛権を主張する人は国連憲章第51条を根拠にして、個別的自衛権も集団的自衛権も国際法で認められている、と言う。国際法が認めようが認めまいが、国内においては国内法が優先する。仮に国際法で麻薬や売春が認められようとも国内法が禁じる限り、日本では違法だ。たとえ国連が言論・出版の自由を認めようとも、国ごとに禁書を定める権利がある。例えばドイツではヒットラーの「わが闘争」の出版は未だ認められていない。
 しかし現実はどうだろうか。仮に北朝鮮が、これまでのように秘密裏にではなく堂々と拉致をしに来たらどうなるか。スパイではなく軍隊を使った要人強奪であれば、警察の手に負えない。軍隊と警察では戦力が違い過ぎるからだ。いきなり米軍に泣き付く訳には行かない。戦争が嫌いなのは日本人だけではない。実はアメリカでは帰還兵のPTSDが大きな社会問題になっている。毎年約6,500人の退役兵士が自殺していると言われている。命懸けの戦闘のアウトソーシングは厚かまし過ぎる。国連に助けを求めても無駄だ。議論をしている内に日本は破壊されてしまう。だからこそ国際法は自衛権を認めている。ここは憲法違反の自衛隊の出番だろう。
 自衛隊の存在を認めない人は国の危機をどう考えるのだろうか。北朝鮮軍に好き勝手なことをさせて構わないのだろうか。人や財産を放棄してでも「平和国家」の理想に殉じるつもりなのだろうか。他国による強奪が横行する状況を「平和」とは呼べまい。平和のためには戦力が欠かせない。
 いじめられてもヘラヘラ笑っていればいじめがエスカレートする。断固たる拒絶を示すことが最大の抑止力になる。暴力を抑止できるのは暴力だ。突然暴漢に襲われたら逃げるのが一番だが、逃げられない人がいればたとえ暴力を使ってでもその人を助けるべきだと私は考える。
 北朝鮮による拉致を放任するなら軍隊など要らない。そうでなければ抑止力としての軍隊を持てるように憲法を改めるべきだ。非現実的な憲法と心中することは本末転倒だ。詭弁による解釈改憲を黙認するのではなく、曲解を許さない明確な文章に基づいて「平和のための軍隊」を公認することが、平和国家の実現のために最も必要なことだろう。「戦争反対」という呪文を唱えるだけで平和が実現すると思い込んでいる呪術信仰的な人々を私は軽蔑する。

サトゥルヌス

2015-07-14 10:21:10 | Weblog
 「我が子を食うサトゥルヌス」という絵画がある。「裸のマハ」や「着衣のマハ」などで有名なゴヤの作品だ。薄気味悪い作品だが私は妙に気に入っていて、学生時代はこのポスターを部屋に貼っていた。
 ローマ神話のサトゥルヌスはギリシャ神話のクロノスに当りゼウスの父だ。クロノスはクロックの語源となっているように「時の神」でもある。時の神が我が子を食うことが現実になりつつある。
 高齢者が若年層を食い物にしている。以前であれば老人は子孫を頼りにした。多少不自由であろうとも我慢して「老いては子に従う」ことは決して女性だけのルールではなかった。ところが現代の老人は若者から搾取することを当然の権利と考えている。我儘のし放題であり、未納や滞納があっても「年金が少ない」と制度に責任転嫁をする。自業自得という意識を欠いた我儘老人による社会破壊を放置すべきではなかろう。
 「理想は現実的であるべきだ」と私は常々考えている。非現実的・空想的な理想は狂人の妄想に等しい。例えば高福祉・低負担はあり得ない。高福祉を望むなら高負担が付随するし、低負担を望むなら低福祉になる。現在の70歳以上の高齢者は超低負担だった。甘やかされ過ぎた老人が特権を要求している。これが呪うべきシルバー民主主義だ。
 ギリシャが追加支援を求めている。しかし追い貸しを受けるためには返済力を証明する必要がある。放漫財政の末に借金まみれになったギリシャに対する追加支援など可能だろうか。8兆円も貸し出して、あろうことか債権の一部放棄まで求められているドイツ人の怒りは当然だ。返済の確約か担保でも無ければ踏み倒されかねない追い貸しなどできない。これは他山の石ではない。約581億円のサムライ債の第一回返済期限が14日に迫っている。これが返済されなければ日本人もドイツ人の怒りを少しは理解できるだろう。
 日本の老人の厚かましさはギリシャ人に似ている。無制限な高齢者優遇を要求する。優遇の裏には若年層に対する冷遇があることを理解しようとしない。ドイツを始めとするEU諸国は身勝手なギリシャに食われ、日本社会は身勝手な老人に食われている。日本人の寿命が長くなり過ぎたことが不幸の根源なのだろうか?

鼻薬

2015-07-14 09:43:27 | Weblog
 ここ数日、急に暑くなったために各地で熱中症の被害が発生している。マスコミは水分補給やエアコンの使用などを訴えているが、マスコミが報じない意外な危険物がある。それは風邪薬だ。
 風邪をひけば体温が上がる。解熱剤は体温を下げるのだから熱中症を防ぐ効果がありそうなものだが、総合感冒薬には様々な対症療法薬が含まれており、鼻炎を抑える成分が熱中症の原因になる。まるで言い掛かりのような理屈と思われるかも知れないが、鼻炎薬がどんなメカニズムで鼻水を抑えるのかを理解すれば納得できると思う。鼻水が止まるのは鼻に直接働くからではなく、全身の水分を体外に放出されにくくするからだ。水分放出の妨害が鼻炎薬の効能だ。水分が放出されにくくなれば発汗も抑えられる。だから発汗による体温調整が充分に機能しなくなり体温上昇が止まらなくなるから熱中症に罹るということだ。
 薬の危険性を啓蒙している奇妙な薬剤師の宇多川久美子氏は熱中症の患者にこう尋ねるそうだ。「このところ、風邪薬を飲んでいませんでしたか?」(「薬が病気をつくる」より)
 汗が蒸発する時に気化熱を奪うのだから幾ら小まめに水分補給をしても発汗しなければ体温は下がらない。薬はピンポイントに効くのではなく全身に働き掛けて全身が異常反応を起こす。その最も極端な物が抗癌剤であり、全身の細胞に無差別攻撃を仕掛ける。もし癌細胞の耐性が弱ければ癌細胞が先に死ぬが癌細胞のほうが強ければ癌細胞だけが生き残る。命懸けのチキンレースのようなものだ。
 総合感冒薬は様々な対症療法薬がブレンドされている。解熱剤が中心であれば、他の副作用はあっても、熱中症の原因にはなるまい。気を付けるべきなのは鼻炎に特化した風邪薬だ。主な症状が鼻炎である風邪症候群(所謂「鼻風邪」)の患者が鼻炎特化型の風邪薬を飲んだ場合、汗が充分に出ないために熱中症を患う恐れが高まる。
 製薬会社から大量の鼻薬を受け取っているマスコミや医師は、スポンサー様に遠慮して、鼻炎薬の危険性を公言できない。だから水分補給ばかりが強調される。危険なものを報知できないから放置されている。鼻薬恐るべし。