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独りキャンプ旅
夜半から降り出した雨粒がテントをたたく音で目覚めた。
重たく湿った空気が冷ややかに開け放したテントの入り口から流れ込んでくる。
まだ地表を流れ出すほどの雨量ではない。
撤収の煩雑さを思い少し気重になる。
「滞留するか・・・」
予定がある旅ではない。
独り言を呟きながら逡巡する。
何時もは豆から挽くのだが、パックとは云え香ばしいキリマンジャロの薫りがテントの中に満ちる。
崇が家を出てから五日目になる。
五日間の有休を加えて九日間の自由を手に入れ、金曜日夕刻出発した。
行き先を決めてあるわけでもなく、ただ漫然と海岸伝いに車を走らせる事だけをイメージしていた。
ルート122号から17号を辿り、途中三回のコンビニ休憩と二時間の路肩仮眠を挟んで八時間走った。
「何処へ・・・帰りは?・・」
キャンプ装備一式?車に詰め込み、テント場を探して回る車旅を何度かやってはいたが、精々三日間くらいの行程だった。
どちらかというとインドア好みの妻は、一度同行しただけでその後は関心を示さない。
定刻で帰宅後、キャンプ装備や衣類を積み込む様子を見ながら、少し尖った口調で訊いた。
「決めてないけど北の方かな・・・・ 五日間の有休を取ったよ・・来週土曜日には帰る・・」
「長いのね・・・ 独り・・?」
時計代わりと天気予報を聞くのに持参するラジオを付ける。
喧しい音楽に慌てて選局ダイヤルを廻す。
株価値下がりのニュースを聞きながら、朝食をつくる。
木立の葉陰から滴る雨は、それほど多くは無いが止みそうもない。
海沿いとは云え、海岸線からは3km三km位 入り込んだ森の中のキャンプ場だ。
季節外れで他にキャンパーの姿は見えない。
小型のフライパンに小片のバターを落とし溶け出すのを待って、卵を割り入れる。
バターの香ばしい匂いが立ち、卵が焼けて泡立つのを見ながら塩コショウをして蓋をする。
こだわりのサニーサイドアップに玉ねぎを炒めてケチャップで味付けしたものを、薄切りにしたパンに挟んで噛り付く。
流れ出す卵黄を溢さない様にして、牛乳で流し込む。
キャンプの朝はいつも同じだ。
昨日の会議の議事録を持ち回って確認印を貰いに行った隣の課長に手ひどく文章訂正を加えられ、少々むくれていた崇に、当の課長が別れ際
「君、”センスが良い”って次長が言ってたよ」
月一回の定例会議の準備から進行、調整、議事録整理までを主催するのが崇の担当業務の一つであった。
幹部全員と当期の議題に関連する実務レベルの主務が出席する十五~十七人規模の会議である。
議事録に細かな訂正や異議を声高に云うのは、決まって自分の部下が周りにいる時なのだが。
月一度の会議を終えて機嫌の良い上司の課長に報告する。
「会議では発言しないのに議事録に文句をつけるのは彼の常だからね。大勢に影響のない事だから言うように書いとけば良いよ」
「一週間の休みは一寸長いけど、有休も使わなきゃな。 ゆっくりしたら良いよ、またキャンプ??」
鷹揚に休暇の許可をくれた課長に頭を下げながら、崇は次長の顔を思い浮かべた。
一年前に今の部門へ転勤したのだが、六~七年前まで崇は労務担当の尾行を受けるほどの組合活動家だった。
「組合対応や人事施策を主担務にする次長が、褒めている??」
悪い気はしなかったし、直接言われるより人づてに伝わるほうが褒められるときは嬉しいものだと・・・・
悪口は逆に大層嫌なものだが・・・・
穿った見方をすれば、これが労務屋の手管かな・・・と、食後のコーヒーを飲みながらぼんやり思っていた。
毛布の上に転がしてあった携帯が青く光って震えた。
着信表示の番号は見覚えのある会社の番号だ。
8回ほど携帯を震わせて止んだ。
事務所は持ち込み禁止の携帯だ。
就業前に自席の業務用電話から掛けたのだろう。もちろんプライベートの電話なのだが。
珍しく定刻退社する崇を、女子社員のたむろする給湯室から見ていたのを感じてはいたのだが・・。
なるべく日帰り立ち寄り温泉の近くにキャンプ場を探した。
最近は温泉併設で食事も提供するところが増えた。
昨夜もテント設営した後、一風呂浴びて食事処でビールと定食を食べて夕食は終わりである。
テント場では眠気を待ちながら、ウイスキーや焼酎を飲みチョロチョロと燃える焚火の炎を眺めて過ごす。
殆どのキャンプ場が直火禁止なので、焚火用の簡易コンロの上の炎であるが・・・
自炊したのは二日目の夜だけである。
そこは温泉場の無い地域で、キャンプ場のコインシャワーで済ませ、途上のスーパーで買ったレトルトカレーとパック米飯の食事だった。
週末だったこともあり、家族連れのキャンパーが一組居た。
ビールの摘みで胡瓜を齧って居たらバーベキューの肉を一串くれた。
持参の紙風船を膨らまして渡すと、退屈した姉弟の歓声が暫く続いていた。
降りやまない雨に、動き出す気力も失せて崇は滞留に決めた。
寝袋の上に寝転がって天幕を眺めながら、さっきの電話に引き戻されるように、次長の言葉と自分のこれからの事を見比べるように考えていた。
会社は大きな転換期にある。
外資による競合参入が始まり、終身雇用制の見直しや退職再雇用など雇用環境も厳しさを増している。
つい六~七年前には、工場現場の徒弟制度に近い旧態依然とした職場環境改善などを求め、崇は同期を糾合し会社側との対立の正面に立った。
これに加えて労使協調路線の労働組合とも、浮き上がり対立するようになった。
結果的にはこの労組との対立が会社側のそれより、より陰湿で容赦ない対応を生んだ。
同期の主要な同調者を次々に懐柔、脅しで離反させ、有ろうことか「新左翼系の所属員」との風評まで飛び出し、孤立が決定的になった。
三年間の閑職蟄居状態に置かれた後、一年前に今の部署に配置されたのである。
三年の蟄居からの解放と知己のない環境、現場とは違う事務作業等、正直余計な事は考えないで与えられた仕事に没頭できた。
しかし、没頭すればするほど、様々な非効率や無駄な慣習が気になり出す自分がいたし、結果的には他者の否定に繋がっていた。
既に組合役員の揶揄が聞こえたし、それは次長の評価と符合するのかもしれない。
昼食を兼ねて漁協直営食堂と直売所を覘いた。
メバル、小鯛、水蛸、ソイ、カレイ、紅ズワイガニ、烏賊、 垂涎の海の幸である。
滞留滞泊の醍醐味だ。
生姜に酒と砂糖と醤油を沸かしてメバルを入れれば、絶品の煮魚である。
烏賊の刺身とよく合う津軽の地酒豊盃も良し。
昼過ぎに上がった雨空は、夕方には虹が掛かり今はもう星空が瞬いている。
薪が少し湿ってはいるが焚火はいい具合に燃えている。
「こんな時間が一番だ・・」
夕刻過ぎから間をおいて二回の着信があった。
変化を求める着信だろうと・・・
「帰ったのね・・」
顔を覆った指の間から涙が落ちた。
「帰ってくれれば何でも良いわ・・」
すすり上げた涙鼻水を拭きながら
「夕食作るね・・」
と、台所に立つ後ろ姿に、
「家の事は変わらないほうが好い・・・・」
翌日、出勤した崇はその足で、担当課長のデスクへ向かった。
新しく立ち上がった営業部門への転属願を申し出た。
ノルマに追われ厳しく個人成績を問われるのは必須だろうが・・・
忖度や慣習に縛られることが多い今の部門より、数値優先、定量評価の営業部門の方が今の崇には腑に落ちる気がした。