菜園の賑わい ・・・・ コロナ禍に乗じて
社会の正義
カール・マルクスは、人間労働こそが価値を生むことを発見した。
フリードリヒ・エンゲルスはその価値を生む労働者が社会の主人公になれるシナリオを共産党宣言に著した。
それを実現する具体的な運動として組織したウラジミール・レーニンやレオン・トロツキーがいた。
そしてその実現を実際に仕上げて後、その正義に生きたチェ・ゲバラがいた。
僕が生きてきた若き時代の1960年代から1980年代は、彼らが僕の師であり指針であり英雄だった。
そのような先達の片方に、それらを貶め歴史を負に逆転させたスターリンや毛沢東や金日成がいる。 国家社会主義のヒットラーも詰まるところ、彼らと同類項の人間の業が生み出した矮小な化け物なのだろう。
今、何でこんなことを改めて思うのだろうか?
-僕に80歳になる従姉がいる。
彼女は16歳で母方の叔父を頼りに上京した。もともと身体に不自由を抱えて言葉が上手く話せない。そのこともあり父親にも疎まれて早くに独立したのだ。
16~7から、ほぼ一人で生きてきた。
何も悪いことはしなかったし、人に迷惑や負担も掛けなかった。
税金や年金保険もキチンと納めてきた。今はお陰で月15万円ほどの年金で暮らしている。
いよいよ、足腰や目に不自由が出て来て、加えて民間賃貸アパート老朽化で住処を追われそうになっている。 そこで僕にSOSが来た。
月5万5千円の家賃で80歳になる独居老人に部屋を貸してくれるのはこの時代皆無だ。
彼女の生活実態を知り、介護認定やら向後の生活設計やら都営住宅の申し込みやら・・・・・
彼女にとって在京で近しい縁戚縁者は今は僕しかいない。
彼女が言う 「 生きるのが辛い。 死んだ方がマシで、生きるのは地獄だ 」って!!
こんなことを彼女に言わせる社会の正義は何処に有りや !!
理想に燃える片方には必ず、妬みや利己心が無知や偏狭さや、そして差別が確かにある。
清朝末期の作家魯迅は、自らの苦境を解放できないのも人々のそのような卑屈な人間の業なのだと、悲しくも表現した。
彼の小説には繰り返し、大衆と云われる虐げられているはずの民衆が、些末な利得で己を売り渡し、正義の士を裏切り、加えてそれらを嘲り己の優位を楽しむ浅はかさを描いている。
目覚めよ大衆と云いつつ、恐らく絶望していたのであろう。
革命を裏切るのは、つまらない功名心や人間の卑しい嫉妬心なのだ。
坂本龍馬も西郷もそのように裏切られていったのだろう。
コロナ禍に怯え、明日の住処に不安を抱え、痴呆の恐怖に死にたいと、会うたびに訴える従姉に、僕にしても為す術もなく途方に暮れ、社会の正義を思うのだ!!
深刻な中で食の愉しみ