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電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

我が家の家紋

2004-08-17 22:59:46 | 日記・エッセイ・コラム
 我が家の家紋を意識した最初は、母親がなくなったときだ。墓石を立てるために家紋を必要とした。そのときに、私は自分の家の家紋が「丸に立ち沢瀉」だとはじめて知った。昔、父に我が家の先祖は武田につながる家系だといわれたことがあるが、それでてっきり、「たけだびし」が我が家の家紋だと思っていた。ただ、その話は二転三転して、最後は源氏の落ち武者だという話になった。確かに、岐阜県の下呂の近くに、父の実家があり、そこはそのの半分が同じ姓だった。

 その次に意識したのは、妻と結婚したときだ。紋付袴というが、妻の着物の紋は、私の家の紋と同じ「丸に沢瀉」だった。これは、妻の亡くなった父の墓参りの時に、知った。妻の実家は、埼玉県の日高市である。その後、妻と妻の母親を私の実家の母の墓参りに連れて行ったとき、義母が驚いていた。もちろん、お寺の方は違っている。妻の実家は、真言宗であり、私の実家は臨済宗妙心寺派である。というわけで我が家の家紋は、「丸に沢瀉」である。

 ところで、「沢瀉」の家紋については、播磨屋さんの「家紋World」に詳しい。

……オモダカは、池や沢などに自生する水草で。愛らしい花が咲く。その昔、この植物を「勝ち草」といって、戦いに勝つことにかけていたという。葉の形が矢ジリに似ている、また、沢瀉威の鎧ということばもあって、「攻めても、守ってもよい」ということから勝ち草とよんだという。毛利氏も副紋にこの「沢瀉紋」を使用している。(丸に立ち沢瀉)


 家紋というのは、世界的に見れば、紋章の一種であるが、日本の家紋は、特殊である。家紋は元々、平安時代の貴族の車が、誰のものか区別がつくように作られたのが始まりだと言われているが、その後、武士の時代になると、合戦の時に自分が誰だか明確に示すために、旗や武具に紋章をつけるようになって普及したという。

 伊沢元彦さんの『逆説の日本史 8 中世混沌編』(小学館文庫)を読んで面白い記述に出会った。

……江戸時代になると、庶民の階級まで家紋は普及した。庶民でも婚礼の際には「紋付袴」を着た。「紋付」と言えば家紋(紋所)をつけた羽織のことだが、「羽織袴」という代わりに「紋付袴」という言葉が通用するほど、家紋は普及していたのである。姓の無い家はあっても、家紋の無い家はない。どうしてもなければ、氏子となっている神社の紋を代用したり、新たに作ることもできた。たとえば歌舞伎役者の家紋は、従来からある紋に一工夫加えて、華やかを強調したものが多い。
 庶民が勝手に姓を名乗ることにはうるさかった幕府も、葵の紋など一部の特赦の紋を除き、紋の使用には寛大だった。(P463)


 私の家も妻の家も、そういう意味では、由緒のある紋ではあるが、出自が由緒正しいかどうかは、よく分からない。

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