子どもの夏休みがもう残り10日を切った。私の子どもは、学校の宿題のうち、ドリルだとか漢字の練習とかは、夏休みが始まる前から初め、終業式の日にほぼ終えていた。後は、ホウセンカの観察日記と運動会で使う締太鼓と習字の作品だけが残っていた。締太鼓は少し難しく、これは母親のかなりの協力で作り終わった。習字は書道教室で習っているので、そこからいい作品を選べば終わりだという。すると、残っているのは、観察日記だけだ。それは、時期が来なければ書けない。見事な宿題の消化の仕方だと感心した。
しかし、本当はやり方が逆なのであって、ドリルとか漢字の練習は繰り返し毎日続けた方がいいに決まっている。不思議なことに子どもはそうしない。なぜそういう順番にやるのか聞いたら、その方が、考えなくてもいいからだという。つまり、早く終えるためにはどうしたらよいかを考えているわけだ。読み書き計算の力をつけるためにはどうしたらよいか、とは考えないのだ。まるで、試験攻略法みたいである。
妻に言わせれば、このほかに、塾とか習い事とかスポーツの合宿とかがあり、学校の宿題は効率よく消化してくれればそれでよいとのことだ。確かに、塾の学習や毎日のお約束の漢字と計算のプリント、進研ゼミの仕上げなど、やることがいっぱいある。だから、学校の宿題などない方がいいのかも知れない。でも、それではすべての子どもが、同じ家庭環境でなければならない。「宿題は宿題で、やっぱり出すべきよ」というのも妻の主張だ。他の家庭のことにはあまり関わりたくないと思っている妻は、今年、子ども会の役員をやることになり、他の子どもたちのこともそれなりに考えなければならないようだ。
私たちが会社に通い、時々、家に帰って仕事の続きをやることと、自分たちが学校へ行き、勉強をし、休みなると宿題が出るということとを、同じように考えている。いま、自分たちがやっていることは、将来、大人になったらやらなければいけないことの準備をしているとは考えないようだ。
私は、昔、文部省で仕事をしていた先生に、「就職したら、『これから勉強します』なんていうべきではない。『今まで勉強をしてきた力を生かして、これからできる限りのことをします』と答えるべきだ。そのために勉強してきたのであり、必要とされたのだから」と教えられた。そういいながら、その先生は、常に向上心を持ち、勉強を欠かさなかったが。
学校で勉強をするということは、一つの過程であり、子どもから大人になる一つの通過儀礼である。もちろん、近代教育は、国民教育であり、その国の国民に相応しい人材育成の過程として形成されてきた。日本もその例外ではない。いま、日本では、「これからの日本国を背負う人材を育成」するといっているけれども、「日本国を背負う人材」とは何かということが分からなくなっていて、「多様な個性を育成する」というように曖昧になっている。「ナンバーワンよりオンリーワン」というわけである。
作家の森村誠一さんが、「今の学校教育は、各人の個性に応じた能力を身につけさせることが主眼となっていて、私たちがやってきたような人間形成の場としての機能をはたさなくなっているのではないか」というような意味のことを述べておられたが、今の公教育は、必要な能力さえ身につけさせていないような気がする。どちらかといえば、学力の形成の場は、私立学校や塾が中心になっているような気がする。そして、子どもたちも、そちらのほうに、自己形成の場を求めているような気がする。「学校より、塾のほうが面白い」という子どもの声を、私はどう受け止めたらいいのだろうか。
しかし、本当はやり方が逆なのであって、ドリルとか漢字の練習は繰り返し毎日続けた方がいいに決まっている。不思議なことに子どもはそうしない。なぜそういう順番にやるのか聞いたら、その方が、考えなくてもいいからだという。つまり、早く終えるためにはどうしたらよいかを考えているわけだ。読み書き計算の力をつけるためにはどうしたらよいか、とは考えないのだ。まるで、試験攻略法みたいである。
妻に言わせれば、このほかに、塾とか習い事とかスポーツの合宿とかがあり、学校の宿題は効率よく消化してくれればそれでよいとのことだ。確かに、塾の学習や毎日のお約束の漢字と計算のプリント、進研ゼミの仕上げなど、やることがいっぱいある。だから、学校の宿題などない方がいいのかも知れない。でも、それではすべての子どもが、同じ家庭環境でなければならない。「宿題は宿題で、やっぱり出すべきよ」というのも妻の主張だ。他の家庭のことにはあまり関わりたくないと思っている妻は、今年、子ども会の役員をやることになり、他の子どもたちのこともそれなりに考えなければならないようだ。
私たちが会社に通い、時々、家に帰って仕事の続きをやることと、自分たちが学校へ行き、勉強をし、休みなると宿題が出るということとを、同じように考えている。いま、自分たちがやっていることは、将来、大人になったらやらなければいけないことの準備をしているとは考えないようだ。
私は、昔、文部省で仕事をしていた先生に、「就職したら、『これから勉強します』なんていうべきではない。『今まで勉強をしてきた力を生かして、これからできる限りのことをします』と答えるべきだ。そのために勉強してきたのであり、必要とされたのだから」と教えられた。そういいながら、その先生は、常に向上心を持ち、勉強を欠かさなかったが。
学校で勉強をするということは、一つの過程であり、子どもから大人になる一つの通過儀礼である。もちろん、近代教育は、国民教育であり、その国の国民に相応しい人材育成の過程として形成されてきた。日本もその例外ではない。いま、日本では、「これからの日本国を背負う人材を育成」するといっているけれども、「日本国を背負う人材」とは何かということが分からなくなっていて、「多様な個性を育成する」というように曖昧になっている。「ナンバーワンよりオンリーワン」というわけである。
作家の森村誠一さんが、「今の学校教育は、各人の個性に応じた能力を身につけさせることが主眼となっていて、私たちがやってきたような人間形成の場としての機能をはたさなくなっているのではないか」というような意味のことを述べておられたが、今の公教育は、必要な能力さえ身につけさせていないような気がする。どちらかといえば、学力の形成の場は、私立学校や塾が中心になっているような気がする。そして、子どもたちも、そちらのほうに、自己形成の場を求めているような気がする。「学校より、塾のほうが面白い」という子どもの声を、私はどう受け止めたらいいのだろうか。