突然、子どもが映画を観たいと言いだし、昼頃から入間市の「ユナイテッド・シネマ入間」に行くことになった。子どもが観たい映画は、「金色のガッシュベル!! 101番目の魔物」。妻は、丁度水曜日でレディースデーだから、子どもと一緒に映画を観ても良いということになり、私は1人で「世界の中心で、愛をさけぶ」を観ることした。
1人で純愛映画を観ることが、妻に対してなんとなく後ろめたい気がした。さすがに、この映画のピークが過ぎていたので、館内は空いていた。私の隣には、丁度、映画の主人公(朔太郎と律子)より少し若い恋人同士がいた。その隣に座っているのも、何となく気恥ずかしい気もした。
原作は、少し前に読み終えた。原作とはかなり異なった映画だったが、映画の主題は、朔太郎がどのように「亜紀との関係」の「後かたづけ」をするかが、テーマだったと思う。ヤフー・ジャパンの映画の紹介サイトがあるが、一応掲載期間が2004年3月19日~2004年7月30日となっているので、おそらくもうすぐ消える可能性がある。そこから、少し引用しておく。
原作では、かなり頻繁に朔太郎と亜紀は会っていたが、映画では、余り会えなくて、その代わり、カセットテープに声を録音して、それを近くの病室に入院している女性の子どもの小学生に届けてもらうことになっている。亜紀が、死ぬ直前に最後のテープをその少女に託すが、少女は車にはねられてしまう。そして、そのまま入院し、片足が不自由になり、テープを渡さないまま持っていることになる。その少女こそ律子であり、そのテープが律子が昔着ていた洋服のポケットに入っていた。
朔太郎との結婚式を前に、部屋の片づけをしていた律子は、自分が小さかった頃着ていた服の中に入っていたテープを見つける。テープを聴いて、テープの中の相手が、自分の婚約者の朔太郎ではないかと考え、四国の朔太郎と亜紀が通っていた学校へ行ったのだった。やがて、朔太郎は、叔父の写真館にきた律子と連絡がとれ、律子がテープを運んでくれていた小学生だと知る。そして、二人で、オーストラリアのウルルに行く。そこで、朔太郎は亜紀の最後のテープを聴き終えてから、律子の目の前で、灰になった亜紀を風に飛ばす。
試写会後のインタビューで、作者の片山恭二さんは、次のように語っている。
私は、小説より面白い作品になっていると思った。おそらく、私がそのように思ったのは、映画では、亜紀の両親が朔太郎が秋を連れ回していたこと許していなかったことになっているし、オーストラリアへ行ったのが、両親とではなく、婚約者の律子とだったことによると思う。原作を読んでいたせいか、私は、泣かなかった。もちろん、原作でも泣かなかった。原作では、虚ろなままの朔太郎がこの先、普通に生きていけるのかどうかそちらの方が心配だった。それに対する一つの解決の仕方を、行定勲監督が出してくれた。
なお、私の隣の二人は、しっかりと泣いていた。彼女の方がハンカチを取り出して、自分の涙と相手の涙を拭いていた。
1人で純愛映画を観ることが、妻に対してなんとなく後ろめたい気がした。さすがに、この映画のピークが過ぎていたので、館内は空いていた。私の隣には、丁度、映画の主人公(朔太郎と律子)より少し若い恋人同士がいた。その隣に座っているのも、何となく気恥ずかしい気もした。
原作は、少し前に読み終えた。原作とはかなり異なった映画だったが、映画の主題は、朔太郎がどのように「亜紀との関係」の「後かたづけ」をするかが、テーマだったと思う。ヤフー・ジャパンの映画の紹介サイトがあるが、一応掲載期間が2004年3月19日~2004年7月30日となっているので、おそらくもうすぐ消える可能性がある。そこから、少し引用しておく。
……映画版「世界の中心で、愛をさけぶ」では、小説ではほとんど語られることのなかった、成長し大人になった主人公・朔太郎のストーリーを大幅に追加。映画のオリジナル部分である「現在の愛との対峙(たいじ)」と原作小説にある「過去のアキとの甘くせつない純愛」が織り成すアンサンブル・ストーリーとして再構築されている。
物語は、大人になった朔太郎(大沢たかお)の婚約者・律子(柴咲コウ)が失跡するところから始まる。律子の行き先が四国だと知り、そのあとを追う朔太郎だったが、そこは初恋の相手・アキ(長澤まさみ)との思い出が眠る場所でもあり、朔太郎はしだいにその思い出の中に迷い込んでしまう……。
サク(高校時代の朔太郎:森山未來)とアキの初恋は甘く淡いものだった――二人は一緒にラジオ番組に投稿したり、ウォークマンで声の交換日記のやりとりをしたり、無人島への一泊旅行をしたりと、二人にとってはすべての一瞬が永遠のように感じられた。
ところがアキが不治の病であることが発覚し、運命が急転する。懸命に生きようとするアキだが、直面する現実は避けられない。一方、サクは、アキのあこがれだったオーストラリアの神聖なる土地・ウルルにアキを連れていく計画を思いつく。しかし病院を抜け出した二人は、空港に向かうも、アキは飛行機に乗ることなくロビーで倒れてしまう……。
ところがアキが不治の病であることが発覚し、運命が急転する。懸命に生きようとするアキだが、直面する現実は避けられない。一方、サクは、アキのあこがれだったオーストラリアの神聖なる土地・ウルルにアキを連れていく計画を思いつく。しかし病院を抜け出した二人は、空港に向かうも、アキは飛行機に乗ることなくロビーで倒れてしまう……。
――現在。思い出の迷宮をさまよう朔太郎と律子は、やがて、隠れていた「真実」を手繰り寄せる。そして、かつて伝えられることのなかったアキの最期のメッセージが、十数年の時間を超えて朔太郎のもとへ届くこととなる……。
愛する人の死。未来を紡ぐ愛――
愛する人の「死」と生きていくために渇望する「愛」が織りなす、純愛タペストリーの誕生。
原作では、かなり頻繁に朔太郎と亜紀は会っていたが、映画では、余り会えなくて、その代わり、カセットテープに声を録音して、それを近くの病室に入院している女性の子どもの小学生に届けてもらうことになっている。亜紀が、死ぬ直前に最後のテープをその少女に託すが、少女は車にはねられてしまう。そして、そのまま入院し、片足が不自由になり、テープを渡さないまま持っていることになる。その少女こそ律子であり、そのテープが律子が昔着ていた洋服のポケットに入っていた。
朔太郎との結婚式を前に、部屋の片づけをしていた律子は、自分が小さかった頃着ていた服の中に入っていたテープを見つける。テープを聴いて、テープの中の相手が、自分の婚約者の朔太郎ではないかと考え、四国の朔太郎と亜紀が通っていた学校へ行ったのだった。やがて、朔太郎は、叔父の写真館にきた律子と連絡がとれ、律子がテープを運んでくれていた小学生だと知る。そして、二人で、オーストラリアのウルルに行く。そこで、朔太郎は亜紀の最後のテープを聴き終えてから、律子の目の前で、灰になった亜紀を風に飛ばす。
試写会後のインタビューで、作者の片山恭二さんは、次のように語っている。
Q. 映画はいかがでしたか?
小説の精神やエッセンスが随所に散りばめられながらも、小説とはまた違った映像世界が誕生していました。小説のなかで描かれているシーンと、小説にはない映画独自のシーンとが相互に補い合う感じで、決してぶつかっておらず理想的な感じがしました。正直、期待はしていたのですが、その期待以上の素晴らしい作品だと思います。
私は、小説より面白い作品になっていると思った。おそらく、私がそのように思ったのは、映画では、亜紀の両親が朔太郎が秋を連れ回していたこと許していなかったことになっているし、オーストラリアへ行ったのが、両親とではなく、婚約者の律子とだったことによると思う。原作を読んでいたせいか、私は、泣かなかった。もちろん、原作でも泣かなかった。原作では、虚ろなままの朔太郎がこの先、普通に生きていけるのかどうかそちらの方が心配だった。それに対する一つの解決の仕方を、行定勲監督が出してくれた。
なお、私の隣の二人は、しっかりと泣いていた。彼女の方がハンカチを取り出して、自分の涙と相手の涙を拭いていた。