この見出しは、ITmediaNewsの2004.8.20の記事から取ったものだ。これは、「P2P企業はファイル交換ソフトユーザーによる著作権侵害の責任を負わない」とする一審判決が控訴審でも支持されたというだけであり、「ファイル交換ソフトユーザーによる著作権侵害」を許しているわけではない。
この判決が日本のWinny問題にどのように影響してくるか分からないが、著作権の現在を考えさせられる問題ではある。著作権のルールというのは、「他人のつくった著作物を無断利用してはいけない」というものだ。もちろん、「他人」とはどんな人か、「著作物」とはどんなもののことか、「無断利用」とはどういう使い方かなど、難しい問題は沢山ある。日本が最初に著作権法を作ったのは1899年(明治32年)のことである。いずれにしても、「著作権」というのは、近代社会になってはじめて作られた法律である。ベートーベンやモーツアルトは、著作権に守られてすばらしい音楽を作ったなどと言うことはなかった。彼らは、貧しさの中で、死んでいった。
元文化庁著作権課長の岡本薫さんの『著作権の考え方』(岩波新書)はとても示唆に富む文章だ。「著作権」によく似ている制度として、日本の律令時代の「三世一身の法」(荒地を開墾して田畑をつくった人は、孫の代までその土地を自分のものにできる)という制度を上げている。「自分でつくったものの価値」「保護期間」「インセンティブの付与」という点で、「知的財産権」の特色をうまく説明できている。そこで、岡本さんは、大切なことを言っている。
だからこそ、著作者、業界、利用者のそれぞれで権利に対する利害関係が複雑な関係をつくり、圧力団体ができたり、強いところの権利が認められたりするわけだ。Winny問題も、開発者の金子勇さんが個人的に著作権違反をしていたかどうかは別として、Winnyのようなソフトの開発が「著作権違反者を幇助した」として罰せられるのは馬鹿げている。
「友達に貸した本を、私に無断で、その友達が勝手に友達の友達に貸した」ということと、「私のメールを、私に無断で、受信者が勝手にその友達に転送した」ということとは、一歩の違いである。前者は、本そのものを貸している。後者は、デジタルのコピーを送っている。それは、大きな違いだろうか。それとも小さなな違いだろうか。それでは、転送ではなく、勝手に持って行った場合はどうなるのか。「私の本や、メールは、友達だったらどうぞ勝手に使ってください」と明記してあればいいのか。もちろん、サーバーにアップすることは、「公衆送信可能化権」というので著作権法上違法である。しかし、それがサーバーでなければどうか。Winnyは、そこで使われる。
私には、ハイパーテキストという考え方の中に、現在の著作権を越えてしまっていることがあるような気がしてならない。インターネット上では、ハイパーテキストは、HTTPプロトコルによって実現されている。しかし、私たちが使っている言語は、本当はハイパーテキストではないだろうか。私の「実存」という言葉は、サルトルのある本にリンクされている。最近のWeblogの世界は、複雑な関係になっているが、基本的にリンクをうまく使えば、この脳の中の言葉のあり方とほぼ同じことを第三者の前で見せることができる。そうなると、ティム・バーナーズ=リーの「Semantic Web」の世界では、その世界そのものが全ての人の共同の著作物となってくる可能性がある。いわば無数の人たちによってつくられた「共同の著作物」は、誰の許可なくても使えるようになっていなければ、とてもじゃないが使えない。
……米サンフランシスコの第9巡回区控訴裁は8月19日、P2Pネットワークにはユーザーが犯した著作権侵害の責任はないとの判決を下した。この判決は、1984年のソニー・ベータマックス訴訟で確立された「技術は中立」という原則に基づいた一審判決を支持するものだ。
これは人気のファイル交換ネットワークにとって強い影響力を持つ勝利となる。その中で裁判所は、確かにP2Pネットワーク上では著作権侵害が起きているが、それを可能にするソフトのオーナー・開発者に侵害行為の責任を負わせることはできないとしている。
3人の判事による全員一致の判決の中で、シドニー・R・トーマス判事は次のように述べている。「われわれは変化の速い技術環境に生きており、裁判所がインターネットの革新の流れをとどめるのは不適切だ。新技術の導入は、常に古い市場、特に確立された流通メカニズムを通して作品を販売する著作権保有者に破壊的な影響をもたらす」
この判決が日本のWinny問題にどのように影響してくるか分からないが、著作権の現在を考えさせられる問題ではある。著作権のルールというのは、「他人のつくった著作物を無断利用してはいけない」というものだ。もちろん、「他人」とはどんな人か、「著作物」とはどんなもののことか、「無断利用」とはどういう使い方かなど、難しい問題は沢山ある。日本が最初に著作権法を作ったのは1899年(明治32年)のことである。いずれにしても、「著作権」というのは、近代社会になってはじめて作られた法律である。ベートーベンやモーツアルトは、著作権に守られてすばらしい音楽を作ったなどと言うことはなかった。彼らは、貧しさの中で、死んでいった。
元文化庁著作権課長の岡本薫さんの『著作権の考え方』(岩波新書)はとても示唆に富む文章だ。「著作権」によく似ている制度として、日本の律令時代の「三世一身の法」(荒地を開墾して田畑をつくった人は、孫の代までその土地を自分のものにできる)という制度を上げている。「自分でつくったものの価値」「保護期間」「インセンティブの付与」という点で、「知的財産権」の特色をうまく説明できている。そこで、岡本さんは、大切なことを言っている。
……知的財産権は「ルール」であって「モラル」ではない──ということにも、よく注意することが重要である。特に著作権については、「著作権を守る心や意識」などというものを持ち出す人が多いが、(「ルールを守る」という心・意識の重要性は当然として)どの程度権利を付与するかということは、モラルではなくルールの問題として考えるべきことである。(P6)
だからこそ、著作者、業界、利用者のそれぞれで権利に対する利害関係が複雑な関係をつくり、圧力団体ができたり、強いところの権利が認められたりするわけだ。Winny問題も、開発者の金子勇さんが個人的に著作権違反をしていたかどうかは別として、Winnyのようなソフトの開発が「著作権違反者を幇助した」として罰せられるのは馬鹿げている。
……今日では、コピー機が街中に氾濫し、テープレコーダーやビデオ・DVD録画機やデジカメを多くの人びとが持ち、インターネットに接続されたパソコンや携帯端末を、子どもから高齢者まが使う時代になっている。このため、突然にコンテンツの「ユーザー」となった多くの人びとが、「日常生活の中で、他人のコンテンツをうっかり利用してしまい、訴えられる」という危険に直面するようになった。さらに、これらの機器は「他人のコンテンツを利用する」ことにも使えるが、「自分のコンテンツを創作する」ことにも使える。つまり、多くの人びとが、「ユーザー(利用者)」になると同時に、権利を持つ「クリエーター」にもなったわけであり、そのような「一億総クリエーター、一億総ユーザー」という時代が突然に訪れたのである。(p3・4)
「友達に貸した本を、私に無断で、その友達が勝手に友達の友達に貸した」ということと、「私のメールを、私に無断で、受信者が勝手にその友達に転送した」ということとは、一歩の違いである。前者は、本そのものを貸している。後者は、デジタルのコピーを送っている。それは、大きな違いだろうか。それとも小さなな違いだろうか。それでは、転送ではなく、勝手に持って行った場合はどうなるのか。「私の本や、メールは、友達だったらどうぞ勝手に使ってください」と明記してあればいいのか。もちろん、サーバーにアップすることは、「公衆送信可能化権」というので著作権法上違法である。しかし、それがサーバーでなければどうか。Winnyは、そこで使われる。
私には、ハイパーテキストという考え方の中に、現在の著作権を越えてしまっていることがあるような気がしてならない。インターネット上では、ハイパーテキストは、HTTPプロトコルによって実現されている。しかし、私たちが使っている言語は、本当はハイパーテキストではないだろうか。私の「実存」という言葉は、サルトルのある本にリンクされている。最近のWeblogの世界は、複雑な関係になっているが、基本的にリンクをうまく使えば、この脳の中の言葉のあり方とほぼ同じことを第三者の前で見せることができる。そうなると、ティム・バーナーズ=リーの「Semantic Web」の世界では、その世界そのものが全ての人の共同の著作物となってくる可能性がある。いわば無数の人たちによってつくられた「共同の著作物」は、誰の許可なくても使えるようになっていなければ、とてもじゃないが使えない。