今日も元気で頑張るニャン

家族になった保護猫たちの日常を綴りながら、ノラ猫たちとの共存を模索するブログです。

ノラたちとの共存を目指して その7・形而上学編「ノラの幸せとは」(シャッポやソトチビの行動に想う)

2020年01月31日 | シリーズ:ノラたちとの共存を目指して
はじめに、なんとも不遜なタイトルをつけてしまったと後悔しています。形而上学とは実態のないもの(例えば善悪とか幸福)を追求し、論理的な言葉を使って表現する学問。そんなの哲学者でもない限り無理ですよね。そもそも、他者の幸せを追求するなんておこがましい? しかも相手は猫だし・・。

ただ、猫には幸福という概念そのものがないとか、感情はないとか言う人(科学者)もいるようですが、それは違うと思います。猫と一緒に暮らす人なら知っている。猫にはれっきとした喜怒哀楽があるし、幸せに浸ることだってあるのです。しかも人の社会で生活し人と対等の意識を持つ猫たちは、家猫であろうがノラであろうが、人と同質の喜怒哀楽を感じている。そして気丈な振る舞いで隠してはいるけど、最も哀しみに満ちた存在がノラだと思うのです。人によっては「自由を謳歌している」と見る向きもある。それは同じノラでも境遇が違うからだろう。しかし明日を約束されてないという点で、彼らは共通しているのです。

でも、そもそも幸せって何だろう。その条件は万人に共通するものなのか。主観を徹底的に排除するのならヒルティ、アラン、ラッセルの三大幸福論を読破することから始めるか。主観の塊で言うならば、「シャッポ」や「ノラたちの幸せを願って」カテゴリーで随分いろいろ書いてきた。でも、いくら考えても結論が出ない。椎名林檎さんは自作曲「幸福論」の最後でこう結ぶ。「あなたがそこに生きているという真実だけで幸福なのです。」 これなら理解できそうだ。著名な猫写真家の岩合光昭さんは言う。「猫が幸せに暮らせる街は人も幸せに暮らせるんです。」 さすが、いいことをおっしゃる。

束縛と強制を何よりも嫌う放任主義者の古女房殿によれば、わが家に迎える前の、家裏で暮らしていたときのみうの環境が猫にとっては最高なんだと。街には車も少ないし人ものどかで安全だし、自由に外を走り回り、寝床もご飯も至れり尽くせり、病気になれば面倒みてもらえる。今はサクラがみうの後を継ぎつつある。車と人が多く危険度は高いけど、店のシャッポもそうだった。みうと一緒にいたソトチビもだ。では何故、シャッポやソトチビはそんな生活に背を向けたのだろうか。


   シャッポ                       ソトチビとみう(家裏時代)

一方昼はリード生活、夜は13㎡くらいの狭い事務所にお泊りしていたテンちゃんはどうだったのか。昼は自由、夜は100㎡の広い室内で過ごすレオは?  かつて「テンちゃんForever」の中で、幸せの指数はどのくらい周囲からの愛情を感じているかだと書きました。果たしてテンちゃんはそれで納得するだろうか。もちろん待遇だって大事なのに、人間にとって都合のいいだけの詭弁になってはいないか。でも、テンちゃんはいつも満足そうな顔をしていたなあ。それはテンちゃんがスタッフを大好きで、スタッフもテンちゃんを大好きだったからに違いない。


レジ台から店内を見渡すテンちゃん

かつて「ノラの矜持」という記事の中で、こんな問いかけをしました。
あなたならどちらを選びますか?
1.とにかく"今"を大切にして、毎日を思い切り謳歌する太く短いが楽しい人生
 2.精進と我慢を重ねて、その中に生活の充実と楽しみを見出す穏やかで長い人生
この設問は言い換えれば、危険な自由と安全な束縛の選択です。そう、ノラと家猫の境遇を比較してみたのです。この選択は猫どころか人間にだって難しい、当時はそう結びました。それに、これを選ぶのは猫でも人間でもなくて、敢えて言うなら運命ですよね。どうやらこの選択は幸せのファクターではなさそうだ。

以前に動物の5つの自由という考え方を紹介しました(脚注あり)。今から半世紀も前に動物福祉の先進国である英国で確立された考え方で、日本では近年になって言われ始めた。もちろんこれは動物としてのヒトにも当てはまります。ただこの中のひとつ、「本来の正常な行動がとれる自由」というのはちょっと解釈が難しい。人間の場合は人種や文化の違いがいろいろあっても、人間らしくと言えばだいたいわかる。でもノラの場合、本来の行動とは何だろう。


久しぶりの日光に日向ぼっこするレオ

多くの人は野生の猫の生態を思い浮かべるだろう。ネットでもそのように説明しているサイトが殆どだ。でも、ノラは野生動物なのだろうか。先にも述べたように、人間と同質の感情を持つノラが野生動物のわけがないと自分には思えます。ノラと家猫が可逆的に変化することは誰でも知っていることだけど、それは元が同じだからです。家猫を野生動物と言う人はいないでしょう。長い年月、人と暮らしている間に猫族は変わった。猫族に限らず、ペットや家畜と呼ばれる動物たちはみなそうです。でも、大昔の野生時代の遺伝子を秘めていることも確かだ。

ヒトを含めすべての生物が持つ野生のDNA。このDNAは自己保存のために「野生の本能」としてその生物の行動を規定する。それは恐怖心や個々の命にも優先する種族保存の法則なのです。命をも顧みない恋行動や縄張り争いは、まさに自身のDNAを残すための行動だ。神様が創ったとしか思えない最高傑作の仕組みなのです。このことは過去記事「ノラの本懐」以来、多くの記事の中で書いてきました。

しかしその中に、神をも恐れない生物が現れた。私たち人間です。人間が長い年月をかけて築きあげた文化。その文化に醸成された理性によって、人間は野生の本能を克服してきた。種族は争わなくても繁栄できる。一部にまだ本能に支配された人たちがいることは残念だけど。人間はさらに科学と知識を発達させてその本能の正体を暴き、より確実に克服しようと努めてきたのです。そして、DNAが「本能」として生物の行動を規定する仕組みが解明された。その仕組みに携わっているのがホルモンだ。

倫理上人間にはできないが、例えば猫には不妊手術を施すことによって「野生の本能」から開放できるかもしれない。今の不妊手術はTNR活動に見られるように、子供を産ませない目的で行われています。確かに恋行動の制御はできるだろう。でも本当に野生の本能から開放されるかという検証は不十分だ。雄同士の喧嘩やエクスカーションには、他のファクターが関与している可能性もあるからです。もうひとつ大事なこと。子供を産ませないというのは人間の都合なわけで、そのために当該猫に手術というリスクをとってもらうわけです。それに見合うケアすることは不可欠だ。

さて、動物の5つの自由の話に戻って、そのうちの本来の正常な行動とはノラも家猫も同じであり、それは野生の生態ではなくむしろできる限り野生の本能から開放された行動と考えるべきです。猫は人間のように理性で本能を克服できないから、リスクを最小限にしての不妊手術も必要だ。その上で5つの自由が守られた状態なら、それは幸せへの第一歩と言えるだろう。しかし何より決定的なことは、より大きく、より深い、自分本位ではない真の愛情と思いやりを注がれることだ。それは人間もノラも同じなのだと信じて疑いません。

※動物の5つの自由とは①飢えと渇きからの自由、②痛み、負傷、病気からの自由、③恐怖や抑圧からの自由、④不快からの自由、⑤本来の正常な行動がとれる自由。


「オジン、今日もニャーたちのために、お疲れさんだニャ」

「ノラたちとの共存を目指して」:予告編(期日未定)
その1  資料編「現状と動向調査」(追記:餌やり、地域猫問題)
      2017.2.27
その2  現場編「ノラを守るのに理由は要らない」(報道されたボラさんたち)
      2017.5.31
その3  エサやり問題・続編「裁判事例の検証・他」(司法が肯定したもの、否定したもの)
      2017.8.31
その4  一服編「ノラだからこそ・・かわいい!」(ニャー&みう+テンちゃんの日常)
      2017.11.30
その5  闘魂編「許さない、虐待に不法投棄に暗闇ビジネス」
      2018.4.29
その6  原点回帰編「再確認・人間性とは?」(食肉、動物駆除と保護活動)
      2018.8.31
その7  形而上学編「ノラの幸せとは」(シャッポやソトチビの行動に想う)
その8  地域猫問題・続編「殺処分ゼロに向けて」(目的達成のために必要なこと)
その9  理想追求編「殺処分ゼロの先にあるもの」(対等の精神と真の共存)
番外編
番外編1 「罪と罰」(法の実行と刑罰の妥当性)
              2019.3.29
番外編2 「動物愛護の精神を問う」(餌やり議論の本質)
              2019.10.31
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