人間性って何だろう。人間らしく生きるとは、どういうことなのだろう。そもそも人間って、何?
地球上の生物は「自分らしく」なんて考えることもなく生きてきた。そんな必要もなかった。自然の法則に従っているだけだから。でも人間は、その進化の過程で自然に抗い始めた。医療しかり、物造りしかり。自然では生じえないことを起こし、あり得ない物を生み出してきた。そしてついに、想念という地球上とは別の世界まで造り出し、自分自身を見つめ直すことができるようになったのです。
広辞苑などの辞書で調べると、“人間性”とは「人間としての本性、人間らしさ」とか「人間として生まれつき備えている性質」とある。これじゃあわからないので、”人間”そのものについて調べてみると「人、人類、人格」などと言葉の遊びみたいでやっぱりわからない。言葉を使うといった生物学的な解説は別として、この問いかけは禅問答のようなものなのかもしれません。
でも”人間性を失う”というキーワードで調べてみると、その元になる考え方が見えてくる。わかり易いのは、「人間性を失う=動物的になる=本能で行動する」という説明。だから犯罪を起こす、というわけです。これは明らかに人間を他の動物の上に見ていて、本能に生きる様を見下した考え方です。本能に基づいた行動が犯罪を招く、果たしてそうでしょうか。本能って悪いもの? 本能で生きる動物たちは、悪い存在?
日本人はかつて、「血の滴るビフテキを食べながら人間性を説く」と欧米人を揶揄してきた。農耕民族だった日本人は、家畜を文化とし動物の屠殺に身近な彼らを野蛮な人種だと考えた。一方欧米では、日本の代表的な料理法である活け作りや踊り焼きほど残酷な仕打ちはないと訴える。今では文化交流が進んでいずれも共通の人気料理となり、このような訴えはあまり聞かれなくなった。
日本人は鯨を食べるし、イルカを食べる地域もあって世界から非難されている。中国では犬を食べる文化がある。地球上のどこかには猫を食べる民族もいるかもしれない。本来なら資源の問題を別にすれば、何かを食べるのはよくて何かを食べるのはダメ、ということはないはずだ。
食べるということはその生物を殺すということです。前章その5で、愉快犯的な動物の殺傷は無条件の死刑に値すると訴えました。それは日本人が、家族同様に暮らしてきた家畜を殺して食べることで常に命と向き合ってきたヨーロッパの民族と違って、(特に動物の)命というものに対する意識が薄いと思えたからです。
我々は肉を食べるときに、「その肉がどのようにして目の前に来たのか」ということを意識するだろうか。家族のように育ててきた牛や豚を殺すということがどんなことか、理解できるだろうか。命の尊さを知るということは、そこから始まるのだと思うのです。日本人が悪いと言っているのではない。日本では畜産農家は別として、そのような経験をしてこなかった。それが、私たち日本人なのです。
人も動物も食べるために命を奪う。しかし動物は、基本的にそれ以外の目的で命を奪うことをしない。狩りの練習はするがそれも結局は食べていくため。食べること以外の目的でたやすく命を奪うのは人間だけです。それでも私たち人間は、動物より上の存在なのでしょうか。
「いろいろあったけど、結局この家で暮らしてます」(もうすぐ1才のキーとクウ)
話は変わって、私たちは小さい頃から「他人の物」を奪ってはいけないと教わります。そして人間社会には、窃盗罪をはじめ数々のルールがある。それは「人の物を奪ってはいけない」のであって、動物の物は対象外だ。
わが家の周辺ではいまだに大規模な宅地開発が進み、毎年1万戸以上の住宅が建設されている。(千葉県全体では5万戸以上) 大きな丘陵がまるまる削られ、深くて見晴らしのよかった谷間が埋め立てられ、鬱蒼とした広大な森林が開墾されて、住宅街に変わっていきます。最近この地区では、タヌキやハクビジンなどを路上で見かけたという話を聞くようになりました。
昨年末は京都で、学校に”危険害獣”であるイノシシ2匹が侵入して騒ぎになった。校舎やプールで暴れまくるイノシシを追いかけて大捕り物を展開。イノシシは麻酔銃で撃たれその後捕獲されたが、それがどんなに怖いことだったか、各報道はそこに焦点を当てていた。一体イノシシは人を脅かそうと悪意を持って侵入したのでしょうか。そのイノシシが結局、麻酔の効いた状態で溺死あるいはショック死したことは後で知りました。
昨年の春頃、青森県で日本鹿の全頭駆除が決定されネット上で賛否が議論された。森林保護の観点から決定されたとのことだった。千葉県でも、増えつつある外来動物キョン(鹿のような動物)の防除が策定された。キョンは県内の倒産したテーマパークから逃げ出したものらしいが、防除の理由のひとつに日本鹿の生態系を守るというのがあった。
実際、鹿やイノシシに農作物の被害を受けている農家さんは少なくないし、街中でクマやイノシシに遭遇するのは恐怖だ。だから安易に動物愛護を語るつもりはありません。だが、家族や生活を守らなければならないのは人間も動物も同じだ。住宅街に迷い出て怖かったのは、人間も当のイノシシも同じなのです。もっと前の開発開墾の段階で共存の道を探ることは、知恵者たる人間にもできないことなのだろうか。
先住者であった動物の住処を奪っておいて、追われた動物が街中に出て来れば住人の安全を危うくする害獣だと駆除(殺処分)する。日本だけじゃない、ユーカリの伐採でコアラが激減したり、森林伐採や焼畑農業でマダガスカルの希少動物が絶滅の危機に瀕したり、常に加害者は人間だ。そもそも爆発的に増えて地球という母なる大地を破壊しているのは他ならぬ人間です。さて、「地球上の犯罪者、駆除されるべきは人間なり」なのでしょうか。もう一度書きます。食べること以外の目的でたやすく命を奪うのは、人間だけなのです。
「1才過ぎたからオジンの手伝いもしないとね」(まだまだ子供のちび太)
自分は3年ほど前からノラ猫の保護を意識するようになりました。それはやはり猫が好きでノラが可哀相だと思ったからだけど、猫族が人間の産物であり人間社会で暮らし、人間と意思の疎通を図れる身近な動物であることを、かつての3匹と暮らして理解したからだと思います。
だが現実は厳しかった。人間社会には(特に日本には)動物を器物とする法律があり、自分たちと異なる生活観を持つ動物を簡単に排除抹殺する風潮があった。何より命そのものに対する意識が薄い。餓死寸前の子猫が目の前で慈悲を求めてきても、「責任が持てないから」と無視できる。誰もが「当事者」にはなりたくないし、「死」には直面したくないだろう。だが、見て見ぬ振りの行為は多数決の下で正当化され、やがては当事者非難へと変貌した。
TNR活動はノラ猫のためではなく、人間(住民)のためにあります。ノラ自身はこの活動で幸せになることはない。むしろ手術によって命の危険さえ被るのです。手術後の十分な回復を待たずにRされれば、そのリスクはもっと大きくなる。それでも、「不幸な子を増やさないために」とTNRする。殺処分よりはましだからだ。でも、手術の危険を被ったノラがそれで市民権を得るかと言えばそれもない。効果が出る(数が減る)までタイムラグがあるから当面の反論や苦情が絶えない。ボランティアさんたちは、身を粉にして活動し出費も少なくないのに、何とも報われない日々を送っているのです。
さらにおかしな風潮がある。少なくとも日本では、猫を捨てる人ではなく捨てられた猫(ノラ)を救おうとする人に非難が集まる。確かにノラの自然増も無視できないが、それに匹敵するくらいの数がいまだに捨てられているのです。(シリーズ過去記事で推定、迷子含む。) しかも人間社会には、必然的に猫を捨てる仕組みを持った業界がある。猫の生産、流通、市場、小売の過程で、しかも採算第一主義のビジネスで、病気になったり売れ残った猫たちはどこに行くのか、尋ねるまでもないことだ。
この命に対する意識の低さ、モラルの低さを放置する限り、ノラたちやノラ保護ボランティアの人々が救われることはありません。どんなにノラを保護しても、次から次へと現れてくることになるのです。そして、ノラがいるのはお前のせいだと言われる。罪を被ってくれる人がいるから、この国では安心して猫を捨てることができるのだ。
ノラの存在は、人間が命を軽んじたことの結果です。その猫が死ぬことを意識せずに「エサをやるな」と言うのは、と殺という感覚がないままステーキを食べるのと似ている。特に日本人は動物の死体を見ると気味悪がるが、自分が死体を食べているのだという感覚がない。ステーキは、スーパーできちんと包装された切り身だと思っているのです。
※エサやりに関しては、1週間前の記事「続・エサをやるなは殺せと同じ」も参照して頂けたら幸いです。
宗派的な例外はあっても、人間は雑食性だから肉も食べる。食べるために命を奪う。だからこそ、どんな宗教も慈悲の心、そして命を大切にしなければならないと説く。慈悲とは、「苦を除き楽を与えようとする心」です。それを、私たちは「人間性」と呼んできた。保護活動は人間性の象徴です。”命を慈しむ心”がなければ保護活動とは言えません。対象は当のノラはもちろん、ノラのために悩んでいる人たちも含みます。そうなってはじめて、「ノラたちとの共存を目指して」の第一歩になり得ると思うのです。
最後に、動物の被害に遭っている農家さんや恐怖に怯えている住人の方々には、手厚い保護と補助が必要だ。その原因が開発した側、さらには開発を許可した行政にあって、被害者の方々には何の罪もないからです。同時に、動物たちとうまく住み分ける提案と施策が重要だ。特に今後は、事前調査や対策を開発者に求め、罰則や規制の強化について早急に検討する必要があると考えます。
ただ、いまだに箱物行政しかできない役人たちにどこまで頼れるかは疑問です。そこで自分としては、科学の進歩に期待したい。ノラの問題も、増えすぎた動物対策もこれがあれば一発解決、それが経口避妊薬(動物用)だと思うのです。もう何年も前にFeralstatという薬が米国FDAに認可されたと聞ききました。しかしいまだに日本で発売されないのは、何か理由があるのだろうか。
この分野にこそ十分な補助をして開発を促進させ、安全で汎用性のある薬ができれば、動物たちのみならず人間社会においても、その見返りは十分すぎるほど大きいのではないでしょうか。
「オジン、ごくろうさん。ずいぶん時間かけてまとめてたの知ってるよ」(ニャー)
「ノラたちとの共存を目指して」:予告編(期日未定)
その1 資料編「現状と動向調査」(追記:餌やり、地域猫問題)
2017.2.27
その2 現場編「ノラを守るのに理由は要らない」(報道されたボラさんたち)
2017.5.31
その3 エサやり問題・続編「裁判事例の検証・他」(司法が肯定したもの、否定したもの)
2017.8.31
その4 一服編「ノラだからこそ・・かわいい!」(ニャー&みう+テンちゃんの日常)
2017.11.30
その5 闘魂編「許さない、虐待に不法投棄に暗闇ビジネス」
2018.4.29
その6 原点回帰編「再確認・人間性とは?」(食肉、動物駆除と保護活動)
その7 形而上学編「ノラの幸せとは」(シャッポやソトチビの行動に想う)
その8 地域猫問題・続編「殺処分ゼロに向けて」(目的達成のために必要なこと)