今日も元気で頑張るニャン

家族になった保護猫たちの日常を綴りながら、ノラ猫たちとの共存を模索するブログです。

ノラたちとの共存を目指して 番外編・2 「動物愛護の精神を問う」(餌やり議論の本質)

2019年10月31日 | シリーズ:ノラたちとの共存を目指して
三度目の殺人という数々の賞を取った映画の中で、被告が弁護士に「自分の知らないところで自分の命が勝手に裁かれる」と言うシーンがあります。これは映画の舞台でもある裁判に対する問題提起というのが一般的な解説ですが、自分には「一方的な理由で人の命を裁く(奪う)」ことの不条理さを追求したのだと思えました。何故なら裁判は、万人に平等なルールに基づく限り"一方的な理由"とは言えない。ただし判決は真実が明白であることが前提というのも、この映画のテーマのひとつでした。

では相手が人でない場合はどうか。人でなければ一方的な理由で命を奪えるのか。人間は他の生物に対して神として君臨することが許されるのか。相手が人でなくても、裁判のように"平等なルールに基づく"必要があるのではないか。必要最小限の食べる、直接身を守る行為は別として、これまで当ブログで何度も述べてきた動物駆除行為、例えば外来生物の駆除、開発で街中に出てきた猪の駆除、奄美でのノラ猫の駆除、これらはもし裁判を行ったなら、本当に悪いのは誰なのかということです。罪もない動物たちの命を一方的に裁くこのと理不尽さを、私たちはもっと感じるべきなのではないでしょうか。

ニャー

動物愛護という言葉。特に最後の一文字は随分上から目線です。このシリーズが目指すのはこの余計な一文字を削って、人間愛と同じような意味での"動物愛"。でも押し付けるわけでも推奨するわけでもありません。自発的に芽生えなければ意味がないからです。それに食べることや身を守るなどの、動物としての人間の基本的な営みは認めましょう。動物愛の対象は"心"あるものと考えて脊椎動物とします。他にもセミやカニなど愛すべき動物はたくさんいますが、蚊やダニなど愛されない動物も含めて別の問題として考えます。また鳥や魚、爬虫類や両生類などは個人的には含めるべきだと思いますが、議論が拡散しすぎるのでここでは除外します。

今年の2月に、NHKBSで「家族になろうよ」というワンニャンとの共生をテーマにした1日がかりの番組がありました。そのときのゲスト出演者石田ゆり子さんが番組の終わりの方でさりげなく発したひと言「餌をやるなと言うのは餓死させることを推奨すること」が印象に残っています。当ブログで2度にわたって書いた「エサをやるなは殺せと同じ」と同じだったからです。餌やり問題に関しては3年前に書いた「エサやりおばさん」以来、「ノラたちの幸せを願って」カテゴリーやこのシリーズの中で延々と書いてきました。まさに当ブログの真髄と言うべきテーマです。

リン(左)とちび太

電車や公共の場で具合が悪くて倒れてしまった人が傍にいたら、私たちは声をかけたり救急車を呼んだりします。でも関わりたくないという顔で通り過ぎてしまう人もいる。別に悪意はなくても、忙しかったり恥ずかしかったり理由はいろいろあるでしょう。だからと言って残念だとは思うが責めることはしません。道端で餓死しそうな子猫が鳴いていても知らん振りで通り過ぎてしまうのも同じ。これらはその人が持っている人間愛、動物愛の強さの問題なのです。この愛が少なければ殺人や動物虐待を犯してしまうかもしれないし、ちょっと強ければ倒れた人を助けたり道端の子猫に食べ物を与えたりするわけです。

多くのアンケートで、「ノラ猫に餌をやるべきでない」という回答が70%を超えています。これは行政や猫保護ボランティア団体による啓蒙活動の結果です。心の通わない役人は別として、ノラを救おうと立ち上がったはずのボラさんたちまで「餌をやるな」と主張するのは何故だろう。彼らはそのHPやブログで、無秩序にノラに餌を与えると繁殖が盛んになって不幸なノラ(とその迷惑行為)が増えると警告する。最近もあるブログで、環境省の資料として1頭のノラ♀が3年後には2000頭になるのだと図解付きで紹介していた。だとすれば今頃地球上の陸地には足の踏み場もないほどノラがいることになるのだが、そんなことはお構いなし。こういった"善意の無知"が横行し、さらには自分たちのやり方だけが正しいと主張するその活動は、最早動物愛とは別物だと思います。多頭飼育崩壊の現場から猫を救い出したり殺処分直前のワンニャンを引き取る行為はとても尊いし頭の下がる思いだが、一向に改善しない状況に疲弊しているように感じるところが自分が最も懸念するところなのです。

キー(下)とクウ:オレたち久し振りの登場だい!

このシリーズでこれまでも述べたきたように、ノラへの餌やりを禁止することは法律違反であり罰則もあります。だから役所もボラ団体のブログも、実は餌やり自体を禁止してはいません。土地の管理者の許可を得なかったり掃除をしなかったりすることを咎めているのです。しかしそれが読者に伝わっていない。餌をやるなという言葉だけがひとり歩きしている。そのことに多くのボラさんが気付いてないように思います。毎日毎日目先のことに追われているうちにおろそかになってしまった初心。ノラを救うために一番大事なことは、1人でも多くの人に動物愛を育んでもらい、ノラのために何をすべきかを学んでもらうことなのに。

ノラに食べ物を施すのは不妊手術とセットだと主張するボラさんがいます。それが、手術をするお金のないお子さんは餌をあげてはいけないという意味になることに気付かない。動物愛というのは理屈じゃないんです。かわいそうだから食べ物をあげる。それでいいんです。あとは周りの大人たちが考えればいい。とにかく動物愛を育むことに最優先で取り組んでほしい。その上で先に述べた動物駆除の問題を考える。すると、一方的な理由で命を裁いていたことに気付くはずです。

外来生物にしても奄美のノラ猫にしても当県のキョンにしても、はたまた市街地に出てきた猪や熊にしても、勝手に湧き出して増えたわけではない。辿り行けばそれが密輸やブリーダーによる過剰繁殖や身勝手な遺棄や開発にあることは明白だ。まずは犯人を罰し再発を許さないルール作りと監視の強化が先決だろう。当の動物たちだけに責任を押し付けるのは、動物愛の欠落に起因する"一方的な理由で命を裁く行為"なのです。逆に動物愛があれば、人間の撒いた種なのだから動物たちに迷惑をかけないように解決を図る方向に向かうはずだと思います。

シロキ(奥)とチキン

さて、次回はいよいよノラの幸せを形而上学的に考察するという、本シリーズの核心的な部分に入ります。

「ノラたちとの共存を目指して」:予告編(期日未定)
その1  資料編「現状と動向調査」(追記:餌やり、地域猫問題)
      2017.2.27
その2  現場編「ノラを守るのに理由は要らない」(報道されたボラさんたち)
      2017.5.31
その3  エサやり問題・続編「裁判事例の検証・他」(司法が肯定したもの、否定したもの)
      2017.8.31
その4  一服編「ノラだからこそ・・かわいい!」(ニャー&みう+テンちゃんの日常)
      2017.11.30
その5  闘魂編「許さない、虐待に不法投棄に暗闇ビジネス」
      2018.4.29
その6  原点回帰編「再確認・人間性とは?」(食肉、動物駆除と保護活動)
         2018.8.31
その7   形而上学編「ノラの幸せとは」(シャッポやソトチビの行動に想う)
その8   地域猫問題・続編「殺処分ゼロに向けて」(目的達成のために必要なこと)
その9   理想追求編「殺処分ゼロの先にあるもの」(対等の精神と真の共存)
番外編
その7  番外編1 「罪と罰」(法の実行と刑罰の妥当性)
                     2019.3.29
その8  番外編2 「動物愛護の精神を問う」(餌やり議論の本質)

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「ルイよ、ノラのど根性見届けた」(後編) ~ルイ逝く~

2019年10月28日 | (故)ルイ(新手、顔白)
(前編より続きます)

「後悔先に立たず」なんて諺があるけど、先に立たないから"後悔"なんだろ。などと自嘲気味にぼやきながら、次々と押し寄せる津波のような後悔に浸っていた。猫という動物は最後の最後まで生きることを諦めないから、あの穏やかな様子から突如として危篤状態になるのです。これまで何度も経験しているのに、その都度慌てふためきそして後悔に襲われてきた。

ルイも同様で、突然にして一気に危篤状態になった。たまに少し頭を持ち上げるがそれ以外はまったく動かない。そのとき、ルイの手を握って驚いた。妙に冷たいのだ。ルイの意に反して身体が生きることを諦めたのだろうか。そう言えば今夜はやけに冷える。今月(10月)の初めは真夏日が続いて熱帯夜まであったのに、天気予報が今夜は11月下旬の気温だと言っていた。またしても気付くのが遅かった自分に褐を入れつつ、エアコンにストーブも足して部屋の温度を28℃以上まで上げた。

5日目が明けたときのルイ

それが功を奏したのか、ルイの動きが少し出てきて無声音ながら鳴き声も発するようになった。お尻の方が垂れ流しでその都度シートを替えて身体を拭くのはルイの負担になるので、尻尾の内側ににティッシュを詰め込んだ。30分毎くらいに濡らしたティッシュでルイの顔を拭く。すると我に返ったようにルイが反応する。口の中に水を入れると、たまにゴクンと飲み込んだ。危篤状態といってもテツやテンちゃんのときと違うのは、ルイの意識がはっきりとしていることだった。

5日目は久々の晴れ日で、夜が明けると日が昇ってきた。その日も1日ルイに付き添い、顔を拭いたり口に水を含ませたり下のティッシュを交換した。もうひとつ大事なこと。ルイの身体の向きを変えて床ずれを防ぐ。昼になって陽光に当たると、気持ちがいいのかルイは自ら目を閉じることもあった。そんなときは起こさないようにもろもろのお世話を中断した。もしかしたら回復するんじゃないだろうか、と思うこともあったが、何も食べてないルイにそんな奇跡が起こるはずがないのはわかっていた。

秋のやさしい日差しに包まれて気持ちよさそうなルイ

それは5日目の夕方のことでした。
保護部屋を覗くとルイが痙攣していた。横たわった上側の手足が3秒くらいの間隔で宙を蹴って、同時に背中がのけ反って場所が10cmほどずれていく。既に元の位置からだいぶずれているのでかなりの間痙攣していたのだろう。なだめようと中に入った途端、その痙攣が激しさを増した。強いバネのように手足が力強く宙を蹴り背骨がエビのように屈伸する。ルイはそのたびに目を見開き、歯を食いしばった。時折雄叫びのような叫び声を苦しそうに発する。身体はどんどん移動して抑えていなければ部屋中のた打ち回ったに違いない。

これほど凄い痙攣は見たことがなかった。どうすればいいのかわからない。何よりルイには意識がある。そしてこれ以上はないというほど苦しそうだった。病院に急ぐにしても準備や移動や待ち時間でどれだけ時間がかかるか。しかもルイには相当な負担になるし、そのうち痙攣が止まるかもしれない。ぐだぐだ考えている間にも痙攣は続く。2、3分静まったかと思うとまた始まる。その痙攣は、極限状態に耐えるルイの精神が崩壊するのではと心配してもまだ続いた。いつまでも続く痙攣にやはり病院に行けばよかったと後悔し始めた。モルヒネのような安定剤を投与しなければルイが最悪の最後を迎えてしまう。天にも祈る気持ちでルイを抑えたりなだめたり。やがて、1時間も続いた後にようやくその痙攣は沈静化に向かったのです。その後には、余震のような小さな痙攣が30分くらい続いた。

痙攣に耐えるルイ

とてつもなく長い痙攣が治まってからルイの体勢を整え、濡れティッシュで顔を拭いて口に水を含ませた。何度も何度も水を口に含ませると、ようやく1度だけ、かすかにごくりと飲み込んだ。それでもルイの意識は、痙攣の前よりはっきりしているように見えた。あの痙攣は何だったのだろう。よく言われる旅立ちに向けての痙攣? それはもう意識を失った状態での話だろう・・。何を考えてもわかるはずもないが、とにかく治まってよかった。その後ルイの容態が安定してきたので欲目でスープを口に入れてみたが、もう飲み込むこと自体ができないようだった。あの痙攣は2度と来ないでほしい。ルイには穏やかな最後を迎えてもらいたい。いややっぱり、できれば回復してもらいたい。


地獄の痙攣に耐え抜いたルイは、その後も本当によく頑張った

その後もルイは頑張りました。28℃~30℃の室温の部屋で、時折顔や口を湿らしてもらって、限界状態の中で、何と36時間も頑張り続けたのでした。下の方はもう出るものすらなかった。ルイは最後まで意識を持ち続け、保護者が触ると反応した。危篤状態になってから50時間を過ぎた頃はもう感動しかなかった。その感動が愛着に変わり始めた7日目の未明、その日当地に大洪水と水害をもたらすことになる豪雨が少しづつ降り始めた頃でした。部屋に入ると、ルイが待ってましたとばかりに大きく深呼吸して、静かに息を引き取った。対光反射もなく臨終を確認しました。ルイの身体は身づくろいをしてしばらくそのまま寝かせておいた。壮絶な最後の闘いを終えたルイに、休ませてやりたいと思ったのです。

深い虚脱感が残った。最後の最後まで意識を持ち続け、そして諦めなかったルイ。あの地獄のような長い痙攣にも歯を食い縛って耐え抜いたルイ。しかし運命はそんなルイに報いることはなかった。ルイはどんな思いで旅立ったのだろう。自分は、少しはルイの支えになったのだろうか。お疲れさん。心の中でルイに何度も声をかけながら、自分も知らぬ間に寝入っていたのでした。

その日の夕方、病院から検査結果の連絡があった。コロナウィルス抗体値の結果は400の倍数で400未満ならまず大丈夫、3200以上はほぼ陽性。それらの数値と実際の症状からFIPかどうか判断する。ルイの値は1600で1週間後の再測定が望まれるとのことだったが、症状的にまずFIPで間違いないだろうと。「今後の治療としては・・」と続けたところで先生の話を遮って、ルイの死亡を告げた。ルイの身体は、本記事の前編を書いた一昨日に合同葬で荼毘に付しました。



後悔はまだ止まらなかったけどもう出尽くした感じだった。その内容を書き出してみました。
・あのとき保護しなかったら、ルイは自分らしく最後を迎えることができたのでは?
・腹水を抜かなければもう少し長く生きられた?
・健康だったら自分から逃げただろうルイが自分にいじられて落ち着けた?
・何より、元気だった頃の夏に家に迎えていればこんなことにはならなかった?
・早い段階でチューブなど付けて、栄養補給していれば回復した?
・痙攣のときは直ぐに病院に連れて行くべきだった? 
最後のは結果的に元に戻ったのでとりあえず解消した。一番強かった後悔は4番目だ。でもこうしてみると、やり過ぎた後悔とやればよかったという後悔が混在している。結局何をしてもしなくても、後悔することになるんだな。人間とはそういうものなんだ。

世の中には無数の命があって、毎年新たに生まれてくる。その命の数だけ生き様があり、生涯があり、そして終わり方がある。かつてチビが事故死したときにその無念さを慮ったが、チビにしてもルイにしてもたまたま自分と出会ったわけで、人知れず朽ち果てていくノラなんて数えきれないほどいる。だからいちいち感動していたら切りがない。そういう考え方もあるだろう。



でも自分は思うのです。ルイは自分と出会い、その最後を自分に見届けさせることによって自分を感動させ、ひとつの命の営みと尊さを教えてくれた。自分がそれを克明に書き伝え、読んでくれた人が同じ気持ちになってくれたなら、ルイというノラの生と死が無駄ではなかったことにはならないだろうか。だから自分は、これからも書き続けていこうと。

ルイよ、君はその身をもって命の尊さを教えてくれたんだね
最後の力を振り絞って、わが家まで来てくれて本当に嬉しかった
ありがとう、そして

REST IN PEACE, 
RUI




※お知らせ
ルイの記事は「サクラとルイ」から独立させた「(故)ルイ」カテゴリーに移しました。「サクラとルイ」カテゴリーは「サクラと黄白」に変更。初期のルイの記事は独立していないため、「一見さん」もしくは「サクラと黄白」カテゴリーに残っています。

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「ルイよ、ノラのど根性見届けた」(前編) ~ルイ逝く~

2019年10月26日 | (故)ルイ(新手、顔白)
それはひとつの命の壮絶な、そして厳かな最後の闘病でした。
生きることへの素直さと執着心。骨と皮になった悲惨なルイを懸命に看病しながら、その生きようとする姿に感動すら覚えていた。しかしルイは、再度の大災害を当地に引き起こす豪雨が降り始めた昨日の未明に、静かに息を引き取りました。昨日は近所の川が次々と氾濫するニュースを見ながら、儀式のように襲ってくる後悔に浸りました。そんな自分の気持ちも含めて、一部始終を克明に記録した日記を基にルイの闘病をまとめてみます。

前記事「頑張れルイ、・・」でルイが1リットルの腹水を抜いたと書きましたが、それは腹水の全量ではなく見た目で少なくともあと500ccくらいはお腹に残っていた。腹水を抜くと栄養まで一緒に失う。先生はルイの体力低下を懸念して残したのだと思います。ただそれは腹水が再び吸収されればの話だ。腹水の量はもともと圧バランスや浸透圧(濃度差)で血管や腹膜から出入りすることで調整される。腹水が溜まるのは何らかの異常で再吸収されなくなったからで、もしその異常が解消されれば吸収される可能性もあり、そうなればルイにとっては貴重な栄養だ。それでも検査結果を待たずに腹水を抜いたのは、ルイの食欲回復と呼吸を楽にするためでした。

しかしまだそれだけ腹水が残っているということは、ルイの実質体重が3kgを切っていたことを意味する。日記で確認するとルイは保護して病院に連れていく1週間ほど前からほぼ残すようになり、3日ほど前からは殆ど何も口にしていない。そうなる前にも既に食べる量が激減している。ルイは極端な栄養失調状態だったのだ。ところが腹水を抜いた後も肝心の食欲が回復しない。いや、食欲はあった。ドライもウェットも食べようと試みる。特に匂いの強いウェットには首を伸ばしてくるし、チュールなどにはガバッと起き上がってきた。しかしお腹が痛いのか気持ちが悪いのか、2口3口でぴたりと止まってしまうのでした。

殆ど動こうとしないルイはケージから出てくつろぐことが多かった

腹水を抜いてからのルイは幾分楽になったかのように見えた。ケージにいれば人が近付くと出たいと鳴くし、トイレも自分で用をたした。ただ、動きは必要最低限でそれ以外は移動しようとすらしない。わが家まで歩いてきたのに、保護した途端に動かなくなったのは気になった。特に腹水を抜いてからは注意して看ていたが、体力の低下は明らかだった。ルイの介抱は、如何にして食べてもらうかに尽きました。

通院の翌日(保護2日目)には殆ど食べなかったルイも、あれやこれや試すうちに3日目には少し食べるようになった。保護されればノラ時代とは待遇が違う。カリカリは中の猫の食べ残しではなくて新しいのだし、おやつに使う高級なものも与えてみた。ウェットは冷蔵庫に保管した古いのではなくて開けたばかりで新しい。さらにおやつタイプの高級レトルトまで至れり尽くせりの内容だ。ルイが食欲をそそられたことは間違いない。しかしやはり、5口6口食べるとぴたりと止まってしまう。そのうちカリカリには見向きもしなくなった。それでも諦めずに試していると、フィリックスのレトルトなら少し食べることがわかった。それとシーバを数粒。

3日めの夕方には腹水がまた少し漏れていた。トイレも使っていたが、シート上でお漏らしして下半身が濡れてしまった。それでも鳴き声が少し元気になって、機嫌は徐々に回復しているようだった。

お腹から少し腹水をこぼしたルイ

4日目、とにかく栄養が必要と強制給餌を再開した。最初はミオの療養食。前回は殆ど抵抗しなかったルイが今度は嫌がった。シリンジで3回か4回、3ccほど飲ませると立ち上がって逃げていく。 えっ、立って歩けるんだ! ルイには災難だが、その光景は嬉しかった。ルイは1mほど歩くとまた伏せるので、追いかけてまた3ccほど飲ませる。 と、また逃げる。これを繰り返して20ccほど飲ませた。なるほどこの手がある。栄養補給とリハビリを兼ねて一石二鳥だ。しかし次にチュールをモンペチスープで希釈してあげると、今度は逃げなかった。

ただ、こんな強制給餌では到底栄養が足りない。ルイはいくら動かないと言っても、最低でも基礎代謝分として1日に160Kcalは必要なんです。苦労して強制給餌で20cc飲ませてもせいぜい15Kcalあるかないか。これを1日3回やったとしても全然足りない。結局強制給餌は、栄養的には水分補給くらいの意味しかない。栄養を摂取するにはとにかく乾物、カリカリを食べてもらう必要がある。カリカリなら、重量あたりのエネルギーがウェットの8~10倍あるのです。

それで一番可能性のあったシーバで、いろいろあげ方を工夫してみた。すると、他の乾物と混ぜず器も使わず5粒ほどを鼻先に置くと食べた。一度に多く置くとダメで、5粒くらいを食べ終わってから次のを置く。ルイがじっと見つめたらしめたもの。そのうち首を伸ばして、亀のようにパクッと1粒づつ食べたのです。次第に間隔が空いてきてそのうち食べなくなったが、そのときは合計で30粒も食べた。よし、この調子だ。容態も安定してきたし、将来に向けて少し光明が見えた気がしたのでした。

ガリガリに痩せてはいるが、それなりに穏やかに見えた

ところがその日の夜半、5日目に入った頃のこと。保護部屋を覗くと、2m以上にわたって茶色い水のような下痢便を延々と垂らした先にルイが倒れていた。時間をかけて下半身を拭き洗いして、体勢を整えようとしたがルイの様子は明らかに変わっていた。脱力状態で頭すら持ち上がらない。横になってしまって伏せの状態を維持することもできなかった。ルイの突然の変化に慌てふためきながら、考えてみれば2週間近くも殆ど食べてないルイが力尽きるのは時間の問題だったのだと改めて思い知る。それまで何の手も打たずに、ルイの頑張りに甘えるだけだった自分にほとほと嫌気がさした。ルイは明らかに危篤状態でした。脳裏にテツやテンちゃんを看取ったときの状況が蘇る。あの経験からすればあと半日か。ルイはそんな感じだった。

急に力尽きた感じになったルイ
身体を拭いたときは、浮き出た骨が痛々しかった

山のような後悔に襲われながら、ルイを独りにはしないと心に決めた。でも、ルイは自分が付き添うことで安心するのだろうか。つい数日前まで自然を駆け回る自由奔放なノラだったルイ。自分はルイにとって餌やり爺さんくらいの存在でしかなかっただろう。などとぐだぐだ考えながらルイの看病を続けた。そのとき自分は、その後にルイの生に向けた不屈の根性と驚異の精神力を見ることになろうとは、思いもしなかったのでした。

自分では殆ど身動きしないが、ルイの意識ははっきりしている

※1記事に納めたかったのですが文章力(構成力?)のなさで長くなってしまいました。
  後編に続きます。

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アンニュイちび太は甘えん坊

2019年10月24日 | ちび太
照れ臭いのか恥ずかしいのか
人とも猫とも目を合わせないちび太
いつもきょろきょろ落ち着かないか
じっと宙を見つめています
つまらなさそうな顔をして



アンニュイちび太は甘えん坊
そ知らぬ顔してオジンにくっつく
みうと同じで遠慮がち
たまにはオジンの足に絡み付き
「もっとオレとも遊んでくれ~」

ちび太は付き合いがとってもいい
あの誰もが辟易する不休の破壊神
チキンとだって誠心誠意相手をする
おかげでチキンにはお兄さんと慕われる



キーとクウと
悪ガキ3匹のリーダー格だったちび太は
体格も一番大きくなって
今やわが家のネコ集団をリードする
かと思ったら
本人(猫)にはその気がさらさらなさそう



ちび太は2才になりました
テンちゃんに育てられ、ニャーの子分になり
今や人間で言えば20代半ばの若者です
でも、まだまだ子供っ気が抜けません

ちび太は我慢も覚えてきた
思いやりのあるやさしい大人に
そして新しいリーダー像を目指して
ただいま順調に成長中?



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ポニーくん

2019年10月21日 | チキン,キリン,ポニー
新顔ニャンくんの登場です。その名はポニー。
ポニーは1週間ほど前に店にやって来た齢6ヶ月くらいの子猫(♂)。事務所前BYの棚下でニャオニャオ。人が近寄れば逃げるけどもの凄い大食漢で、食べ放題のこの店がすっかり気に入ってしまったようだ。それ以来、BYの事務所入口付近で暮らしています。


シャッポに似た子猫、ポニー見参

自分はルイに付き添っていたのでこの2日ほど店を空けたのですが、その間にポニーはすっかり馴れていた。当初は威嚇してきたり逃げ隠れだったのが、今ではこちらが動かなければ足にすりすり。ほぼ1日中事務所の入口で待機して人が出入りするたびに甘えてきます。

この場所はレオもときどきやって来る。レオは事務所から一番遠くにある観葉室を中心に、店内や店の周辺で生活しています。ご飯の時間になると事務所まで催促に来るのが日課。でも食事は観葉室の中と決めている。で、催促に来たときにポニーを見つけると追い回す。

しかしポニーは上に逃げることを覚えた。BYのラックの上に逃げるとレオはそこまで追うほど執着しない。やがてレオが観葉室に戻るとポニーが再び下りてくる。そんな感じで、今のところ2匹は共存しています。先日はモドキやミセミケも来て4匹で行ったり来たりと大変だったそうだ。


ラックの上からこんにちは

ただ、この状態がいつまでも続きはしないだろうな。心配なのはレオで、最近は店の中で見ることがめっきり少なくなった。ポニーはとってもかわいいので、気を取られている間にレオが消息を絶つなんてことがないようにしないと。レオは今のところ夕方には観葉室に戻ってきて、そのまま観葉室で寝ています。一方どうやら夜もBYで過ごしているらしいポニーには、寒くなってきたので寝床を用意してあげる予定。


後姿はポンに似ている

ちなみにポニーくんの名前の由来は、顔はシャッポに似て体つきはポンに似ている。シャッポ似とポンが合わさってポニーになりました。尚、ポニーがこんなに早く名前をもらえたのには理由があります。(ミセミケなんて2年経ってもまだ名無しなのに。)  実は数日前、新新子ニャンが現れたのです。その子は1日だけでその後見ないのですが、「新」の字ばかりでややこしいので名前をつけた次第です。

新新の子については、続報で触れてみたいと思います。


寝床は高いところに置いてあげようと思っています

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