シャープが経営危機になっいて、多くのメディアの興味が集まっています。
その中で、ウィキペディアのシャープのカテゴリにも、注目が集まっています。
歴代の社長の名前に交じり、山本隆雄の名前があり、これ誰やという話になっているとか。
ネットで出まわっている在日で、北欧館でうんこする山本隆雄とこの山本隆雄は別人となっているそうですが、同一人物とわかれば、、
ちなみに、私は、在日ではありません。先祖代々日本人です。しかも由緒のある日本人の名家の家系です。北欧館には行ったことはありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%97
当然、シャープのカテゴリーに「山本隆雄」と書き入れたのは、私ではありません。
私が、シャープにいたのは、1984年4月から1988年3月までの4年間。
うち、1984年4月から6月までは、研修で、岡山のかいぶき電気と言うころと、安田電化センターで働いていました。安田電化センターは、廃業となっていますが、安田さんとは、現在でも年賀状でのやり取りが続いています。
1984年7月から9月まで、同じく、研修で、J&Pテクノランドで働いていました。
その時、日本橋の伝説となる、月間売上1位(販売金額1350万円・正社員34名・私のような各メーカーからの派遣10名合計44名中1位)
をとった研修生となったわけです。
奈良・大和郡山にあるシャープ奈良工場で、コンピュータ事業部第2技術部や商品企画部に在籍し、橋本副事業部長の秘書をしていました。
当時の事業部長三坂重雄さんはのちに副社長に。直属の上司であった橋本伸太郎さんは、取締役に。橋本さんが不在時に面倒をみてくれていた中川博英係長は、執行役員・情報システム事業本部長に。ちなみに、辞表を出したときのコンピュータ事業部の西岡事業部長は、のちに、インテルジャパンの社長になりました。
私をシャープに推薦してくれたテレビ事業部第4商品企画部(パソコンX1)のT課長は、のちに、常務取締役になっていました。この方とは、現在でも、年賀状でのやり取りが続いています。
私に関係していた人は、みんな出世したようでした。
J&Pテクノランドでの販売研修最終日、上新電気浄弘社長が、我々シャープ新人研修生5名に話をしてくれたのを覚えています。
それは、大企業にある派閥。絶対にその派閥に所属してはいけないという話でした。派閥にはいるとよいときは、エスカレーターに乗っているように出世するが、そうでないときは、坂を下り落ちる。派閥に所属しないで、地道に働くのが、出世コースになるというありがたい話でした。
それから、1週間ほどして、浄弘社長が急死した新聞記事を見て、衝撃を受けたのを覚えていてます。
ちなみに、私がシャープをやめるきっかけとなっのは、アスキー社長西和彦さんとソフトバンク孫正義さんからの引っ張り合いでした。
アスキー社長・マイクロソフト副社長の西和彦さんは、3回、針中野の実家を訪れ、アスキーに来てと言っていました。そして、1回、私と両親を東京に招いてくれました。でも、大阪を捨てて、東京に行くのに抵抗がありました。西さんは、シアトルのマイクロソフトにいかせるので、英語が喋れるようになるでと言っていましたが、、
それに対して、孫さんは、毎月40万円あげるので、会社を作りなさい。私は、当時、近畿学生コンピューター連合の初代理事長で、名誉理事長でした。
近畿から日本 にしたかったので、日本コンピュータクラブ連盟を作るとい野望を持っていました。
孫さんも、リクルートビジネスを考えていたので、日本コンピュータクラブ連盟をつくることに対して、利害が一致しました。
それで、1988年5月、東京・九段下のソフトバンク本社内で、関東の大学を集めて、日本コンピュータクラブ連盟が発足したわけです。
その後、常設の事務所を大阪・難波中の村上ビル5階にもうけのが始まりでした。
社団法人をつくることを考えたのですが、難しかったので、事業部門として日コン連企画株式会社を作ったわけです。
毎月、40万円をソフトバンクが日コン連企画に支払うという契約書をつくったのは、孫さんです。二人で、ああでもない、こうでもないとして作り上げました。
当時、孫さんは、何百億のビジネスでも数分で決済するのに、毎月40万円を支払うという契約書を1から作り出したのは初めてだと言っていました。
日コン連企画株式会社の命名者は、孫正義さんであるとしているのは、そういう所以です。