アンティマキのいいかげん田舎暮らし

アンティマキは、愛知県北東部の山里にある、草木染めと焼き菓子の工房です。スローライフの忙しい日々を綴ります。

NHKスペシャル「銃後の女性たち」

2021-08-15 14:45:40 | 映画とドラマと本と絵画
 
   昨日の晩、「銃後の女性たち」NHKスペシャルhttps://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/219VJQKVYJ/~を見ました。戦争中活躍した、普通の主婦たちのあつまり~国防婦人会~のことが取り上げられました。
 
   子供のころ、家にあった戦争中の写真集で、パーマネントや着飾った女性たちを前に説教している、白い割烹着姿の女の人たちの姿を見たことがあります。怖いおばさんたち!という印象を持ったものですが、その後、漫画「あとかたの街」で、貧しい主人公一家のところにやってきた国防婦人会の面々が、主人公の母親に戦時国債の購入を強要するシーンを見て、彼女たちの力の大きさを知りぞっとしました。
 
   それでもわたしは、この国防婦人会は、軍や政府が作った婦人グループだと思っていました。そして活動の中心は、町の有力者の婦人とか元教師とか、いわば中流以上の暇な主婦たちの集まりだろうくらいにしか思っていませんでした。
 
   ところが違っていました。発端は、大阪の主婦の善意から。彼女は、地元の兵士が一人寂しく街を離れるのはかわいそう、というので近所の主婦たちに呼びかけて兵士たちの見送りを始めました。お茶やお菓子を出し、兵士たちに喜んでもらえるのがうれしくて、どんどん活動を広げていったのです。
 
   それを軍部が目をつけ、利用しました。「軍国の母」をつくる強力な補助機関になったのです。
 
   当時の主婦たちにとって、外で何らかの活動をする、というのはほぼなかったこと。日々の仕事に追われ、姑の厳しい目もあるので、めったなことではでかけられなかったのですが、この国防婦人会の活動は、彼女たちにとっては大義名分のある、はばかりなく外に出られるまたとないチャンスでもあったということです。この側面も、彼女たちを運動に駆り立てる要因になったようです。普通の主婦が、演壇に立ち、堂々と国を守る気概を述べたり、英霊となって帰還した兵士の遺族の家を訪れてほめたたえたりといった仕事を、誇らしくおもっていたようすが、記録や証言によって浮き彫りにされました。
 
   しかし、彼女たちも息子を戦地におくる当事者でもあります。出征する息子をじっと家の蔭で見送り、表に出なかった姿を見ていた娘さんの言葉が印象的でした。
 
    街中だけではなく、長野県飯田市の小さな村でも、全世帯の主婦がこの婦人会に参加し、活動にいそしんだという記録が紹介されました。沖縄のある村では、学校の教師をしていた女性が率先して活躍。村人に沖縄方言をやめさせて、日本語の学習と愛国の精神を広げることに尽力しました。この女性は戦後村を出て、だいぶたってからある刊行物に、「私は自分がしたことが醜く恥ずかしく・・」と述懐しています。
 
    映画「陸軍」のラストでは、出征する兵士たちを、日の丸の小旗を振ってにこやかに見送る人たちの姿が描かれています。その人波をかき分けて、田中絹代扮する母親が出征する息子の姿を探しながら追いかけるシーンが延々続きます。彼女の悲痛極まりない顔と、白い割烹着をつけたすきがけした主婦たちのにこやかな笑顔が対照的だなと思った記憶があります。あの笑顔の主たちが国防婦人会メンバー。海軍特別少年兵に志願するよう各戸を回って親を説得したのも彼女たちでした。驚いたことに、各婦人会に、「何名志願させるように」との割り当てがあったといいます。軍部からか役場からかはわかりませんが、ひどい話です。「志願」は名ばかり。
 
    普通の人たちが、他の普通の人たちを抑圧する側に回る裏には、大きな力の操作があることが多いと思いますが、それでも積極的に運動を進める側に属したかどうかは大きな違いだと思います。映像を見ながら、「自分も彼女たちと同じ時代に生きて、同じ境遇にいたら、もしかしたら同じことをしたかもしれない」と強く思いました。こころしないと、あぶない。
 
    ところで、当初この運動に反対を表明していた婦人参政権の運動家市川房江は、その後運動を評価するようになったとNHKでは伝えていました。「市川房枝平塚らいてうは、手放しではないものの、ある種の女性解放をもたらしたとして国婦活動に一定の評価を与えている」とウィキペディアにも載っています。「ある種の女性解放」とありますが、中身はさておき、家を出て自分の意見を述べ、社会活動をするようになったことを「解放」というらしい。どうもすっきりしない「評価」です。
 
 
    彼女たちの世代は、私の祖母とたぶん同じくらいです。寺の庫裏として、夫の後ろで家と寺を守っていた祖母は、当時、国防婦人会にかかわっていたのだろうか。世間からは「もの柔らかなおとなしいお庫裏さん」で通っていて、孫には優しかったけれど、娘や嫁にはきつかった祖母。昨日の映像に出てきた女性たちの姿と重なります。母の生前、祖母のことをもっといろいろ聞いておけばよかった。
コメント
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