ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

あと7か月あまりで阪神・淡路大震災30年です。;新長田の鉄人28号

2024-06-07 08:56:40 | 日記 地域
少し前,こんぴらさんに行った後,
兵庫県立兵庫津ミュージアム「企画展 温泉♨と西国三十三所j巡礼 ーひょうごを巡る旅ー」のチラシを見たので,
よしっ!いくぞ~!!と計画。
「ん・・山電板宿で神戸市営地下鉄に乗り換えて,新長田で地下鉄の海岸線に乗り換えて・・・
 あっ!新長田!鉄人28号!!ついでに寄っていこう!」
もともとは,ついで・・・のつもりでした。

そして昨日,
新長田駅の駅員さんに場所を聞いて,ほぼJRの線路沿い歩いていくと,ドカーンと出てきたのは鉄人28号の背中でした。
デカッ!(大きい)
これが第一印象です。
前に回って,写真をパチリ!

中国語らしき言葉を話す観光客が鉄人28号の真似をして片手を振り上げ写真を撮っていました。
ついでにふらっと商店街を散策。
確か・・・鉄人28号って震災復興のシンボルと言われていたはず・・・
長田は震災の時,火災で大変だったと聞いたけど・・・

この後行った兵庫津ミュージアムのレストランで,シェフに尋ねてみました。
「話したくなかったら,話さないでくださいね。」
と前置きをしてから長田のことを尋ねると,
シェフは,当時,垂水(神戸市垂水区)に住んでいたけど,そこはそれほど被害はなかったこと,
仕事の関係で翌日長田に入ったけど,家屋がすごく倒壊していたこと,
火災は,鉄人28号よりも少し東,それに鷹取付近ですごかったこと,
筋がひとつ違うだけで,被害の大きさがずいぶん違っていたこと,
などを話してくれました。

家に帰ってから調べました。
「JR新長田駅前の若松公園に立つ鉄人28号の実物大モニュメント。神戸出身の漫画家横山光輝の往年の名作だ。困難に立ち向かう不屈の姿が、阪神・淡路大震災から立ち上がる被災者の姿と重なる。」(神戸新聞 「新長田になぜ鉄人28号? 不屈の姿がシンボルに」 2018/12/19)

「(神戸市)各地区の火災の状況(中略)長田区全焼4,759件半焼13件(中略)合計全焼6,965件半焼80件
 (神戸市)各地区の建物倒壊の状況(中略) 長田区全壊15,521件半壊8,282件 (中略)合計全壊67,421件半壊55,145件」
(神戸市ホームページ 「阪神・淡路大震災被害の状況(物的被害)」最終更新日:2023年10月13日)

「神戸市長田区の「カトリックたかとり教会」は、キリスト像を残して火災で全焼しましたが、その後、敷地がボランティア活動の拠点となりました。教会の礼拝堂では午前5時半から追悼式が行われ、信徒や仏教の僧侶、地元の人たちなどおよそ40人が、宗教や宗派、国籍を超えて参加しました。聖書の一節を日本人の信徒が日本語で、ベトナム人の信徒がベトナム語で、それぞれ読み上げました。そして、午前5時46分になると全員で黙とうしました。続いて、僧侶がお経を読み上げる中、焼香が行われ、犠牲になった人たちに祈りをささげました。」(「17日午前5時46分 神戸 長田区の教会 宗教や宗派 国籍超え祈り」(NHK NEWS WEB【1日の動き】阪神・淡路大震災から27年 次の世代へ記憶伝える」2022年1月17日 18時21分)



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室町時代の香美町のオーロラ

2024-05-16 07:27:29 | 日記 地域
最近,オーロラが話題になっていますね。
オーロラについての解説はおいといて,まず,5月15日の朝日新聞地方版「ひょうご」には,
「香美町でも11日夜,オーロラと見られる現象が撮影された。」とあります。
また,国立極地研究所の片岡准教授の「今回,本州で観測されたオーロラの中では最も西側とみられる」との話が載っています。
そして,カラーでその写真も掲載されていました。
でも,私がもっと興味を持ったのは,14日のカンテレ「報道ランナー」でのニュース!
(「newsランナー」に名称がかわっていました。失礼しました。)
香美町で室町時代のオーロラについて書かれた古文書が発見されていたそうです。
同じく片岡准教授によると,応安3(1370)年に香住沖にオーロラが出現した可能性が高いとのこと。
この古文書は来年3月に地元の公民館で公開されるそうです。

今日はとりあえず,ここまで
オーロラについては,また追記していきます。

香美町は兵庫県とはいえ遠い~!
私としては,ぜひ,兵庫県立歴史博物館で展示してほしいです。
できれば,香川先生の解説をつけてください。
先生,これって,室町時代の「怪異」ですよね。

PS.もう少し詳しい記事を見つけました。(5月17日)
読売新聞オンライン 5月16日
「香美でオーロラ 650年前も?」
「史料は,「但馬美含郡卯月嶋山長福寺縁起」と呼ばれる古文書(ただし,江戸時代に書き写したもの)で,香住区一日市にある八坂神社と近くの長福寺の創建にまつわる伝承が記されている。夜に空が輝くという現象が1370年(応安3年)秋に続いたとの記述も含まれていた。」
「同様の記述は,八坂神社と長福寺の由来を記した別の史料「天王御 影向(ようごう) 縁起」(戦前に刊行された『兵庫県神社誌』に収録されていた。)にも記されている。」
「京都でオーロラが同じ年に目撃されていることなども踏まえ,香住でも目撃されていた可能性が高いとする論文を今年3月に(片岡准教授が)発表した。」
・・・つまり,同時代史料というわけではないのですね。
もうしばらく調査(!?!)

PS.本を読んで調べよう!(5月18日)
図書館の本を予約しました。
①片岡龍峰『日本に現れたオーロラの謎 時空を超えて読み解く「赤気」の記録』2020年 (*赤気;せっき)
②岩橋清美 片岡龍峰『古典籍・古文書にみる記録 オーロラの日本史』2019年

もう姫路の図書館から地元の分館に本が届き,昨日借りてきました。(5月20日追記)
①は宇宙空間物理学の先生,片岡龍峰氏(国立極地研究所),②は片岡龍峰氏と歴史学の先生岩橋清美氏(国文学研究資料館)のコラボ!

PS.6月9日の日曜日には,水門が閉じられているのに気がつきました。
田んぼには徐々に水が入ってきています。
近隣は,15,16日に田植えだそうです。
今年はまだ梅雨入りしていません。でも,少しずつムシムシしてきているように思います。
さて,オーロラ
上に,「これって,室町時代の「怪異」ですよね。」と書きました。
しかし,・・・以下,岩橋清美 片岡龍峰『古典籍・古文書にみる記録 オーロラの日本史』から
①『日本書紀』には,推古天皇28(620)年「赤気」の記述あり。オーロラの可能性がある。
②天武天皇即位を契機に天文現象に関する記述がふえる。天文観測に力を入れたと考えられる。
律令制下では天文暦学を司る陰陽寮がおかれている。
③藤原定家の『明月記』によると,建仁4(1204)年オーロラと思われる「赤気」にけっこう詳しい記述があり,「恐るべし 恐るべし」と書かれている。
④『吾妻鏡』によると,仁治2(1241)年,「赤気」か「彗星」か陰陽師や天文道の者を召して議論,結論出ず。
そうなのです。もはや中世から単純に「怪異」という状況ではないことがわかりました。
残念ながら,室町時代のオーロラについては,この本に記述はありませんでした。
江戸時代になると,庶民レベルで記録が残っています。
⑤『星解』に載っている明和7(1770)年のオーロラの絵は,すごいです!!!(ネットで調べたらすぐに出てくると思います。)
⑥『金木屋日記』には,安政6(1859)年におけるオーロラの記述があり,(この時は,世界各地で観測されている。)火事という噂や地震と関連付けた人の話も載っている。 
おおざっぱですが,『古典籍・古文書にみる記録 オーロラの日本史』から興味があった部分だけ,取り上げました。 (6月11日追記)
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旧金毘羅大芝居「金丸座」;残念ながら中には入れませんでした。

2024-05-11 14:52:12 | 日記
伊勢も,こんぴらさんも「聖」だけでなく,「俗」があるから参詣(?)するわけで,この点については後日また。
と書いてから,また20日もたってしまいました。
ブラタモリで言っていた「俗」の部分,旧金毘羅大芝居「金丸座」です。

ブラタモリによると,ここでは,江戸時代に富くじが行われていました。
注目すべきはその頻度,出雲では年2回だったけど,こんぴらさんでは月にほぼ2回だったそうです。
中にも入りたかったのですが,まもなく四国こんぴら歌舞伎大芝居,とのことで,入れませんでした。
それにしても,松本幸四郎さんなど,錚々たるメンバーが来るのですね。
NHKのカメラが私が写真を撮っている横に控えていて,
「今,神事やっているから・・」と小声で。
写真だけ撮ってこの場を離れました。

PS. 順番があとさきしますが,下の写真は金刀比羅宮から下っている途中にあった宝物館です。

(中は写真撮影不可)
江戸時代の「象頭山社頭並大祭行列図屏風」ははりついて見ました。
あれっと思ったのが,「蒙古襲来絵詞模本」
宝物館の方は,「この宝物館は日露戦争戦勝を記念して建てられたんですよ。」とのこと。
昨年,3回にわたって私は「地元の神社から戦争と平和を考える・・・」を書きました。
そして,「ひとりごと(「地元の神社から・・」「ちょっと気になる絵馬」等)」を昨年5月に書きました。
今回も,「神社」について考えさせられました。

膨大な犠牲者が出たにもかかわらず,作戦が「成功」と評価されたことで,人的犠牲に対する感覚のマヒが陸軍の中で起きたことは確かである。なるべく人的な被害を少なくして任務を達成するのではなく,犠牲を恐れず任務を遂行することが称揚されるようになった。これは,人的犠牲の多さは指揮官の「勲章」であるといった転倒した意識を陸軍に植え付けることになるのである。(山田朗『戦争の日本史20 世界史の中の日露戦争』282ページ)
戦争にはいつの時代にも〈美談〉はつきものであるが,(中略)失敗を失敗と認めず,むしろそれが日本的な戦いである,日本的な軍人の行動である,と変換してしまったという点で,日露戦争とその後のあり方そのものを象徴するものであったといえよう。(山田朗『戦争の日本史20 世界史の中の日露戦争』309ページ)

話がこんぴらさんからどんどん逸れていくので,この辺りで終わります。

とはいえ,ずっといきたかったこんぴらさん,
行けてよかったです !(^^)!
やっぱり,行かないとわからない!
今度は,旧金毘羅大芝居「金丸座」の中に絶対入りたいです!

6月には,兵庫県立兵庫津ミュージアムの
企画展「温泉♨と 西国三十三か所巡礼 ーひょうごを巡る旅ー」
に行こうと思っています。
チラシの「温泉を巡る旅」「聖地を巡る旅」っていう言葉がいいですね。
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新史料発見! また秀吉です。

2024-04-24 11:11:32 | 日記 地域
「秀吉の手紙 その1」2016-01    
    龍野神社にあった秀吉の手紙33通 新聞報道
「秀吉の手紙 その2  特別展「秀吉からのたより」」2016-03  
    龍野神社 たつの市立龍野歴史文化資料館
「秀吉が茶々に宛てた書状発見 その1」2017-07
    出石の民家 新聞報道
「秀吉が茶々に宛てた書状発見 その2」2017-07  
「兵庫県立歴史博物館:特別展「ひょうごと秀吉」始まりました!」2017-10 
    秀吉が茶々に宛てた書状発見 龍野神社にあった秀吉の手紙等 兵庫県立歴史博物館
「兵庫県立歴史博物館:特別展「ひょうごと秀吉」その2」22017-11
    秀吉が茶々に宛てた書状発見 龍野神社にあった秀吉の手紙等のほか,
    高砂市内の収集家の問い合わせから発見 兵庫県立歴史博物館
「次は,「村田家文書展」が見たいです。」2021-05
    特別陳列「新発見!秀吉の書状ー播磨と但馬をつなぐ垣屋氏文書ー」 
    たつの市立龍野歴史文化資料館
そして10日ほど前の
「秀吉は細かすぎる「上司」!?」2024-04 民家 たつの市立龍野歴史文化資料館
私は秀吉関係の新史料発見をこんなに書いています。
兵庫県立歴史博物館やたつの市立龍野歴史文化資料館で時々展示されるのです。
七本槍の一人脇坂安治の子孫(養子もあるので,安治から数えて3代以降は,安治との血縁があるわけではありません。)が17世紀後半から幕末まで龍野藩の藩主だったこともあり,秀吉関係の史料が多いのだと思います。
また,展示があれば,展示の史料を見た人が,「もしかしてうちにある文書・・・」と博物館に問い合わせ,また,新史料が発見されたりもします。
しかし,今度の史料は,なんとネットオークションです。(もとは,どこかの民家にあったものでしょうが)
そして,「秀吉の史料!」といえば,いつも登場するのが,
東京大学史料編纂所の村井祐樹先生,そして,兵庫県立歴史博物館では前田徹先生です。

4月23日,兵庫県立歴史博物館の展示を見て来ました。
写真撮影不可なので,今回は写真はありません。

さて,今回の文書は,江戸時代の間に3~4回の転写を経て伝わってきたと思われるもの34通のうちの数点です。
あて先は,羽柴秀吉,年代は,天正6(1578)年~同10年のものが中心です。
私が唖然としたのは,34通の文書は単純に文面のみを写したものではなく,
原本の文字の形状もその通りに写し取る模写による写しであるということでです。
「なんで?」
江戸時代に秀吉に宛てた手紙が,どれほどの意味があるのでしょうか?
『源氏物語』を写すのはわかります。
だって,読みたいし,見たいし,そのまんまを持っていたいような・・・
でも,文字の形までいっしょということはないですよね。

内容等,詳しくは,神戸新聞 2024/2/8
「別所長治、信長方から離反の理由は… 三木合戦の新史料発見
 「上司にアピール」秀吉の弁明手紙も 姫路で展示へ」をご覧ください。

「新史料発見 三木合戦と羽柴秀吉」は,兵庫県立歴史博物館 コレクションギャラリーで7月7日まで行われています。
特別展とは違い,無料ですので,ぜひどうぞ



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金毘羅信仰

2024-04-22 14:14:15 | 日記
「続きは後日」と書いてから20日近くたってしまいました。
実は,ほぼ書けていたのに,間違えて全部消してしまったのです。 ( ;∀;)
気を取り直して,



写真は金刀比羅宮・大門を入って,五人百姓のすぐ先です。
桜の写真を撮りたかったのではありません。奉納されている燈籠の写真を撮りたかったのです。
「特別展「江戸時代庶民の旅~金毘羅参りと室津~」2015年」に
印南敏秀氏が「金毘羅参りと室津」を書いています。
そこには,このあたりに,嶋屋半四郎(嶋屋は現在は室津海駅館になっている)奉納の燈籠がある,と書かれているのですが,どこにあるのかよくわかりませんでした。
でも,たくさんの燈籠は,江戸時代の人々がこんぴらさんを信仰し,参詣したことを物語っていると思います。

さて,金毘羅信仰
せとうち観光専門職短期大学の「観光Web講義」の一つ,
谷崎友紀氏の「こんぴら詣での今昔」によると,
江戸時代,旅人たちは,伊勢参宮を終えたのちに金毘羅参詣をおこなうようになり,旅の範囲が広がり,金毘羅参詣が流行したことで,旅人たちは瀬戸内海を越えて讃岐国を訪れ,そのまま厳島神社や錦帯橋まで足を延ばす者も現れたそうです。
現在,金刀比羅宮は主祭神を大物主命とし,崇徳上皇を合祀しています。農業・殖産・医薬・海上守護など広汎な神徳を持つ神様だといわれています。
でも,私には,海上守護が一番しっくりきます。
以前,「ブラタモリ」で,帆のついた樽のようなものを瀬戸内を通る船が海に落とし,漁師がそれを担いで金刀比羅宮に運んでいた,と言っていました。実際に,宝物館でこの樽のようなものが展示されていました。
北前船などの船員が,あちこちで金刀比羅宮の話をし,金毘羅信仰は広がったと言っていたと思います。
もちろん,伊勢も,こんぴらさんも「聖」だけでなく,「俗」があるから参詣(?)するわけで,この点については後日また。

785段の階段を登るのは,さほど疲れませんでしたが,
登りは階段ばかり見ていたように思います。
お参りして,階段を降りる時に見た景色・・・満開近かった桜や,人々が階段を登っている様子,大門を出てからはお土産屋さんで買い物を楽しんでいる人々の姿,・・・いいですね。
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