ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

「真田丸」に出てくる本多正信と本多忠勝はどういう関係ですか?

2016-06-25 17:03:38 | 歴博
続けて投稿

昨日は,歴博の日
上記のタイトルのような質問がありました。

辞書で調べ,見せると,喜んでいただけました。

うっかり,辞書の名前を控えるのを忘れました。2週間後に「PS」として,下に書き加えます。

さて,その辞書には,本多氏の項目だけで,2ページにわたる説明。
もちろんそのほかにも,「本多正信」「本多忠勝」等たくさんの本多氏の説明があります。

「本多氏」の項目がいちばんわかりやすかったので,
このページをもとにお話ししました。

本多忠勝の7代先祖の「定通」と
本多正信の6代先祖の「定正」が兄弟であることが判明しました。

ちなみに,本多正信,正純親子は,家康のもとで,権力をふるいますが,
正純はいわゆる「宇都宮釣天井事件」後,改易されます。
宇都宮釣天井事件が事実であるかどうかは別として,権力争いに敗れたのでしょう。

一方の本多忠勝

息子の忠政は家康の孫(家康と築山殿の息子・信康と,織田信長の娘・徳姫の子どもの熊姫(ゆうひめ))と結婚し,
忠政と熊姫の間の子ども本多忠刻(ただとき)は,家康の別の孫・千姫と結婚しています。(もちろん,豊臣秀頼の死後)
忠政は姫路藩主にもなっていて,
忠刻と千姫は姫路城に住んでいました。

真田丸に出てくる
本多正信も本多忠勝もかっこいいですよね。
全然タイプは違いますが


PS.上に書いた辞書の名前です。
 国史大辞典(ただし「辞」は旧漢字)  吉川弘文館 平成3年
  全14巻+索引(15巻,上・中・下の3巻が15巻目)
  の12巻に載っていました。  (7月8日追記)
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歴博は丹下健三氏の建築作品です。

2016-04-02 16:46:22 | 歴博
姫路城の北東に位置する兵庫県立歴史博物館は,
丹下健三というとてもすごい建築家の作品だそうです。

このブログを書いている今日は,
北海道から建築の方が見学に来られるそうです。

そんなすごいモノだとは,全く知りませんでした。

何であんな所に(2階の2つのスペースをつなぐところ)廊下があるの?それもロビーの上に・・・
というのは以前から思っていました。

でもそれは,姫路城の渡り櫓をイメージしているそうです。

ボランティアの大先輩が教えてくださいました。

ここは,石落としをイメージしている,ここはほおづえ,狭間,石垣と・・・

そして,外から見ると,姫路城がガラスに大きく映るように設計されているのです。

その大先輩によると,雨漏りがするとのこと・・・
そりゃ,建てられて30年以上たつのだから仕方ないでしょう?!?


『県立歴史博物館がいざなう ひょうご歴史の旅』
昨日注文しました。
勉強しようと思って,本を買って,読むのだけれど,
なるほど・・・で終わってしまうから,私はダメですね。
しっかり頭に入れないと

昨日の歴博の帰りは,姫路城横を歩いて帰りました。
桜が三分咲きぐらいでした。
いいですね,桜と姫路城。

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工楽家住宅保存へ

2016-02-18 14:36:36 | 歴博
カテゴリー「歴博」としましたが,
歴博での話ではありません。

歴博で知った「工楽松右衛門」のことです。

昨日の朝日新聞「はりま版」
「工楽家住宅保存へ
 高砂市は,江戸時代に港湾整備などで活躍した工楽松右衛門ゆかりの工楽家住宅(同市高砂町今津町)の保存整備に乗り出す。
・・・工楽家は江戸時代後期に建てられた木造の豪商宅で,2階建て母屋はのべ約3300㎡。・・・」
周辺も整備されていくそうです。

北前船などの松右衛門帆を開発した松右衛門さんは住んでいないのでしょうが,子孫が住んでいたのかしら?

司馬遼太郎『菜の花の沖』3巻途中で挫折・・・
いいえ,“中断”です。
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高田屋嘉兵衛・北風家・松右衛門

2015-12-19 10:03:37 | 歴博
昨日は歴博。

職員さんと雑談をしていて,室津の話が出ました。
「子どもの時は,室津が昔,どんなところだったかよく知らなかっくってね・・・。」
等々話していると,はっと思い出しました。

「今読んでいる『菜の花の沖』にも,室津が出てくるんですよ。
遊郭があって,船乗りたちが一休み・・・とか。」
と,私が笑いながら,図書館で借りている『菜の花の沖』2巻をカバンの中から出すと,

「あ,松右衛門。え,北風。」
と,その職員さん。

松右衛門は,「松右衛門帆」をつくった人,と職員さんは教えてくれました。
この前の,特別展「北前船」で展示していたのです。
私って,何を見ていたんでしょうねえ。


「北前船」の図録を見ると,松右衛門帆について,こう書いています。

「綿布で制作された帆布。
18世紀後半,播磨高砂の工楽松右衛門が,
播州の特産品でもある太い木綿糸を用いてそれまでより厚く丈夫な帆布を開発し,
以後「松右衛門帆」として普及することになった。
松右衛門は自らも兵庫津を拠点に北前船を経営し,
18世紀末には幕府の名を受けてエトロフ島の埠頭開発にも従事した。
松右衛門のエトロフ開発は,
その後の高田屋嘉兵衛へと引き継がれていく。」

図録には,北風家文書もありました。
歴博の中に,北風正造の展示もありました。
(『菜の花の沖』に出てくるのは,正造の父。)

歴博・・・,といっても,
私は本の部屋で本やパンフレットの整理をしたり,
歴博に来た人の質問を受けて本を探したりするのが,ボランティアとしてのお仕事です。
以前にも書きましたが,解説は講習を受けていないので,できません。
でも,歴博の展示内容を勉強するのは当然ですよね。

『菜の花の沖』がまた1つ教えてくれました。




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兵庫県の地名 日本歴史地名大系

2015-12-07 10:12:49 | 歴博
先週金曜日は,歴博の日

私がいる部屋にはたくさん本があります。

午後は,団体さんがたくさん来る予定だったようだしたが,午前中はのんびり。
本を読みたい放題(!?!)でした。

その中で見つけたのが,この本。
『兵庫県の地名Ⅱ 日本歴史地名大系29』 平凡社 1999年

前回,職員さんが,「英賀と英賀保ってどう違うの?」
の答えを探しました。
明治22(1889)年 町村制施行 
        英賀保村成立
昭和11(1936)年 英賀保村が飾磨町に合併される
昭和15年には飾磨市になり,
昭和21(1946)年 飾磨市が姫路市に合併される

しかし地名は,
古代・和名抄には,英賀郷
これを継承し,中世には,英賀庄 英賀城 その後 英加村(英賀村)
今も,駅周辺だけに「英賀保」の文字が見え,そのほかは「英賀宮町」など,「英賀」

じゃあ,なぜ「英賀」ではなく「英賀保駅」?「英賀保村」?

山陽鉄道は,
明治21(1888)年 兵庫ー明石,そして,明石ー姫路
明治22(1889)年 神戸ー兵庫,そして,姫路ー龍野
その徐々に延びて,
明治34(1901)年 山口県馬関(現 下関)
明治39(1906)年 鉄道国有法により,国有化。山陽本線に

こうやって見ると,
英賀保村ができた時と,鉄道が,英賀保を通った時と重なる。
でも,その時から英賀保駅があったのか,なぜ英賀じゃなくって英賀保なのかわからない。
こういうことは,地元で聞く方がいいのかも?

それはともかく,おもしろい本を見つけた。

次は,網干,中世の福井荘,そして,近世の網干と寺の関係をこの本で見てみよう。

ATSUの独り言につきあってくださった方,ありがとうございました。


PS.この日は学芸員・Hさんとも話をしました。
稲岡神社の絵馬のことをちょっと聞いたけど,研究目的とかいろいろないと,簡単には見ることができないそうです。
Hさん,お忙しいのにすみませんでした。
でも,逆に聞かれました。
新聞社から,いつ頃から穴子を食べるようになったのか,質問があったらしくて,私がいる本の部屋で調べていました。
浜手の人間である私は,穴子の話,祭の時のこのしろの寿司の話をしました。
このしろは,さかなへんに祭と書くそうです。
民俗学的な観点から,浜手に住む私の話はおもしろかったらしく,逆に「ありがとう」と言ってくださいました。
私は時間が来て,家に帰りましたが,その後,穴子はどうなったのかしら?
きっと,どこかの新聞記事に載ったことでしょう。




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