またまた出てきましたね,文覚!
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」,4月3日の第13回では,立派になった(?)文覚!
その時,「後白河法皇」とか「神護寺」という言葉も出てきましたが,
後白河法皇より神護寺復興のため文覚に譲られたのが福井荘です。
写真は,
「福井荘のうち七ヶ村の水不足対策として文覚上人は堤防を築き福井大池を修復しました。この時、上人は池のかたわらのこの石に腰掛けて工事監督をしていたと伝えられています。」と兵庫県太子町のホームページにのっている「文覚上人腰掛石」です。
似たような伝説(?)はどこにでもある・・・と思っていたのですが,
前回「江戸時代の福井大池をめぐる訴訟」に載せた
「福井大池池床論争裁許絵図」の裏書(宝永5年(1708年))に出てくるのです,「文覚石」が。
「文覚石まで高三尺」とか「文覚石より上二尺」と。
高さの目印になっていたのでしょうか。
ただし,現在の「文覚上人腰掛石」とは別のものではないかとは思いますが。
さて,前回,
「福井大池の池掛り6ヶ村(大池の水で田んぼを作る村々)(かつての福井荘)が
原村(かつての太田荘)を訴えました。」と書きましたが,そんな単純なものではなく,
とても複雑で根深いものであることが,『天満村史』を読んでいてわかりました。
また,私が根性で裏書を翻刻していくうちに,
私がいかに「水」のことを知らないか,そのため,理解できないばかりか,いかに翻刻ミスをするか・・・というのがわかってきました。
その一つが,「うてミ口」です。
この裏書に何度も出て来る「うてミ口」
それがどんなものであるかを知らないから,前後の文脈というか,勘(?)で読むことができません。
『天満村史』には,
「「うてミ」というのは,池が満水になった時,それ以上の水は自然に排水できるように調整する箇所で,うてミ口を高く,狭くすれば池の水量は増えますが,池周辺の排水が悪くなり田地が湿地化し,争論の起こる原因となります。」とあります。
他に,ネットで調べると,なんと兵庫県のホームページに「ため池講座」があり,「うてみ(洪水吐)」と出てきます。
続けてネットで調べると,
「洪水吐 (こうずいばき)
洪水の流入に対し、ダムと貯水池の安全を確保するために設けられた放流設備の総称。」
と「ダム事典」に。
結局,うてミ口の高さや原村新田の仕出しについて,6か村が敗訴しました。
この「福井大池池床論争裁許絵図」が双方に証拠として渡されます。
ただ,宝永の件以前にも,以降も,
また,原村と6か村の対立だけでなく,6か村内でも水の配分等を巡って何度も争われています。
写真は,今年4月8日の福井大池周辺です。
写真右の桜。もっともっと続くんですよ。とっても綺麗でした。
写真左端の「新田記念碑」作られたのは,昭和26年のようですが,
記念碑の裏には,明治の初めに新田を作ったというようなことが書かれていました。
(ちょっと読みにくかったので間違っていたらすみません。)
でも,今は,ここに田はありません。
PS.ちょっと勉強しないと・・・
渡辺尚志『百姓の力』読書中。渡辺尚志『百姓たちの水資源論争』購入しました。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」,4月3日の第13回では,立派になった(?)文覚!
その時,「後白河法皇」とか「神護寺」という言葉も出てきましたが,
後白河法皇より神護寺復興のため文覚に譲られたのが福井荘です。
写真は,
「福井荘のうち七ヶ村の水不足対策として文覚上人は堤防を築き福井大池を修復しました。この時、上人は池のかたわらのこの石に腰掛けて工事監督をしていたと伝えられています。」と兵庫県太子町のホームページにのっている「文覚上人腰掛石」です。
似たような伝説(?)はどこにでもある・・・と思っていたのですが,
前回「江戸時代の福井大池をめぐる訴訟」に載せた
「福井大池池床論争裁許絵図」の裏書(宝永5年(1708年))に出てくるのです,「文覚石」が。
「文覚石まで高三尺」とか「文覚石より上二尺」と。
高さの目印になっていたのでしょうか。
ただし,現在の「文覚上人腰掛石」とは別のものではないかとは思いますが。
さて,前回,
「福井大池の池掛り6ヶ村(大池の水で田んぼを作る村々)(かつての福井荘)が
原村(かつての太田荘)を訴えました。」と書きましたが,そんな単純なものではなく,
とても複雑で根深いものであることが,『天満村史』を読んでいてわかりました。
また,私が根性で裏書を翻刻していくうちに,
私がいかに「水」のことを知らないか,そのため,理解できないばかりか,いかに翻刻ミスをするか・・・というのがわかってきました。
その一つが,「うてミ口」です。
この裏書に何度も出て来る「うてミ口」
それがどんなものであるかを知らないから,前後の文脈というか,勘(?)で読むことができません。
『天満村史』には,
「「うてミ」というのは,池が満水になった時,それ以上の水は自然に排水できるように調整する箇所で,うてミ口を高く,狭くすれば池の水量は増えますが,池周辺の排水が悪くなり田地が湿地化し,争論の起こる原因となります。」とあります。
他に,ネットで調べると,なんと兵庫県のホームページに「ため池講座」があり,「うてみ(洪水吐)」と出てきます。
続けてネットで調べると,
「洪水吐 (こうずいばき)
洪水の流入に対し、ダムと貯水池の安全を確保するために設けられた放流設備の総称。」
と「ダム事典」に。
結局,うてミ口の高さや原村新田の仕出しについて,6か村が敗訴しました。
この「福井大池池床論争裁許絵図」が双方に証拠として渡されます。
ただ,宝永の件以前にも,以降も,
また,原村と6か村の対立だけでなく,6か村内でも水の配分等を巡って何度も争われています。
写真は,今年4月8日の福井大池周辺です。
写真右の桜。もっともっと続くんですよ。とっても綺麗でした。
写真左端の「新田記念碑」作られたのは,昭和26年のようですが,
記念碑の裏には,明治の初めに新田を作ったというようなことが書かれていました。
(ちょっと読みにくかったので間違っていたらすみません。)
でも,今は,ここに田はありません。
PS.ちょっと勉強しないと・・・
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