今,渡辺 尚志氏の江戸時代の「百姓」に関する本に凝っています。
『言いなりにならない江戸の百姓たち: 「幸谷村酒井家文書」から読み解く』
『百姓の力 江戸時代から見える日本 』角川ソフィア文庫,(以下『百姓の力』)
『百姓たちの水資源戦争 江戸時代の水争いを追う』草思社文庫,(以下『水資源戦争』)
渡辺尚志氏三連発!!
ところで,山川出版社『詳細日本史』(2012年)には,こう書かれています。
「太閤検地は(中略)荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理し,検地帳には実際に耕作している農民の田畑と屋敷地を登録した(一地一作人)。」
確かにそうなのですが,「村の土地は個々の百姓のものであると同時に村全体のもの」(『百姓の力』79ページ)
入会地に限らず,年貢納入や農業に必要な水についても「村」や「組合」が必要であり,重要です。
現在,『水資源戦争』読書中。
第一部の総論を読んだ段階の今,
ちょっと私の頭の中を整理します。
ちなみに,第一部は総論,江戸時代における百姓と水の関わり,
第二部は各論,「豊富な史料が残されている現在の大阪府域に対象を絞って,そこにおける百姓と水の関わりを具体的に述べていきます。」とのことですが,この部分を読む前に,私流の勝手な各論,つまり,現在の兵庫県姫路市南西部(網干区,大津区,勝原区,余部区)&揖保郡太子町を少し。(ただし,私が思いつくまま)
「江戸時代の地域的結合は,村々の連合,すなわち組合村として展開したところに特徴がありました。もちろん村を単位としない社会関係も多様に存在しますが,なかでも村を単位とする組合村は,重要な役割を果たしたのです。」
組合村が生まれたきっかけとして5点,そのうちの①が自然的諸条件への対応
「①には,用水や入会地の利用・管理などの生産諸条件に関するものや,自然災害に対処するものなどがあります。江戸時代の農業生産には,水と,肥料源としての山野が不可欠でした。」(『百姓の力』174~175ページ)
→(私流勝手な各論)網干三ヶ村(新在家村,余子浜村,興浜村)は領主はバラバラであるにもかかわらず,いっしょにまとまったもののように史料に書かれています。やはり,水の管理に関しても,網干三ヶ村が出てきます。また,前に書いた福井大池を巡る水争いでも,天満村などを池下六ヶ村などと史料に出てきます。
「用水に関わる諸経費を村々はどのように負担したか?」 について。
①村割;村の大小や灌漑面積の広狭に関係なく,組合各村が均等に費用を負担。
②灌漑面積割 ③石高割 これらを適宜組み合わせて (『水資源戦争』51~52ページ)
→(私流勝手な各論)「余子浜村享和2年(1802年)の明細書」『網干町史』には,網干三ヶ村の各村々の用水区分による田地の高の表や水利用費,水入賃割賦も載っているから,③の石高割かな?と思ったのですが,計算すると,均等割りでもないような・・・。(???)
「用水と宗教の結びつき」について。
「降雨が人知をもってコントロールできない以上,雨乞いなどのかたちで,用水と寺社との関わりは続いたのです。」(『水資源戦争』66~68ページ)
→(私流勝手な各論)まさに,そうですね!うちから徒歩4分(?)の三石天満神社!
「網干三ヶ村の灌漑用水の確立と旱害から逃れることを祈願して三石大明神という地神様の祠が祀られていた」『郷土網干学習資料 網干歴史散歩』
「灌漑用水を廻る水争いは絶えず,この流れに三つの石堰が設けられました。石には堰板をはめ込み米の収穫高に応じて板を抜き水を流す仕組みをつくり,これが三石の名の起こりとなりました。」『姫路市立網干公民館 古文書学習会 カルチャー通信』
疲れてきたので,とりあえずこのくらいにします。
誤字脱字,その他いろいろあるかもしれませんが,すみません。
もしもこれを読まれた方がありましたら,お疲れ様でした。
最後に一言
私の知人が言っていました。その方のご主人は,自治会の役員をされているのですが,順番に用水路の見まわり等をしているそうです。
「水」は過去のことではなく,ずっと今も続いていることなのですね。
(おまけ)
なんとなく,江戸時代は村々の訴訟が多いなあ,と思っていました。福井大池の水もそうです。
江戸時代以前は,例えば「菅浦文書」にみられるように,「戦うムラ」のイメージが私にはあります。
(清水克行『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』にも載っています。
なお,清水氏は中世については「ムラ」と表現しています。)
菅浦とは,琵琶湖の一番北にある集落です。もとは大浦というムラの一部でしたが,鎌倉時代中期に独立をめざして立ち上がり,そこから150年にも及ぶ戦争になります。訴訟もしていますが,まわりのムラに応援を呼びかけ,2つのムラの紛争が,湖北の全域を巻き込んだ対立となりました。「ムラの戦争は規模も性格もサムライの合戦になんらおとるものではなかった」(『室町は今日もハードボイルド』64ページ)のです。
それがなぜ?秀吉は「武力による自力解決を厳禁し,地元で解決できない争いは裁判で決着をつけるよう厳命したのです。」(『水資源戦争』60ページ)まるで,百姓たちへの総無事令ですね。この方針は,家康,そしてその後の江戸幕府へと引き継がれます。なるほどです。
清水氏の言う「ムラ」から江戸時代の「村」へ・・・では網干三ヶ村いつから?江戸時代も「水」だけのつながりではなく,揖保川の水運等でも結びついていたのでしょうが,その前は,戦う「ムラ」の連合だったのでしょうか。・・・これは想像に過ぎません。
きりがないので,終わります。(4月26日)
『言いなりにならない江戸の百姓たち: 「幸谷村酒井家文書」から読み解く』
『百姓の力 江戸時代から見える日本 』角川ソフィア文庫,(以下『百姓の力』)
『百姓たちの水資源戦争 江戸時代の水争いを追う』草思社文庫,(以下『水資源戦争』)
渡辺尚志氏三連発!!
ところで,山川出版社『詳細日本史』(2012年)には,こう書かれています。
「太閤検地は(中略)荘園制のもとで一つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理し,検地帳には実際に耕作している農民の田畑と屋敷地を登録した(一地一作人)。」
確かにそうなのですが,「村の土地は個々の百姓のものであると同時に村全体のもの」(『百姓の力』79ページ)
入会地に限らず,年貢納入や農業に必要な水についても「村」や「組合」が必要であり,重要です。
現在,『水資源戦争』読書中。
第一部の総論を読んだ段階の今,
ちょっと私の頭の中を整理します。
ちなみに,第一部は総論,江戸時代における百姓と水の関わり,
第二部は各論,「豊富な史料が残されている現在の大阪府域に対象を絞って,そこにおける百姓と水の関わりを具体的に述べていきます。」とのことですが,この部分を読む前に,私流の勝手な各論,つまり,現在の兵庫県姫路市南西部(網干区,大津区,勝原区,余部区)&揖保郡太子町を少し。(ただし,私が思いつくまま)
「江戸時代の地域的結合は,村々の連合,すなわち組合村として展開したところに特徴がありました。もちろん村を単位としない社会関係も多様に存在しますが,なかでも村を単位とする組合村は,重要な役割を果たしたのです。」
組合村が生まれたきっかけとして5点,そのうちの①が自然的諸条件への対応
「①には,用水や入会地の利用・管理などの生産諸条件に関するものや,自然災害に対処するものなどがあります。江戸時代の農業生産には,水と,肥料源としての山野が不可欠でした。」(『百姓の力』174~175ページ)
→(私流勝手な各論)網干三ヶ村(新在家村,余子浜村,興浜村)は領主はバラバラであるにもかかわらず,いっしょにまとまったもののように史料に書かれています。やはり,水の管理に関しても,網干三ヶ村が出てきます。また,前に書いた福井大池を巡る水争いでも,天満村などを池下六ヶ村などと史料に出てきます。
「用水に関わる諸経費を村々はどのように負担したか?」 について。
①村割;村の大小や灌漑面積の広狭に関係なく,組合各村が均等に費用を負担。
②灌漑面積割 ③石高割 これらを適宜組み合わせて (『水資源戦争』51~52ページ)
→(私流勝手な各論)「余子浜村享和2年(1802年)の明細書」『網干町史』には,網干三ヶ村の各村々の用水区分による田地の高の表や水利用費,水入賃割賦も載っているから,③の石高割かな?と思ったのですが,計算すると,均等割りでもないような・・・。(???)
「用水と宗教の結びつき」について。
「降雨が人知をもってコントロールできない以上,雨乞いなどのかたちで,用水と寺社との関わりは続いたのです。」(『水資源戦争』66~68ページ)
→(私流勝手な各論)まさに,そうですね!うちから徒歩4分(?)の三石天満神社!
「網干三ヶ村の灌漑用水の確立と旱害から逃れることを祈願して三石大明神という地神様の祠が祀られていた」『郷土網干学習資料 網干歴史散歩』
「灌漑用水を廻る水争いは絶えず,この流れに三つの石堰が設けられました。石には堰板をはめ込み米の収穫高に応じて板を抜き水を流す仕組みをつくり,これが三石の名の起こりとなりました。」『姫路市立網干公民館 古文書学習会 カルチャー通信』
疲れてきたので,とりあえずこのくらいにします。
誤字脱字,その他いろいろあるかもしれませんが,すみません。
もしもこれを読まれた方がありましたら,お疲れ様でした。
最後に一言
私の知人が言っていました。その方のご主人は,自治会の役員をされているのですが,順番に用水路の見まわり等をしているそうです。
「水」は過去のことではなく,ずっと今も続いていることなのですね。
(おまけ)
なんとなく,江戸時代は村々の訴訟が多いなあ,と思っていました。福井大池の水もそうです。
江戸時代以前は,例えば「菅浦文書」にみられるように,「戦うムラ」のイメージが私にはあります。
(清水克行『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』にも載っています。
なお,清水氏は中世については「ムラ」と表現しています。)
菅浦とは,琵琶湖の一番北にある集落です。もとは大浦というムラの一部でしたが,鎌倉時代中期に独立をめざして立ち上がり,そこから150年にも及ぶ戦争になります。訴訟もしていますが,まわりのムラに応援を呼びかけ,2つのムラの紛争が,湖北の全域を巻き込んだ対立となりました。「ムラの戦争は規模も性格もサムライの合戦になんらおとるものではなかった」(『室町は今日もハードボイルド』64ページ)のです。
それがなぜ?秀吉は「武力による自力解決を厳禁し,地元で解決できない争いは裁判で決着をつけるよう厳命したのです。」(『水資源戦争』60ページ)まるで,百姓たちへの総無事令ですね。この方針は,家康,そしてその後の江戸幕府へと引き継がれます。なるほどです。
清水氏の言う「ムラ」から江戸時代の「村」へ・・・では網干三ヶ村いつから?江戸時代も「水」だけのつながりではなく,揖保川の水運等でも結びついていたのでしょうが,その前は,戦う「ムラ」の連合だったのでしょうか。・・・これは想像に過ぎません。
きりがないので,終わります。(4月26日)