末日聖徒は一般的に、人の救いに「信仰」や「恵み」が果たす役割より、「行ない」がなければと「行ない」を強調する傾向がある。それで1980年、ニューズウィークが末日聖徒は「恵み」の果たす役割を受け入れておらず、イエス・キリストの贖罪を軽く扱っている、と書いた。人は罪なく生まれてきて、自由意志を適切に行使して神の如くなれると信じていると報じた。
それに対し、大勢の一般会員にその傾向があっても教義上はそうではない、と教会の指導者やBYUの教授たちが反応した。まず1981年エンサイン誌に「救いは恵みにそれとも行ないによる?」と題する記事 (恵みに相当の焦点) が掲載され、翌年モルモン書に「イエス・キリストのもう一つの証」と副題が添えられることになった。そして1986年ベンソン大管長が「モルモン書は『恵み』の響きと精神に富んでいる」と大会説教で語った。
さらにB.C.ヘイフェンBYU法学大学院学部長が「贖罪は罪人(つみびと)のためだけではない」と学内のセミナリー教師を前に語り、シェリー・デューの働きかけがあってそれが書物となって出版された(1989年)。続いてデューの提案でスティーブン・ロビンソンの「キリストを信じる」が1992年デゼレト出版から出され、60万部売れた。
D.H.オークス長老は翌年教会教育部の職員を前に、上の2冊とミレットの「キリストにある命」を手に入れて読み、熟慮するように勧めている。
そして最近ではウークトドルフ副管長が20015年総大会で「『恵み』という賜物」と題して説教されるにいたった。私は注目すべき動きであると見ている。
(以上、デゼレトニューズの記事「『恵み』はモルモンの異端とされる考えではない」より要約) https://www.deseret.com/2017/12/5/20624001/grace-is-not-a-mormon-heresy-lds-leaders-and-scholars-say-after-doctrinal-climate-change#sheri-dew-leads-an-executive-team-meeting-at-deseret-book-in-salt-lake-city-on-thursday-oct-4-2012-dee-williams-left-dew-mark-clegg-keith-hunter-jed-morley-and-ryan-miller-attend-the-meeting
●モルモン書は神の言葉ですと教える宣教師の大部分は伝道前にモルモン書を通して読んだことがない。
●伝道中は日本人の前でコーラを飲まないが、BYUに帰るとがぶ飲みする宣教師たち。
●緑茶は飲んでいいとか悪いとか、コーヒーキャンディはダメと言いながらポリネシア文化センターではカフェインレス・コーヒー売ってる。
●世の標準とは違う徳高い生活を教えながら教会幹部の娘がミスコンテストに出て水着を披露する。
●安息日の過ごし方として仕事をしない事だと教えながら、元プロゴルファーの伝道部会長(ブルース・サマーヘイズ)がいたり、プロ野球選手がお手本のように持ち上げられる。
●有名女優の発言「教会は私の信仰のベース」を機関誌に掲載するも、彼女の度重なる不倫を放置。
●BYUで学生にインターネット利用を禁じたかと思えば数年後にはブログやSNSで証を伝えましょうと言いだす。
●『この世の全ての教会は間違っており神の目から見ての憎むべきもの』という教義を信じながら、それらの教会がモルモンを異端扱いするのはけしからんと怒る。
●キリストの純粋な愛を口にする一方で、積極的に嫌韓、反日発言をする会員たち。
これらのうちどの行いが末日聖徒を救いに導くものなのかは分かりませんが、長年モルモン教会に在籍している私にはたった一つ、心の底から言える強い確信があります。それは「モルモン書はジョセフ・スミスの創作である」と言うことです。
なお私は、人が救われるのは行いによってではなく、ただ神の恵みのみによるものである、という理解です。
http://www.worldfolksong.com/songbook/usa/amazing-grace.html
歌詞の意味・日本語訳(意訳)
Amazing grace how sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found,
Was blind but now I see.
アメージング・グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる
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>翌年モルモン書に「イエス・キリストのもう一つの証」と副題が添えられることになった。
あの副題にそのような背景があったとはー。
そうなんダァ。そうなんですねぇ。
リンクの箇所にこんな文がありました。
Olson said
「ああ、教会の指導者たちは、他の信仰の人々は私たちが真のクリスチャンだとは思わないという考えに基づいているので、
私たちはそれらの福音主義者に「私たちはクリスチャンです」と伝えるために副題を付けたんだな。」
「他の宗教の人のためではなく私たちのためだと気づいたのは数年後でした。それは、私のためでした。」
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キリストの救いは信仰によってもたらされることには間違いないが、ヨハネの黙示録に記述されているおり、復活後の最後の審判において、「思いと行いによって裁かれる。」 のも間違いないことであって、それゆえ行いは重要という考え方をしているのが末日聖徒の教義であると知っていれば、書き方も変わっていたと思います。
>ニューズウィークが末日聖徒は「恵み」の果たす役割を受け入れておらず、イエス・キリストの贖罪を軽く扱っている
末日聖徒におけるイエス・キリストの贖罪と許しは、たとえ生前に悪人であっても、死後の改心と自ら犯した罪を償おうとする努力に免じて、最終的に無罪放免されて、救いを受けることが可能であるという教義を考えると、イエスの贖罪と恵みの力は、末日聖徒のが、キリスト教のうちで最も広くて深いと分かるはずなのですけどね。
モルモン教会
「救いは神の恵みです」←わかる
モルモン教会
「恵みを得るには各人の努力が必要」←えっ?
モルモン教会
「そのために戒めを守ります」←なぜそうなる?
モルモン教会
「惜しみなく什分の一の戒めを守り神のみ業に参加できます」←ははぁ、そういうことね(笑)
一昔前オムナイもプロテスタントが信仰のみの救いを奉じているなんてビックリでした。
カトリックの恵みに対する神学は末日聖徒に近く、こちらが解釈的には正しいと思います。
http://www1.cncm.ne.jp/~toguchi/ozaki_catholic/45.htm
歴史的には、この問題がルターとカトリックの根本的な教義面での対立点でした。
ルターは、人間は原罪によって芯まで堕落したので、良いことは何一つ出来ない。
ただ、キリストが私を救ってくれると信じるだけで救われる、と主張します。
簡単に言うと、助力の恩恵がすべてであって、人間の協力はゼロであるということです。・・・
これに対し、カトリックは、確かに人間は原罪の結果として悪に傾くようになったが、まだ善を行なう力は残っている。
ただ、それも神の恩恵の助けを受けてできることであると言うわけです。
ですから、謙遜に神の助けを頼みながら、日々平凡な生活の中で奮闘努力を続けねばならないということです。
ーー
「恵みのみで救われるんだったら悪いことでも何でもやり放題になっちゃうよ」
っていうこと。
こうした誤解をしているのはモルモン教会員が、何かを命じられないと人間は良いことをしないと考えているからだと思う。モルモン教会員は自発的に良いことをしない属性を持った人たちであり、だからこそ、善悪をはっきりさせるためには神の命令(戒め)が必要であるという考え方に納得するのではないかと思う。
毎週日曜日に聖餐会に行って、酒やたばこコーヒーや紅茶をたしなまず、収入の10%を教会に寄付する。
それだけで救われるんでしたら、そっちの方が簡単かもしれない。
自分が頼んでも居ないのに、「イエス・キリストの十字架の死によって、あなたは救われた」って負い目を一生背負って生きるのもしんどいもんです。
それにしても、オムナイ氏が、外国の神を信じて居るのが理解できない。
http://seishonyumon.com/words/3082/
神の恵みとは何?
https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-grace-of-God.html
聖文をよく読んで理解の賜物を使っていかないと間違った方向に行くことがあります。
末日聖徒の戒めってどれくらいあるのですか?
信仰もない人が戒めを守りますか。
例えば、末日聖徒ではない人が「私はお茶は飲みません」と言う人に
「あなたは戒め守っていますね」って、いいますでしょうか。
たまに教会員の人が言うんですよね。
プロテスタントの始まりの1つは、信仰のない人がお金を出して罪の告白をすれば赦されると言うことに異論を唱えたことであります。
それが行為義認とか、そういう言葉になったと言う学者の方が話していました。
では、信仰義認がという、これもまた学者さん牧師さんの間でいろいろな解釈があったりしています。
信仰義認
信仰義人もしくは義人信仰→正義と義人の英語の聖書が同じ、昨日やっていました。
義認信仰
ルターの教えは、義認信仰ではなかったかと言う話が掲載されていたのを読んだことがあります。
「信仰」「善行「義認」で各派で論議されている
そうですが、
末日聖徒の場合、初めに
イエスキリストを信じる信仰、つまり、
イエスキリストが贖い主、救い主であることを信じます、という信仰が先に来なければ、
いろんなことをしていても、無に等しいということになりますね。
つまり、「善行(悔い改めや戒めも含む)」をしても、神に対して信仰を持って赦しを求めなければ、回心した、されたとは言えないでしょう。
パウロの経験が、主の憐れみと恵みについて証されたのです。
ルカ16章の「お金持ちと貧しい人の話」を読むと面白いですよね。
義認についても、神様がこの人を義認と認め、義人だと直接言って来なければ、義認や義人とは認められないのではないのかなと思うのですが。
>義認についても、神様がこの人を義認と認め、義人だと直接言って来なければ、義認や義人とは認められないのではないのかなと思うのですが。
神が認める「義」とは、こういう事ですか?
モーセは、戦いを終えて帰還した軍の指揮官たち、千人隊長、百人隊長に向かって怒り、かれらにこう言った。「女たちを皆、生かしておいたのか。ペオルの事件は、この女たちがバラムにそそのかされ、イスラエルの人々をヤーヴェに背かせて引き起こしたもので、そのためにヤーヴェの共同体に災いが下ったではないか。直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。」
(民数記 31章14〜18節)
あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追い払われる時、すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何のあわれみも示してはならない。
(申命記7章1〜2節)
>神が認める「義」とは、こういう事ですか?
そんな古代の伝承を持ち出して何を言いたいんですか?もっと現代のことを言いましょうよ。
マウンテンメドウで何の罪もない開拓者100人以上をぶっ殺したり、妻に内緒で何十人もの女性(13歳の少女を含む)と結婚したり、黒人はカインの呪いをうけた人種で前世で神に忠実でなかった者たちだと人種差別したり、カリフォルニアの同性愛者の家庭を破壊する運動に何億円もつぎ込んだりすることですよ。
そしてあげくはこうした事実を指摘されてもアンチ団体による捏造だと言って事実から目を背けること。
これが現代の生ける予言者に従う者の「神の義」なんですわ。あなたは守ってますか?まぁ豚だからどうでもいいのでしょうけど。