I に関連して、引照には並行する聖句が掲げられ、本文の聖句か引照された聖句のどちらかが引用していることが多いので、ここで引用の四つの種類を整理しておきたいと思う。
1)まず、「単純な引用」がある。マタイ1:22はイザヤ7:14「おとめがみごもって・・」を引用していることが分かる。
2)次に「鎖のように引用」する場合。ロマ9:25 はホセア、イザヤから順に引用している。
3)また「混ぜこぜ引用」とでも言うべき形のものがある。例、ロマ3:10以降、「義人はひとりもいない」という箇所で、詩篇とイザヤ書が融合したような形で引用されている。
4)そして「ミドラシュ(ユダヤ教の「釈義」)込みの引用」という種類がある。解釈の言葉を一緒に入れて、聖書の言葉を引いてくるのである。それは、単に繰り返すのではなく、新しい状況に応じて発展的、開発的であり、深化している。(この四種の引用について榊原康夫「聖書読解術」1970年を参考にした。)
[BYU紀要 54:2, (2015年)「モルモンとミドラシュ」の記事を掲載 ]
私はモルモン書にこの四番目の引用の形が何カ所かで見受けられるのではないかと思っている。いわば聖書の文の表現や言葉に触発されて、聖書の引用元とは異なる、いわば発展したメッセージが記されているのである。
例1 多く見られるイザヤ書の引用にまたその説明にミドラシュ的特徴が見える。
例2 I コリント10:13 「耐えられないような試練・・」→ I N3:7「私は行って行なう」両方とも道が備えられている、という言葉が添えられる。
例3 IIIN18:28, 29聖餐はふさわしくないまま・・ ← I コリ11:27-29 弁えないで食する者は・・
例4 創6:3 「私の霊は長く人の間に・・ない」→ IIN26:11「主の御霊はいつでも・・ない」
例5 BofMではないが、モーセ5:11 でエバはまだ書き記されていない聖典の知識(救いの計画)を持って語っている。
ほかにも数多くあるが、例2-4は私が最近気づいたものである。
参考
・Avram R. Shannon, “Mormons and Midrash: On the Composition of Expansive Interpretation in Genesis Rabbah and the Book of Moses,” BYUStudies, 54:2. Avram R. Shannon is a recent PhD graduate from the Department of Near Eastern Languages and Cultures at The Ohio State University. 著者のアヴラハム・R・シャノンはオハイオ州立大学「近東の言語と文化」学部で博士課程を修了している。
・Mark Thomas, “The Paper Plates of Laban.” Worlds Without End: A Mormon Studies Roundtable, posted Aug 12, 2019
・正しいかどうか、みたまを受ければわかります
・みたまによって判断してください
・みたまがあれば大丈夫
・モルモンを批判する話にはみたまを感じない
みたいことを、みんな言いますよね。
ハッキリ言っちゃいますけど、みたまの正体って単なる思い込み、自己暗示ですよ。
自己暗示そのものが悪ではないのと同じで、みたまを悪いとまでは言いませんが、人間が生まれながらに持っている知性や理性を否定するためにみたまを利用するのであれば、そういう行為は害悪です。
ご自分の言葉で誠実なご意見を述べてくださり大変嬉しく思います。これでは私もきちんとお答えしなければなりません。
「神学の基本的態度」についてはその通りだと思います。これは神学が「学問」である故当然こうであるべきでしょう。ただ神学は神を探求しているわけではなく、神の存在を証明する学問でもないと思います(そうではないという人もいるかも知れませんが)。
>ヘブル的な個人の神との交わり、理性よりも祈りと聖文学習からくる神の啓示と確信、個人的な信仰告白は「神学」とは親和性が難しく思えます。
とのことですが、私が神学をどのように捉えているかと言いますと・・・
神学によって私たちの「信仰」がどういう構造になっているかを明確にできます。神学は人に信仰を生ませたり、逆に信仰を壊すものではありません。しかし自分の信じていることに、どこかに矛盾はないか、どこか理解不足な部分はないか、そういう気付きを与えてくれると思います。
そんな細かいことはどうでもいい、神を実感できているならそれでいいというご意見の方もいて、普通は気にせず信仰生活をされているでしょう。しかし何らかの信仰上の課題が起こった時に、人は自分の信仰を顧みるときがあります。あるいは自分の信仰を説明する必要に迫られる時があります。神を信じることと戒めの関係は?安息日と労働と救いの関係は?などを他人や子供に説明し、あるいは自問自答するわけです。その時は辻褄が合うように順序だてて明確な言葉で表現することになりますが、その行為をより発展させたものが神学ではないかと思います。
変なたとえかも知れませんが、テレビを見ているときは映像が見える仕組みを理解していなくても楽しむことができます、普通はそれで良いのです。でも画面が映らなくなったら、何が原因かを突き止めるには停電なのかアンテナの断線なのか受像機の故障なのかなどテレビの仕組みを理解している必要があるわけです。この「仕組みを理解する」という行為を、信仰に適用したものが「神学」であると認識しています。
正直なところ様々な学派について説明できるほどの知識はございません。しかしはっきり言えるのは、神学が信仰を破壊することはありません。決して人間の浅薄な知恵で「神」をどうこう議論しようとするものではなく、「信仰」を明確にするのが神学だと捉えております。そのため根拠のない思い込みを信仰だと思っていた自分に気づかされることはあるかも知れません。
深い考察素晴らしいです。
HNはジアスターゼのように福音を消化したいとの思いからでしょうか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/キリスト教神学
キリスト教神学者は、聖書を釈義し、分析し、また、理解を助け、
講解し、キリスト教を弁護し弁証する。
神学は神学者にキリスト教の真理をより理解させ、
キリスト教と他の伝統を比較し、批判者からキリスト教を守り、
教会の改革を助け、伝道を進め、
現代の必要に役立てるためにある。
ーーーー
末日聖徒的キリスト教神学も肯定・批判に関わらずこのようであるべきなのでしょう。
https://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/8e04d4b18cec03616ee2fdf0b70774de
女流作家メッティ・アイビー・ハリソン(末日聖徒、48歳)・・
聖典の言葉をさらに探索し一種の『ミドラシュ』として著した。・・
私はモルモン書が、紀元前600年から紀元600年に実際に住んだ人々の歴史的な記述だとは信じていない。・・
ーーー
これも立派な神学だと思います。
わたくし(オムナイ)は聖書と同じようにモルモン書も歴史的な記述を含んでいると思っていますが、それは信仰の重要な部分ではありません。
様々な立場の意見を目にするとこは信仰を広げる有益なものになっています。
1)種々の方法論と論証術を用いるし思考実線
2)各個人の信仰的洞察からは区別される。この信仰的洞察は、自ら信じていることを確信できるが
3)神学はそれを超えて
他社の前で信仰を理性的に弁明し、また主張することができなければならない。
4)神学はその際、自らいかなる信仰的判断も下してはならない。
ことを知っている。
これを読むと、ヘブル的な個人の神との交わり、理性よりも祈りと聖文学習からくる神の啓示と確信、個人的な信仰告白は「神学」とは親和性が難しく思えます。このように、私の「神学」への判断基準はそれが、ヘブル的な思考・行動パターンから来たものか、ギリシャ哲学の方法論(理性中心)を用いたものかで、考えます。
「イザヤの言葉はあなたがたにはわかりにくいが、預言の霊に満たされてひとびとにはわかりやすい。(2N25:4)・・・イザヤの言葉を喜んでいる。ユダヤ人は預言者やたちの述べた事柄をよく理解している。しかも、ユダヤ人に話された事柄をユダヤ人程よく理解できるものは、ユダヤ人の風習を教わっていない限り他にいない。(25:5)
パウロの改心と働きの方法は「ヘブル人のもの」そのものでした。そのためにアテネの評議所でアテネの人々に語りかけた時に彼らのほとんどの人たちの反応は「ある者たちは嘲笑い、またある者たちは「この事については、いずれまた聞くことにする」でした。
イザヤ書に戻ると、「全預言をイザヤの作と主張する人たち」と「イザヤが全予言の著者でないとする人たち」の議論は長い歴史があるようですが、十九世紀にその頂点を迎えます。人数と範囲については諸説があります、私が大切に思う「ヘブライ的理解」からすると、研究者が「預言者は彼自身の時代を超えて予言することができる」あるいは、「神から許された預言者は将来に関する預言を啓示の一つの型として与えられる」と信じるかどうかで決まると思います。新訳聖書の五福音書、パウロ自身もいくつかの箇所で「イザヤ書」から引用していることはみなさんご存知です。さらに彼は、キリストの純粋な真理の中にギリシャ哲学の考え、手法が混じることを心配し「あなた方は、虚しいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言い伝えに基づくものに過ぎない」(コロサイ2:8)と忠告しています。
高等批判の展開された十九世紀はヴェルハウゼンと彼に結びつく研究は、イスラエルの宗教制度の進化論的発達説に基づくもので、ヘーゲルの弁証法的哲学を取り入れて論証されたものです。そこから導き出された研究には同意することはできません。もちろん、2〜3に区分されたそれぞれの部分の預言の内容と出来事は理解できます。以上稚拙ではありますが、私の理解と思いを書いてみました。読んでくださった皆さんに感謝いたします。
>文章説から始まる、ヴェルハウゼン学派に連なる研究、その後の自由主義神学に対してです。
何のお話をなさりたいのか良く分からないのですが、イザヤ書が3つの部分で構成されているのは普通に読めばわかることです。モルモン教会の『旧約聖書』日曜学校ガイドでもこれを意識した構成になっていました。
第1イザヤ:36課、37課
第2イザヤ:38課、39課
第3イザヤ:40課
こういう構成になっているのは学派や説に関係なく読めばわかるレベルの話だと思います。
また第2イザヤが別の人物によるものというのは、内容や文体から推測できるというのもでこれも読んだからそうなってます、という話です。これも学派は関係ないと思いますけれど。
もしかして、モルモン書がある以上、第2イザヤはバビロン捕囚の後に書かれたという説は信じられない、ということでしょうか?それはねぇ・・・イザヤ書に埋め込まれたキリスト予言の数々は後代のクリスチャンによるこじつけじゃないのか?という根本的な疑問に比べれば微々たる問題ですよ。
イザヤ9章6節「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」はイエス・キリストのことを表している以外に考えられないと私らは思うのですが、これはキリスト教の理解であって、ユダヤ人はそう考えてはおりません。ヒゼキヤ王のことだという理解ですね。それをキリスト教が勝手にこじつけたのだと、そういう宗派だけでなく、宗教を超えた齟齬も聖書学者たちはちゃんと知っているのです(公に口にはしませんけども)。
BYUのモルモン学者たちにもくだらない護教ばかりやってないでそういう宗派を超えた理解ができるレベルに到達して欲しいですね。
オムナイさん
>第二イザヤの引用がモルモン書創作説のダンクシュート的証拠であるなら
私にとっては第2イザヤは最近理解したものであって、モルモン書が創作と言う確信は20年くらい前からです。『ダンクシュート的証拠』となったのはモルモン護教者たちの不誠実な態度です。
https://seishoforum.net/kumamoto/2015/12/22/
さもありなんですかぁぁ・・・モルモン書でアビナダイのところで出てくるんじゃ?!
「ダニエルが、キュロスに聖書の預言を指摘したものと思われます。ダニエルはバビロンの陥落以前にも,それ以後にも行政上の高い地位に就いていました。ダニエルは、バビロンが倒壊したその日の晩に、バビロンの倒壊を予告して、バビロンの第三の支配者となることを布告されました。また、ダニエルは、バビロンの陥落以後も、ペルシャのダリウスが王国の上に立てた三人の高臣のひとりであって、キュロスの王国でも栄えたことが記されています。(ダニエル 5:29; 6:1‐3,28)
古今の支配者たちは、側近の者たちから、自国の支配について助けになる報告を受けました。(ダニエル6:2)ですから、側近であったダニエルの言葉に、キュロスは敬意をもって耳を傾けていたことでしょう。ですから、キュロスの名さえ記されているイザヤの預言を含め、エホバの預言者が語った預言について、キュロスは、ダニエルから知らされていたのでしょう。
」
https://plaza.rakuten.co.jp/littleyohane/diary/201202060000/
こういうのからすると聖書学者さんがさぁ、”前六世紀の異民族の王キュロスが前八世紀に書き残されたユダヤ民族の文書を読んだのかということです。想像だにできない事態だからです。」”と書くなんて、どんなん神経なのかってね、それこそ、マソラ文書はどこへ行ったってね??
>学者→「キュロスの名前が出ているということは、この部分は200年後に書かれたんだろう」
”
>学者さんと普通の人との違い。
多勢でも 無勢を立てる 榎茸 なんて川柳ありました。
まぁ、やはりですね。
聖書の成立過程の途中で様々なイザヤ文書の中にオッ!これはキュロスのことに違いない。
分かりやすいようにキュロスの名を入れて編集し直そう。
とした人々が第二イザヤなんでしょうね。
むろん、第一イザヤと言われる部分もそういった改変、編集を受けているんでしょうね。
こちらも面白いです。
https://www.fairmormon.org/blog/2019/07/25/fairmormon-questions-why-does-nephi-quote-from-isaiah-in-the-book-of-mormon
ある詩(2ニーファイ12:16)は、異なるだけでなく、「海のすべての船に」というまったく新しいフレーズを追加しています。
この非キングジェームズの追加は、聖書のギリシャ語(セプトゥアギンタ)版に一致します。
ジョセフ・スミスの時代には英語に翻訳されていませんでした。
ーーー
もし、第二イザヤの引用がモルモン書創作説のダンクシュート的証拠であるなら、逆説的にはモルモン書真実説の証拠にもなり得るでしょう。
その時のパウロのとっていた道は、召しと選びを確かなものにしていこうと、そして望むらくは、いっそう確かな予言の言葉を受けようとするものだったんでしょうかね・・『聖句ガイド 召しと選び p257』
ペテロは一層確かな予言の言葉を受けたみたいなこと言ってますかぁぁ・・(2ペテロ1:19)
教会でモルモン書創作説信奉の方々がリーダーシップをとろうとするには、HP・ブログで周知させるみたいにして、護教側の英語のを他からみて公平に論破してみせるとかさ・・そういうのやらないんですかね??
https://www.jefflindsay.com/LDSFAQ/bomproblems.html#deutero
紹介の
authorship of book of isaiah ...というpdfも
どうですかねぇ??
「信仰と研究は対立するものではありません。真摯な探求の先にこそ真の信仰が見出されるものと確信します」私もそのとうりだと思います。また、末日聖徒イエス・キリスト教会の日本における聖文学習の状況も同じ思いがあります。しかし、わたしの疑問は前文にあるように、文章説から始まる、ヴェルハウゼン学派に連なる研究、その後の自由主義神学に対してです。宗教改革からの聖書に関しての真摯な取り組みがその始まりでしたが、残念ながら結果的に第一次世界大戦について自由主義神学者たちの多くが皇帝ウイルヘルム二世の戦争政策を支持し、また、1933年にはヒトラーの権力掌握に対してドイツ・キリスト者による福音主義教会はナチの指導者原理の導入と全体主義的国家による教会の道具化を許しました。
これに対して、カール・バルトは反対し、「バルメン神学宣言」を発表します。彼によって20世紀の神学は根本的に変革します。日本のキリスト教神学の傾向はこの自由主義神学からの影響が強かったように考えます。いかがでしょうか?現在はまた大きく違ってきていると思います。
>普通の人にとって「キリストのうちに自分を見出すようになるために」(ピリピ3:9)にどのような影響・助けになったのでしょうか?
こうした問いかけは、聖書研究が信仰を破壊するものであるとの潜在的な思いによるものでは?
私はモルモン書がジョセフ・スミスによる創作だと理解しているものですが、旧約聖書、新約聖書と日曜学校で教師をしてきました(来年のモルモン書はどうやってレッスン展開しようかと考えていた所ですが、ワード内人事のいざこざのあおりで最近解任されたのですが)。
探求を深めたがゆえに失ったものは初めから信仰ではなかった、と断言できます。
知識は少ないが純真な人に対して思い込みや仄めかしを利用して神の存在を錯覚させ、その人を精神的にコントロールして時間や財産や人生を搾取する存在、いわゆるインチキ宗教や宗教ビジネスに対抗するために、聖書研究は絶対に必要なのです。
また教会内で根拠のない無責任な言説が流布することを抑え、宗教的権威をかさにきた強要行為へ対抗し、理性的な運営を促すことに繋がります。
信仰と研究は対立するものではありません。真摯な探求の先にこそ真の信仰が見出されるものと確信します。
ま、とりあえずは「読む」ことです。
https://seishoforum.net/kumamoto/2015/09/1/
イザヤ書 しもべの訓練
https://seishoforum.net/kumamoto/2015/12/22/
イザヤ書 しもべの受難
イザヤ書をイザヤ一人で書いたか、預言は二人以上だったのか、また編纂に複数の人が携わったのか、様々な意見、学説があります。
プロテスタント教会でもイザヤ書に関して右派的、左派的を支持しているまた教えている牧師さんがいることは確かなことですね。
ユダヤ教からの視点を見る。
預言者とはどのようなものか理解する。
当時の編纂の仕方はどのような方法だったのか。イザヤ方式があったのか。
旧約聖書は、イエスが来る前は「律法と預言者」と呼ばれていました。
イエスもマタイ7:12で話されています。
イザヤ55:8-9を末日聖徒の中央幹部は聖文を引用しますね。
もしも、神ご自身がイザヤ書のこのような分け方(編纂)を命じたとならば、私は理解できることもありますね。
鍵を握っているのは、イザヤの妻ではないのかな?
まさしく。
https://www.youtube.com/watch?v=s1jMBmjVx2w
https://www.youtube.com/watch?v=x-X6JAZa-Sw
聖典から読み取るべきは平和な世界の確立方法かなと思います。
多くの信仰者は原理主義的にスタートして徐々に柔軟な信仰に向かっていくのではないでしょうか。
私くし自身も過去の自分に嫌悪することがあります。
人のふり見て我がふり直せの教訓を頂いています。
1753年のジャン・アストリュクの頃からの旧約の最初の5書に対する文章説(PEJDによる区分)、ヴェルハウゼン学派から発展してきた一連の聖書研究(イザヤ書を含む)は普通の人にとって「キリストのうちに自分を見出すようになるために」(ピリピ3:9)にどのような影響・助けになったのでしょうか?
パウロ自身も彼の備えられた博識について、「わたしにとって益であったこれらのもの(参ピリピ3:5−12、使徒22:3など)をキリストのゆえに損と思うようになった。わたしの主イエス・キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、一切のものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしは全てを失ったが、それらのものを、糞土のように思っている。」と語っています。私のような普通の人はもちろん、キリスト教神学者の方も、研究成果と個人の信仰にはバランスを取るように心がけておられように聞いております。
モルモン護教者は「第2イザヤ説は間違い説」を吹聴している
↓
しかし当の一般的なモルモン教会員は「第2イザヤ説」どころかイザヤ書すら読んでいない
↓
たまに興味本位のモルモン教会員がちゃちゃっとお気楽検索すると、モルモン護教サイトの「第2イザヤ説は間違い説」を見つける
↓
第2イザヤってウソらしいとの刷り込み完了
↓
「第2イザヤってウソなんですってね(何のことかは知らんけど・・・)」とドヤ顔で拡散する
↓
モルモン書への疑問発生を回避成功!ウマー
しかし冷静に考えるとモルモン教会員ってモルモン書すら読んでないからなぁ・・・疑問回避の予防線を張る前にすることあるんじゃない?って気はしますね。
信仰者 vs 学者、みたいな間違った二分化をしたら駄目ですよ。
聖書学者のほとんどはキリスト教信仰者です。
私が正しい比較表を提示いたしますね。
モルモン教会員
・モルモン教会以外に行ったことない
・聖書を通して読んでいない
・聖書の成り立ちを知らない
・聖書の書の順序すら知らない
・第2イザヤ問題の意味も分からない
(でもなんかモルモン攻撃に使われてる気がする?)
⇒第2イザヤ説はウソだから信じない
聖書学者
・聖書を通読している
・聖書を原典で読んでいる
・聖書の写本レベルで評価できる
・多くは地元の教会で牧会もする信仰者
・教派を超え世界中の聖書学者と連携して探求する
・中庸で根拠の明確な学説が主流になる
⇒イザヤ書は複数によって書かれたものと理解できる
『空白のユダヤ史』の著者秦剛平氏、’キュロス王はイザヤ書を読んだ?’の項目で(第1章 p17)、まぁヨセフスの言説に対し、「・・・わたしたちを襲う疑問は、前六世紀の異民族の王キュロスが前八世紀に書き残されたユダヤ民族の文書を読んだのかということです。想像だにできない事態だからです。」とあるっすな。
否定すると初めから決めてそうな学者さんの腹から出た偽らざる言葉なんでしょうか、兎にも角にも神学者ベルンハルト・ドゥーム第2イザヤ説信奉に反するようなのは神学者の沽券に関わるみたいな感じなのでしょうか・・聖書学者ネットワーク世界の強固な意志、団結を感じさせるような・・・
”信仰者→「200年も前にキュロスの名前が出てくるなんて、聖書はすごいなあ!」
学者→「キュロスの名前が出ているということは、この部分は200年後に書かれたんだろう」
”
学者さんと普通の人との違い。
しかも片方はただの検索リストじゃん
もっとマシなもんは無いんかい?いい加減あきるで
http://www.bible-jp.com/his/f6-9.html
マソラ本文
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%9E%E3%82%BD%E3%83%A9%E6%9C%AC%E6%96%87
まぁ、いろ~~~~んな主張があっていいじゃないですかぁぁ・・・
はい、そのとおりです。
と・こ・ろ・が、モルモン教会員には何のことやらちんぷんかんぷんなんですね。だって聖書の成立過程を全く知らないんですからね。マソラ本文とか七十人訳とかヘブル語聖書の歴史的役割や意味を説明できるモルモン教会員は皆無です。インスティチュート教師でも知らんでしょう。
昨年、私の日曜学校のクラスでレッスンの半分くらいの時間を割いて旧約聖書の成り立ちを説明したことがあるのです(NJさんもこれくらいのことはやってくださいね)。ある若い教会員は「あ~あ、なるほど、そういうことか!」と感嘆してくれたのには嬉しかったですけど、多くの人は何のことか良く分からんって表情もしてました。
大抵のモルモン会員の聖書に関する理解は「古代の預言者が受けた神聖な啓示の記録である」。で、終わり。聖書学?何それ?信仰に関係ないでしょ?そんなの愚かな人間の学問です、無視、無視って感じですね。
これって、ねぇ・・・、まるで電気の仕組みを知らずに配線工事をしているようなもんですわ。それで電灯が点くわきゃないですよ。
FairMormonの護教サイトにしたって、その記事を読んだところでモルモン会員には意味不明でしょう。きっとこう考えるんじゃないかな。第2イザヤってなんだ?、なんか分からんけど護教サイトで反論してくれてるから、穴の開いた理論なんでしょ、うるさく言ってくるヤツがいたらとりあえずコピペしてURL貼っ付けとけ、みたいな。
特にたまWEBさんね、この方は自分の言葉できちんと説明しない。そりゃ理解してないからコピペ、URL、コピペ、URLの繰り返ししかできないのだろうと思います。
誠に、申し訳ありません。
NJ様、出来れば削除してください。
何をどう信じるかって難しいと思う秋の夜長。
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/図書館からハリー・ポッターが追放される%ef%bc%9f-ネット上で驚きや戸惑いの声/ar-AAHyWzz?ocid=spartandhp#page=2
そらないわね。
死海文書が現在の聖典とほぼ同じという事実は1ニーファイ13:23~がウソだったってことです。モルモン護教者は死海文書を取り上げることで墓穴掘ってんの。
まぁ聖書もモルモン書も通して読まないで、ちゃちゃっとネット検索して知ったかぶりのモルモン教会員には何が問題かすら気がつかないと思うけどねw
https://ogatism.jp/post/weekly20190922
かなり、たまWEBには効いてる感じだにゃ・・突き動かされてるような・・・で、しかも今日は、あれだ、月がさぁ、たまWEBの双子座に来てるんじゃぁぁんん・・・
こりゃぁ、反応しますわな・・・
たまWEB自身、実際予言の賜がどう働くのか、経験したことないので、あれですが・・・長期的にみて、学問を求めるといっても、ヨーロッパで信仰が高まってこなかったわけで、キリスト教凋落・・・そういうなかでもモルモンに反応して改宗してきた比較的少数の人々はいるわけでね・・・
教会員ではカンファレンスセンター崩落予知夢見たとかいう人もいたりで・・・
https://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E5%B4%A9%E8%90%BD
この末日、何がどうなっていくのか?!、信仰の拠りどころがしっかりあれでないとなぁぁ・・・リーハイはレーマン・レミュエルが木の実を食べなかったって夢で心配してたり・・・なにかしらこの第2イザヤ論はなんか曲者だなぁぁって感じだにゃ・・・
だいたい小賢しい人間の学問で打ち砕かれるなら、それは全能の神に対する信仰じゃないでしょうに。フェア・モルモンとか見ていると研究者たちを小馬鹿にするような態度を感じますけど、馬鹿はあんたらだよ、何びびってんの?て言いたくなるわけです。
ま、結論はモルモン書はジョセフ・スミスによる創作ってことです。
あと、聖餐の祈りは死海文書にありませんよ。死海文書を護教には使えないってことです。
心配だなぁぁ・・・
パンパカパーン、パ、パン・・・
モロナイ書にある聖餐の祈りっすね・・・
モロナイによって回復の手伝いがなされたと・・・
バプテスマの様式とかも・・・
イザヤ書は全部イザヤが書いた予言だよーんって能天気に信じている人ほど、全然イザヤ書を読んでない!ってことです。
ちゃんとした自分の考えもなく、言ったことに対する責任もとらない、自信の無さと無責任さが滲み出ていますよ
死海文書が現存の聖書とほぼ変わらないって主張すればするほど、モルモン書に書かれている「抜き取られた貴重な真理」など存在しないって話です。これ前も言いましたけど。あなたは都合が悪くなるんで無視してますよねw
そこら辺がモルモン護教の限界なんです
でも「イエスが西暦29年に受洗してはとみたいな聖霊が下った」「イエスが銀貨30枚で裏切られた」などの福音書伝承も、それが実際にあったことを証明する歴史資料は存在しません。
聖書の予言が聖書の中で成就(内部で自己完結)しているという、裏付けできない伝承です。
もちろん、それが聖書の価値を下げることにはなりません。
反証もできませんが、「聖書に書いてあるから」事前予言だ、という根拠のない怪しげな演繹的主張の方が、ここ日本では人を聖書やキリスト教から遠ざけているようです。」
http://bbreader1999.blog.fc2.com/blog-entry-439.html
第2イザヤ信奉組の行き着く先はどうなってくるのか、心配させるんじゃん??!!
後でその辺りを調べてみたところ、どうも学者の立場からすると、「キュロスの名前が出てるので、この部分はこの時期に書かれたのだろう」と解釈しているようだ。なるほど、書き換えじゃなくて、そもそもその当時に書いていたと考えるのか。なんでも、文体などを研究すると、イザヤ書は時期的に3つに分かれるらしく、前半部分はイザヤさん本人が書いたもの、今回の該当部分はイザヤさんの弟子(的なポジション)の人が(おそらくキュロス大王が活躍する前後に)書いたもの、と考えられているらしい。つまり、
信仰者→「200年も前にキュロスの名前が出てくるなんて、聖書はすごいなあ!」
学者→「キュロスの名前が出ているということは、この部分は200年後に書かれたんだろう」
ということ。どっちがいいとか正しいとか言わないけど、アプローチの方法が・・・」
http://curry-blog.cagami.net/?eid=967852
1800年代でリベラル学者の多くは、自然現象しか認めないとして、ダニエルはこれらの出来事の後に書かれたと主張します。しかし、それも主張するだけであり、決定的な証拠はありませんでした。
しかし1947年に死海文書が見つかります。イエスが来る前の紀元前408~318年ぐらいに書かれたとされています。その中に聖書のギリシャ語訳のLXXが残っています。イザヤやダニエル書が今のままの文字で少なくとも紀元前300年に存在していた証拠は保あります。
残念ながら、不可知論者、その他のリベラル学者などは1800年代の理論をもって、1947年に決定的証拠があるにもかかわらず、このような明らかな間違いについての本や映画を出し続いているだけです。聖書を
」https://chrismichaelmoore.com/dreams-of-daniel
たまWEBへの評価はどっちかといえばkizuka氏のほうが当たってるわけだぎゃ・・・それは兎も角ぅぅ、
まぁ、あれですか、ちゃちゃっとの応急処置じゃなくて長期・中期の時間かけてしっかり研究しろよと、天の采配があったんだかなぁ・・18日にちょうど土星が順行になって、太陽山羊座だから支配星土星なわけ、わかるぅ? ちゃんと怠けてないでよく情報いれて~~と、・・・なにしろモルモン書創作のほうに拍車がかかったんでは元も子もという感じではあるな、皆さんの信仰の度合いにも関係したり?・・・ということで、これ時間かけてですねぇ頭でこなしてですねぇ・・・ほな、ご機嫌よろしゅう・・・
あ、その独立のあれで、コンピュータ言語解析専門だと著者一人説となるらしいよな、複数ではないと、イザヤ書全体で・・・決定的なあれは・・・まぁ学者さんたちに受け入れられ広まってしまって・・・まぁ、今んところはねぇ、各自自分に一番フィットするものを選んでるというこっちゃな・・・
>この護教サイトfairmormon でいとも簡単にこの広く受け入れられてる第2イザヤ説の誤りを指摘し論駁してる感じなんですが、是非読んでもらって
あなたがそう言うんで何度も読みましたよ。でもこれは第2イザヤ説に論駁できていないでしょ? まず護教に死海文書を使う欺瞞性はkizukaさんが述べたとおりです。 あとは非LDSって言葉をしつこいほど入れての文献引用と、アブラハム・ギレアデ氏の解説。
で、結局この記事は、第2イザヤは文体の解析による学説だから、イザヤ書の後半部分がバビロン捕囚後の時代に書かれたとは言えない、内容がバビロン捕囚後になってるのは捕囚後に書かれたずっと以前に書かれた予言だからという言い訳を編み出して「高等批評家たちは間違いを犯した」ってドヤ顔で言ってるんですね。
それで笑っちゃうんですけど元々第2イザヤ、第3イザヤ説は旧約聖書の解析から導きだされたもので研究者たちには別にモルモン書なんてどーでも良く初めから眼中になかったものなのに、何をモルモン教会は必死こいて否定してんだろうって。それは第2イザヤ説か、全部予言だった説か、どちらに信憑性があるかモルモン学者連中のほうが良く分かっていたからでしょうね。
それで泡食ったモルモン教会がいったん破門したアブラハム・ギレアデ氏の書物を護教に利用できると気付いたとたんに「彼の研究は過去100年間のイザヤ学者のほとんどすべての憶測を時代遅れにします」と大絶賛ですわ。この手の平の返し方!捨てた昔の恋人を都合よく利用するような卑劣さですねぇ。笑っちゃいませんか?よく良心が痛まないなぁと感心します、まぁモルモンだから仕方ないか。
ということでこの記事は第2イザヤ説の誤りの指摘も論駁もできていません。見苦しい言い訳をつらつら書いているだけです。所詮モルモンはこのレベルかって再認識しました。
さて、たまWEBさん、もうお手軽検索はやめて、ちゃんと聖書を通して読んでくださいね。
こんな子供だましの屁理屈マジで信じてるの?
まさか・・・ね
わははは!
モルモン護教の断末魔が聞こえるようです。
「第2イザヤは認めるしかないのか、ぐぬぬ・・・
しかし何とか一矢報いたい、せや、イザヤ書の元のテキストはずっと前にあったことにしたろ」
ってことなんでしょうね。
BYU学者陣のアホさ加減がようく分かります。
はい。ですねぇ。
>この護教サイトfairmormon でいとも簡単にこの広く受け入れられてる第2イザヤ説の誤りを指摘し
こちらの方も分かりやすい。
https://www.fairmormon.org/answers/Book_of_Mormon/Anachronisms/Biblical/Deutero-Isaiah#Question:_How_do_we_explain_multiple_.22Isaiahs.22_and_the_Book_of_Mormon.3F
モルモン書への挑戦は、ニーファイが第二のイザヤ書からいくつかの章を引用していることです。・・
多くの末日聖徒の学者や学生は、イザヤ書の一部が複数の著者によって異なる時期に書かれたと示唆する主流の聖書学者に同意するようになりました。・・
この研究の目的のために尋ねるべき重要な質問は、「イザヤのテキストを書いたのは誰」ではなく、「イザヤのテキストはいつ、どのように書かれたのか」です。・・
LDSの学者であるシドニー・B・スペリーは、「イザヤ40-66は流刑の時代に生じたが、イザヤの古代の予言のかなりの部分に相当するものであった」当時の出来事が預言の成就をもたらしていたからです。
言い換えれば、現在のイザヤ40-55(または40-66)は、最初のイザヤの原始的な書物に由来する可能性がありますが、それは第2イザヤによって書き直され、再解釈されました。
ーーー
たまWEBさんがすべきことはネットでちゃちゃっとお手軽検索することをやめて、ちゃんと聖書を通して読んで自分なりの理解を持つことでは?
ま、お好きなように・・・
現存する最古の写本である死海文書と、現代の聖書の内容がほとんど変わらないんでしょ?だったら聖書が異邦人広まってから抜き取られた貴重な真理って何よ、そんなモンははじめから存在しないってことですね。
モルモン護教ってこんな風に一つ回答するために無理筋を通せば他方で破綻するデタラメの集大成なんですかねぇ・・・アホすぎて情けなくなります。BYU学者の程度の低さが良く分かります。
結論:モルモン書はジョセフ・スミスの創作で間違いなし!
https://www.fairmormon.org/archive/publications/deutero-isaiah-in-the-book-of-mormon
やっぱりそれは違うよと批評し、第2イザヤが正しいと論じれるかどうか、見ものですぅぅぅ・・・少なくともAvraham Gileadi 氏を超えられるかな・・・
おおっ!「モルモンとミドラシュ」の記事は今もなお成長しているということですか。
第三の視点、現代の偽典に続く書籍の下書きと予想します。
三部作?
この問題について、このNJWindowのブログで昨年11月に取り上げています。2018/11/07 「第二イザヤを受け入れ始めた末日聖徒」。ヒュー・ニブレー(間接的に)、グレゴリー・プリンス、デビッド・ボコボイらです。時間があれば読んでください。
モルモン書におけるミドラシュ的引用と考えれば、否定的に見ることもないのでは、と私は考えます。
>少し古いですが「ISAIAH and the Prophets」(1984 by Religious Studies Center Brigham Young University )を紹介します。
BYUのサイトで無料公開されていますね。
↓
https://rsc.byu.edu/out-print/isaiah-and-prophets-inspired-voices-old-testament
情報ありがとうございます。
針の穴から見た風景だけで満足する人には世界の広さの探求は不要ですね。むしろ苦痛だと思いますからお勧めしません。
思えばそういう人ばかりが残っているのが今のモルモン教会なのかなと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E8%A6%9A%E9%86%92
聖書復帰運動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%9B%B8%E5%BE%A9%E5%B8%B0%E9%81%8B%E5%8B%95
restoration movement 回復運動という訳語と思ったら、復帰運動だにゃ。
とにかく神と御子イエスが少年に現れ、天使が送られ、新たな聖典が加えられ、残りの教会員には聖霊の証しみたいな、そのような、キリスト教世界で突然変異の奇跡が起こったわけで、キリスト教世界からはまやかしと見られてるわけでしょうし・・・モルモン書創作説の立場のLDS教会員は一般キリスト教徒とあまり変わらないんでしょうかね・・・
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=avraham%20gileadi%20isaiah
だからねぇ・・・イザヤ書をちゃんと通して読んだ上で反論しているんですか?
>それぞれ名前で検索しますと日本語ウィキに飛べそう・・
>フリーメイソンの影響下かもな・・・理性至上主義?
ネットでちゃちゃっと検索した中からご自分のお好きな陰謀論に合致した内容だけを信じ込んでいることが良く分かるご発言です。
>モルモンの日曜学校先生ならば、やはり祈りや個人的啓示みたいな準備や経験はあるんだと思います・・・やっぱ、そのような答えを受けたと・・・
祈りや個人的啓示の話ではありません。
イザヤ書が複数人によって書かれたのは合理的に説明が成り立つと言う話です。
あなただけでなく他のモルモン会員とも話していていつも感じることですが、モルモン教会員って聖書や教義に関してデタラメであってもなんでも「私たちはそう信じています」っていえば認められると思ってるようです。
聖書を読まず、インスティチュートの教材など教会発行の解説書を搔い摘んでその概念をぼんやり憶えているだけ。聖書本文は知らない、って人ばかりです。多分ですが、その方がお気楽にキリスト教を理解している気分になれるからでしょうね。そんなモルモン会員だからこそ、他の教会の不祥事を見つけたら嘲笑ったり、あてこすりを言ったりするのでしょう。そのくせキリスト教は愛を説いているのにモルモンを排斥するのはけしからん、などと心得違いな怒りを抱く会員もいる始末。
聖書を読まなくても、生ける預言者の言葉を総大会ビデオで居眠りしながら聞いていたからみたまを感じられるなんて言うならそれはもうキリスト教じゃない。
そして、それから、その至った結論について、神に祈ったところ正しいというような祈りの答え・個人的啓示を受けたということなんでしょうかね・・・
小学生脳的たまWEBとしては、モルモンの日曜学校先生ならば、やはり祈りや個人的啓示みたいな準備や経験はあるんだと思います・・・やっぱ、そのような答えを受けたと・・・
予言は将来のことで、末日をも見通し含んでるでしょうし・・・ヨセフスの話についてはどう思いますかしら??
神学の四大・大々先生は・・・やっぱドイツですかねぇぇ・・・結社臭いな・・・
Julius Wellhausen (17 May 1844 – 7 January 1918)
Bernhard Duhm (1847-1928)
Ferdinand Christian Bauer (1792-1860)
David Friedrich Strauss (1808-1874)
それぞれ名前で検索しますと日本語ウィキに飛べそう・・
フリーメイソンの影響下かもな・・・理性至上主義?
まぁ、悪く言えば、反預言者、反啓示主義・・・現代のバアル司祭だったりしてな・・・?!
ネットでちょちょっと検索して気に入ったところだけ摘み上げて、会話のマウント取ろうとしてませんか?
私はずっと以前から第2イザヤ、第3イザヤの学説は知っていましたがどうしてそういう説が出てくるのかまでは分かりませんでした。昨年日曜学校教師としてイザヤ書をきちんと読み直し、内容の分析を紹介している資料などを踏まえた上で、別の作者と考えるのが妥当であるとの結論に至りました。
そもそも書の名前と作者が違うのはサムエル記だってそうでしょう。別におかしなことではありません。また列王記やサムエル記は上下に分かれているのにイザヤ書は分かれていないのは作者が同じだからだという人もいるようですが、それならバビロン捕囚の前から解放後まで何年あるか考えて欲しいですね。一人の人間でカバーできる期間ではないです。
きちんと聖書を読んだ上で聖書の内容から反論してくださいね。ユダヤ古代誌もちゃんと全巻揃えてくださいね。ネットで搔い摘んだ情報でドヤ顔しないでいただきたい。そういうことする人をもう一人知っておりますが・・・唾棄すべき行為だと思います。
きちんと研究している人たちを「学者脳」と揶揄するのはそれを超える成果を自分で積み上げてから言いなさい。陰謀論だの占星術だのイルミナティだのちゃんちゃらおかしいですわ、オカルト好きの小学生かと思います。
Duhm イザヤ
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=Duhm%20%20%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%A4
たまWEB的にはヨセフスの話のほうが力強くせまってくる感じだにゃぁぁ・・・学者さん仲間ではお互い持ち上げて第2イザヤっていうことなんだろうけど・・・
やっぱり学者脳であればお互いピンとくるものがあるんだろにゃ、にゃ・・・
これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。
イザヤによってとあるわけで、そのままとっていいんでは・・・学者さんの横車??
「のユダヤ人の歴史家フラビウス・ヨセフスは,キュロスに関するイザヤの預言について何と述べていますか。
15 最後に,1世紀のユダヤ人の歴史家フラビウス・ヨセフスの証言を考えてみましょう。ヨセフスによると,イザヤ書にあるキュロスに関する預言は西暦前8世紀に書かれただけでなく,キュロスもそれらの預言を知っていました。ヨセフスは,「キュロスは,[イザヤ]が210年前に残した預言の書を読んでこれらのことを知った」と書いています。ヨセフスによれば,キュロスはそうした預言を知っていたので,快くユダヤ人を故国に帰還させることまでしたのかもしれません。キュロスは「書かれたことをぜひ自分の力で実現させたいという思いにかられた」,とヨセフスは書いています。―「ユダヤ古代誌」(秦 剛平訳),第XI巻,i章,2節。
16 イザヤ書の後の部分でバビロンが優勢な強国として描かれているという批評家たちの主張について,どんなことが言えますか。・・・・
”
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1102001021
第二イザヤを受け入れ始めた末日聖徒 モルモン教関連 / 2018-11-07 21:30:56
」
https://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/b1038a93d334518c2e441b17c0e057ef
イザヤ書は一人の人物によって書かれたと認めるには内容が期間的に長すぎます。Unknownさんが言うように聖書学者の大勢の見解を受け入れるしかないでしょうね。
マタイ12:17で イザヤ42:1-4を引用
マタイ8:16-17 イザヤ53:4
ヨハネ12:37-41 イザヤ53:1、6:10
学者さんの考え過ぎ・勇み足??!!
1-39章までが第一イザヤでバビロン捕囚前、
40章-55章が第二イザヤでバビロン捕囚中、
56章以降が第三イザヤでバビロン捕囚からの解放後という内容です。
昨年、日曜学校教師として旧約聖書を教えたときにイザヤ書をよく読みましたが、たしかに内容からこの区分は適切です。そればかりかモルモン教会の日曜学校学習ガイドでもこの区分を意識して構成されていました。
そのため私のレッスン内では、イザヤ書が3つの時期に分けられること、その期間を一人の人物によるものと考えるには長すぎるので、イザヤ書は複数の人物によって書かれたと考えられていると生徒に伝えました。
LDS聖書研究会と名乗るからには少なくともこの程度のことは知った上で、どう理解しているのかを表明することは当然ではないかと思います。
しかしイザヤ書40章以降はバビロン捕囚後の内容であって、39章までとは異なる人物(いわゆる第2イザヤ)によるものというのが聖書学上のほぼ常識的な見解です。
ですからリーハイ一行がバビロン捕囚以前にエルサレムを脱出したのであればこの引用はできるはずがないのです。
以前の記事でNJさんは「現在も過去においても、BYUの宗教学を担当する教授陣は皆、他州の神学部で学位を得ている。聖書学やキリスト教神学を修めないで、教壇に立つことはできない。」と記されましたが、こうした不整合に対してBYUの宗教学の教授はどう理解しているのでしょうか?
またLDS聖書研究同好会ではどう理解しているのでしょうか?
私はモルモン書がジョセフ・スミスによる創作と言う事実を受け入れるしかないと思います。そうではなくひたすら聖書に対するおかしな解釈を振り回して、モルモン書が正しいと思い込める屁理屈を作り上げ、それが研究結果だというのであれば実はその同好会は聖書を研究などしていないのではないかと思うのです。