[進んで不信を一時停止させることで聡明な現代人も物語を読み続ける]
- - 現代のミドラシュとして、また物語分析の視点から - -
結局、モルモン書は著者の問題、内容の史実性に拘泥するより、歴史的叙述(説話)に聖書・キリスト教についてのミドラシュ(注解、解釈)が織り込まれた宗教書として読むのがよいのではないかというのが、ハーディなど米末日聖徒の研究者や識者間の見方である。
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ミドラシュ*は注釈または解釈を意味するヘブライ語であるが、特にヘブライ語聖書になされた注釈のことを言う。時代を経て、環境が変わったりして、元の意味が不明になった時に聖書の語句に対してミドラシュが、時に物語を伴って教訓を与えるためにも行なわれた。それは、新しい時代に即して聖典の教えを適用できるようにするためであった。
モルモン書では、第二ニーファイ26, 27章がイザヤ書29章のミドラシュであると見られる(G.ハーディ)。モーサヤ書でベニヤミン王が同胞のために務めるのは神のために務めるのであると説いていること(2:17)もそうである。また同王が「幼い時に死ぬ乳飲み子は滅びることがない」(3:18) と述べ、ずっと後にモルモンが幼い子供にバプテスマは必要でない、と詳しく語っている(モロナイ8:5-)のも同じ種類の注釈であって、19世紀アメリカで生じていた論争に答えている。アルマがメルキゼデクについて説明を加えているのは、創世記の短い記述を補っており (アルマ13:14, 15, 17-19)、また、モロナイが愛について父モルモンの言葉を比較的長く引用している(モロナイ7章)のもミドラシュの例と考えられる。
以上、主としてモルモン書に登場する指導者が聖書の解釈(ミドラシュ)を行なっている例を幾つか見た。そして広く全体像を眺めれば、モルモン書自体が聖書やキリスト教について、19世紀の読者に解釈(ミドラシュ)を行なって提示していると見ることができるのではないだろうか。
モルモン書をそのように見る時、史実性の問題や見出される矛盾は気にする必要がなくなり、書物全体が持つメッセージに注目するようになる(例、Jana Riess: The Mormon Midrash)。
ヘブライ語聖書を教えるD.Hopkins 教授は次のように述べる(2018 Sunstone でG. Prince が言及)。
Denise Hopkins, a professor of Hebrew Bible at Wesley theological seminary, read the book of Mormon and said it is a book length midrash on the King James Bible. Midrash is the longstanding Jewish tradition of scholars reading the Hebrew Bible and under inspiration writing commentaries on it.
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もう一つの読み方は、物語分析を適用しながら読む方法である。近年、教会内で1980年頃からモルモン書を文学として見る視点でとらえ、物語分析を行なって読む試み・提案が見られるようになった。ランバート編「信仰が生んだ文学」1981年が3篇モルモン書に見える類型論を扱っているのから始まり、1997年R.D.ラスト「御言葉を味わう:モルモン書を文学面から見た証言」、1999年、M.D.トマス「クモラを発掘:モルモン書の物語分析」(これは批判的分析を含む)、そして最近のものでは、2010年、G. ハーディ「モルモン書理解のガイド」が続く。
保守的研究者から信頼されているハーディは次のように述べる。モルモン書を「歴史のような叙述文」(history-like narrative) と呼び**、読むに際してはその構造と内容をよく把握するため、書物自体が持つ視点にそって読み進める必要があると言う。信じない人が読む場合、内容を理解するために不信の目を一時停止させる(あるいは棚上げにする)ことが求められるのに通じることである。末日聖徒の場合、一時「信仰」を停止させて(あるいは封印して)モルモン書を文学作品と考えて読むと得るところが多いのではないかと提案する。
結局、モルモン書は著者の問題、内容の史実性に拘泥するより、歴史的叙述(説話)に聖書・キリスト教についてのミドラシュ(注解、解釈)が織り込まれた宗教書として読むのがよいのではないかというのが、ハーディなど米末日聖徒の研究者や識者間の見方である。
[補足 Laurie F. Maffly-Kip]
モルモン書をどう受けとめるかについて二つのことを提案している。ひとつはモルモン書と聖書の密接な「テキスト間相互関性」(あるいは「間テキスト性」Intertextuality)に注目して読み、ある書物が「聖典」と見なされるに至る優れた例をモルモン書に見出すことである。
もう一つは、この書をジョセフ・スミスの創造の産物と見なす人であっても、「新しい社会に新しい意味づけをし、また神聖な意味と神の霊感を付与し、その世界に自分はもちろん家族、友人を招き入れることによって、世界再生を試みようとした非凡な創作である」、と見る考え方である。(ペンギン版モルモン書序文より。Kip女史は北カロライナ大学でモルモニズムを講じてきた宗教学教授。)
[補足 2]
「様々に議論されるとは言え、モルモン書の最終的な存在意義は聖書の説きあかしの書に相当することにある」(教会員 R, 2016.02.12, 18:02:10 コメント欄より)
「モルモン書の大半は『約束の地アメリカ大陸』を説明するために記述された聖書の創世記に相当する聖典ではないか」(教会員R、2016.02.21, 6:43 コメント欄より)
註
*ミドラシュの元となる語は「学ぶ」「探し求める」「調べる」である。a root meaning "to study," "to seek out" or "to investigate."
**教会はモルモン書を史実に基づくものとしているが、歴史書というより宗教書であることを認めている。そして、モルモン書の叙述(説話)を裏付けるニーファイ人の文明が残した記録または古器物は見つかっていない。
参考文献
・Grant Hardy, "Understanding the Book of Mormon : A Reader's Guide" Oxford University Press, 2010
・Robert A. Rees, "The Midrashic Imagination and the Book of Mormon" Dialogue 44:3 Fall 2011
・Edgar C. Snow, Jr.,“Narrative Criticism and the Book of Mormon,”Journal of Book of Mormon Studies 4/2 (1995), Neal A. Maxwell Institute, BYU. BofM解釈に好ましい手法とあり、FairMormon が参照している。
・Earl M. Wunderli, "An Imperfect Book: What the Book of Mormon Tells Us about Itself" Signature Books, 2013
当ブログの参考記事
2007.04.16 モルモン書の史実性について
2007.11.04 文学としてのモルモン書
2012.01.04 モルモン書をどう読むか。2012年読書課程を読み進めるに当たって
だけどそれを言っちゃあおしまいだよって感じもしますけどね。
何か解放されて、改めて自由な気持ちでBofMを読み進めることができる思いでいます。
高い料金を払ったが、黒毛和牛だからそれぐらいはするだろう。納得して店を出た。
それ以来、何度もその店に行って、いつも最高級の黒毛和牛のステーキを食べた。
何年か経って、ニュースで、その店が昔からずっと食材を偽って、安い輸入ものの肉を使っていたことが報じられていた。
ニュースを見て、その人はこう考えた。
「料理は味だ、どんな肉を使っていたかは問題じゃない」
「和牛」とは品種名であり、外国で飼養していても「和牛」表示することができる。
外国産というだけの理由で差別心を起こしてしまい、どんなに安全でもおいしくても口をつぐんで食べない人がいるとしたら、一種の馬鹿の壁のおかげで彼は非常に損をしてはいないだろうか。
という問題です。
「みんな、黒毛和牛だと思って食べてたのですから、それで良いじゃないですか」
何か解放されて、改めて自由な気持ちでBofMを読み進めることができる思いでいます。”
うぅんん、大方のモルモン改宗者とは異なって、毛並みよろしく、初めに学問ありき、初めにクリスチャン素養ありき(ご両親さまがクリスチャンであった)みたいなのが、NJ先生の出発点であったと、まぁ、なんといいますか、血筋は争えずと申しますか・・・
このブログから、多くの読者からのモルモン理解への橋渡しに通じるものかと・・・そういうことなんでしょうかね・・・
キリスト教は特に信仰の初歩は原理主義的信仰から入るように思います。
年齢が進むと徐々にリベラルにはなるのでしょうね。
しかし、モルモン書は私小説的と急激に舵を切ってしまうと信仰崩壊に通じるような気がします。
多くの世界宗教自体もそのように進んでいるように思います。
逆に言えば初手からリベラルな宗教は発展しないとも言えますか。
自分はモルモン書の史実的な内容から教会に疑問を抱き始め
躓いて最終的に教会から離れた人間です。
信仰で乗り越えようとしてもどうしても
神話的な世界をそのまま受容できることができず
徐々にフェードアウトしていきました。
まだ若かったので社交術を発揮して割り切っていければ
よかったのですが現実はそうはいかずで葛藤はありましたが
自分は縁がなかったのかなと理解しています。
モルモンはモルモンで魅力はありますし良い思い出も
たくさんありますのでこれからも見守っていきたいと思います。
神様は信じていますので。