onumaさんから拙著「モルモン教をどうみるか。第三の視点をさぐる」に書評が届けられた。
「この類の書物を教会メンバーとしての意義を感じつつ、しかもその立ち位置を越えて第三の視点を探り、書物にあらわすことは勇気のいる決断だったと推察いたします。また改めて敬服いたしております。
末日聖徒イエス・キリスト教会の現在の位置(GPS的な)を知るには最低2軸が必要ですが、今回はその軸を提供してもらえたと思います。自らの持つ歴史的なX軸と、世界に存在し観察された、外部からのY軸が良く見えたのではないでしょうか?我々日本人会員にはX軸すらごく限られた情報でしかありませんので、X軸だけでも極めて貴重な展開と言えると思います。また、X軸すらおぼつかないのであえてY軸に触れることを避けてもいます。
仮にZ軸を掲げるならば、その宗教観から何が(価値)が生み出されているのか?が今後の課題かも知れません。
私は、生化学や生命科学が分野ですので、どうしても時間軸の流れから生み出されてくる「生命の価値」に目が向いています。ジョセフ・スミスの貢献は何か?それはアメリカ大陸という土壌を自らの確信と情熱で、新たな、大胆な宗教的「耕作:CULTIVATE」をスタートさせたことだと思います。我々が振り返れば、彼には無駄も無理もあったはずです。問題は、X軸として護教的に「彼の評価ばかり」を強調しすぎることの愚かさに気づくべきで、即ちジョセフ・スミスの愚かさに驚くべきではないはずです。大酒のみのどうしようもない親父が、立派な子供を実は育てている例はあふれています。親父の苦労と限界を理解しそれを乗り越えるのが実の子供の真骨頂であり真の価値でしょうから。このメカニズムが実は宗教的な真理とかになっていくのではと思っています。旧約聖書に見られる赤裸々な記述は実に感動的です。表面的に見えることがら・物事の分析に意味があるのではなく、それを受け止めて内面において変化を受ける自身の驚きとか感動とかにより意義を持たせるべきではと考えます。ここには論理性を超えた神秘主義、啓示主義(REVELATION)もチラホラしているので、そこをどう理解するべきか?大衆の前で、第三者が黒板(ホワイトボード?)で説明を受けて理解できるはずのない事象もあるのが実は宗教の本質か?とも思っています。
ジョセフ・スミスがもたらし、継承されているDNAが何か?そこから芽吹き人々を蘇らせる(現在の時間の中で)ことができるエッセンスは何か?このような議論に発展していくことを私は楽しみにしています。
もしも、宗教に「何が正しいか?」という講座が成立するならば、「その実のどこに価値ありか?」の議論に帰結するのだと思います。時間軸を遡ってまるで考古学的な手法は二義的な問題では?と思いますし、無宗教者も実はそれに気づいているはずです。そういう意味ではなかなか宗教に足を踏み入れない日本人は感覚的に優れた種族と思っています。
逆に言えば、「その樹に沢山の美味しい果実が実る」ならば、歴史的な汚点につまずいて止まるのではなく、そのエネルギーを、正に今、生きている苗木である我々自身のために、目の前の荒くれ土の耕作と水やりに使うべきでは?というのが私の意見です。」
関連記事 本ブログ 2013/01/17 「モルモン教をどう見るか」に寄せられた短評 (11件)
「この類の書物を教会メンバーとしての意義を感じつつ、しかもその立ち位置を越えて第三の視点を探り、書物にあらわすことは勇気のいる決断だったと推察いたします。また改めて敬服いたしております。
末日聖徒イエス・キリスト教会の現在の位置(GPS的な)を知るには最低2軸が必要ですが、今回はその軸を提供してもらえたと思います。自らの持つ歴史的なX軸と、世界に存在し観察された、外部からのY軸が良く見えたのではないでしょうか?我々日本人会員にはX軸すらごく限られた情報でしかありませんので、X軸だけでも極めて貴重な展開と言えると思います。また、X軸すらおぼつかないのであえてY軸に触れることを避けてもいます。
仮にZ軸を掲げるならば、その宗教観から何が(価値)が生み出されているのか?が今後の課題かも知れません。
私は、生化学や生命科学が分野ですので、どうしても時間軸の流れから生み出されてくる「生命の価値」に目が向いています。ジョセフ・スミスの貢献は何か?それはアメリカ大陸という土壌を自らの確信と情熱で、新たな、大胆な宗教的「耕作:CULTIVATE」をスタートさせたことだと思います。我々が振り返れば、彼には無駄も無理もあったはずです。問題は、X軸として護教的に「彼の評価ばかり」を強調しすぎることの愚かさに気づくべきで、即ちジョセフ・スミスの愚かさに驚くべきではないはずです。大酒のみのどうしようもない親父が、立派な子供を実は育てている例はあふれています。親父の苦労と限界を理解しそれを乗り越えるのが実の子供の真骨頂であり真の価値でしょうから。このメカニズムが実は宗教的な真理とかになっていくのではと思っています。旧約聖書に見られる赤裸々な記述は実に感動的です。表面的に見えることがら・物事の分析に意味があるのではなく、それを受け止めて内面において変化を受ける自身の驚きとか感動とかにより意義を持たせるべきではと考えます。ここには論理性を超えた神秘主義、啓示主義(REVELATION)もチラホラしているので、そこをどう理解するべきか?大衆の前で、第三者が黒板(ホワイトボード?)で説明を受けて理解できるはずのない事象もあるのが実は宗教の本質か?とも思っています。
ジョセフ・スミスがもたらし、継承されているDNAが何か?そこから芽吹き人々を蘇らせる(現在の時間の中で)ことができるエッセンスは何か?このような議論に発展していくことを私は楽しみにしています。
もしも、宗教に「何が正しいか?」という講座が成立するならば、「その実のどこに価値ありか?」の議論に帰結するのだと思います。時間軸を遡ってまるで考古学的な手法は二義的な問題では?と思いますし、無宗教者も実はそれに気づいているはずです。そういう意味ではなかなか宗教に足を踏み入れない日本人は感覚的に優れた種族と思っています。
逆に言えば、「その樹に沢山の美味しい果実が実る」ならば、歴史的な汚点につまずいて止まるのではなく、そのエネルギーを、正に今、生きている苗木である我々自身のために、目の前の荒くれ土の耕作と水やりに使うべきでは?というのが私の意見です。」
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