[アブラハム書からの模写 第三、アブラハムという名は出てこない]
「高価な真珠」の「アブラハム書」は前書きに、パピルスから翻訳されたと書かれているが、教会公式のネット上の記載では「霊感された」翻訳とされ、「福音のテーマ」の評論「アブラハム書の翻訳と史実性」で、普通に言う翻訳ではなく啓示によって与えられた可能性が示唆されている。ボコボイは霊感された偽典と呼んでいる。「福音のテーマ」の引用:
「ジョセフは,以前聖書を研究していたときにモーセの生涯について啓示を受けたように,パピルスを研究することで,アブラハムの生涯における重要な出来事と教えについて啓示を受けるように導かれたのかもしれません。 この見解は『翻訳者』と『翻訳』という言葉のより広い定義を前提としています。この見解によれば,ジョセフの翻訳は,従来型の翻訳のようにパピルスの文字どおりの翻訳ではありません。 むしろ,物理的な遺物が,瞑想と熟考と啓示の機会をもたらしたのです。 たとえその啓示はパピルス上の文字に直接関連がないとしても,神がアブラハムの生涯について啓示を与えられる一連の行為を引き出したのです。」(福音のテーマ、「アブラハム書の翻訳と史実性」より)
https://www.lds.org/topics/translation-and-historicity-of-the-book-of-abraham?lang=jpn&old=true
1967年アブラハム書の元となったと思われるパピルスが発見され、教会に返還された時、それが「死者の書」の一部であって、内容が全く異なることが判明した。この時、英訳したヒュー・ニブレーは教会員に、ジョセフ・スミスが言う「翻訳」とは広く遠大な意味で使われており、パピルスに触発され霊感によって与えられた啓示であると説明した。
デビッド・ボコボイは「旧約聖書の編集過程」の8章「高等批評とアブラハム書」で、アブラハム書は文書説で言うP(アブラハムより千年以上も後)とJ(Pと150年以上隔たる)を合わせた創世記の記述に依存している。このアブラハム書は結局モーセ書と同様、霊感された偽典、あるいは宗教的な啓示文書であると見る。
参考
Hugh Nibley, "The Message of the Joseph Smith papyri - - an Egyptian Endowment." 1975, p. 49.
沼野治郎「アブラハム書の翻訳」モルモンフォーラム誌、20号(1998年春季)pp. 15-19.
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私にはモルモン書もアブラハム書にも奇妙な違和感があって、単に「宗教的な啓示文書」として割り切れないものがあります。
おそらくジョセフ・スミスは本気で史実を啓示で受けていたと思っていたでしょうし創作している気もなかったでしょう。
モルモン独自の聖典にはそんなオーラがあるんですよね。
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アブラハム書には,古代世界に関する近代の発見に符合する詳細な事項が,その他にも幾つか含まれています。 その書には,聖書に出てこない「オリシェムの平野」という名称が述べられています。
世紀まで発見も翻訳もされていなかった古代の碑文に,シリヤ北西部に位置する「ウリスム」と呼ばれる町のことが記されています。
さらに,アブラハム3:22-23は,当時のアメリカの文体ではなく,もっと中近東の言語の特徴を持つ詩的構成で書かれています。
ーーーアブラハム書の翻訳と史実性からーーー
当然、金を返せー!!って怒ったのですが、主催者は涼しい顔で、ポスターをよく見ないさいよ、「エノケソ」って書いてあるだろ!
確かによく見ると、名前の最後の文字が「ン(ん)」じゃなくて、「ソ(そ)」だったんですよね。
「えのけん「」じゃなくて、」「えのけそ」さんだったわけ。
ネットもテレビも無かった時代の笑える話ですね。
でも、ポスターやチラシに「エノケン(えのけん)」って書いてあったら、笑えません。
「あ!すみません、書き間違いでした・・・。」って言っても、世間は許さないでしょうね。
偽物を使っての人集めはいけません。偽物は人目につくけど何の役にも立たない。葉っぱの繁ったいちじくの木をイエスが枯らしてしまった逸話はそういう意味なのかもです。
そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
(中略)
夕方になると、イエスと弟子たちとは、いつものように都の外に出て行った。朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。
そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。(マルコ11章)
ここだけ読むと、イチジクに責任があったわけではなく「実が成る時期ではなかったから」実がなかっただけということがわかるので、理不尽なお話しです。
福音書に齟齬が含まれているのではないかと思うくらいに。
ただ中略の部分に
それから、彼らはエルサレムにきた。イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた、「『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえらるべきである』と書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった」。
が挿入されているので、モルモニズムの延長として見ればモーセに与えられた神殿儀式の中止の象徴としてイチジクの話が出てくるものと推測されます。
他のキリスト教会では、モルモンみたいな偽物はイチジクみたいに呪われて枯れちゃうよみたいに暗に仄めかせてるのですかね。
>他のキリスト教会では、モルモンみたいな偽物はイチジクみたいに呪われて枯れちゃうよみたいに暗に仄めかせてるのですかね。
他のキリスト教会については存じませんが、私の所属しているモルモン教会では以下のように教えています。
マルコ11:12-14 なぜイエスは実を結ばな
いいちじくの木をのろわれたのであろうか
「また,葉が茂っているのに,実が一つもない木は,ユダヤ教を象徴するものであった。ユダヤ教は自分から当代の唯一のまことの宗教であると声高く言明し,来て豊かに実った実を味わうように,世の中のすべての人を非常に丁重に招いていた。しかし実際は,季節の実もなっていなければ,前の年から持ち越した食べられる実とて一つもなく,葉ばかり不自然に茂っていた。
(中略)
イスラエルの宗教は,すでに人の偽りの信仰に堕落してしまい,その思い上がった見せかけと空虚な信仰告白は異教徒の憎むべき行いをしのいでいた。すでに指摘したように,ラビたちは好んでいちじくをもってユダヤ民族を表していた。それで主イエスはこれより前に,『実を結ばないいちじくの木のたとえ』の中で,土地を無駄にふさぐだけの価値のない木という象徴を用いておられる。」(タルメージ『キリスト・イエス』p.514)
以上の引用元は、末日聖徒イエス・キリスト教会発行の教会教育部講座用資料(宗教211-212)「イエスと使徒たちの生涯と教え」P.158~159です。
キリスト教=ローマ・カトリック的な思考からはプロテスタントは異端だったろうし。
モルモンもその流れなんですよね。
で、世間から認められ始めるとお互い融和に向かう。
なので大切なのはどれだけ宗教的に人々の救いに貢献するか、してきたかという部分なんでしょうね。
聖書曰く
あなたがたは、その実で彼らを見分ける
茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか
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モルモンは甘い命の実を芳醇に実らせてきたではありませんか。
そうすれば案外すんなり行くでしょう。まぁ頭の固い人が多いんで無理でしょうけれど。
「12 川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。
」
LDSにとっては例えば同性愛結婚が神殿でともなれば保守派会員にとっては宮清めの必要を訴えるかもでしょうか・・・
また、主ご自身からとのことで、たとえば末日も押し迫っては、焼き払いの日が私の家から始まる(112:24~)ともあって、なかなかすべてはよしではないんでしょうかね・・・
そんな心配は必要ないかもです。黒人に神権が与えられた時も大きな騒ぎが起こらなかったようですし・・・
いやむしろ「教会が同性愛者を受け入れなかったことは一度もない。しかし会員たちの中にそれを嫌うものがいたため、全ての人を招くという教会の使命の完成は困難だった」とかなんとか言い出すような気がします。
まぁ、真相公表ではなく、為政者・まつりごとを仕切る側としては、広報の積極利用で、そういった隠蔽・書き換えといった方針が安泰・存続のためには不可欠・鉄則と心得、古今東西・・・
「しかし、「何もわざわざそんな過去を蒸し返さなくても・・・」が本音で、こうした過去は俗説扱いに成り、やがて消えて行くものである。
都合の悪い過去は「無かった事」にする為に、消極的な方法として「触れないで置く」と言う手法があり、積極的な方法としては文献内容の作文や改ざんが考えられる。
意図をもってお膳立てをすれば、やがて時の流れと伴に既成事実化してしまうもので、留意すべきは、たとえ実在した事でも、後に「有ってはならない」と判断されたものは、改ざんや隠蔽(いんぺい)が、権力者や所謂(いわゆる)常識派と言われる人々の常套手段である事実なのだ。
」
たまたま、読んどったとです。趣がちと変わりますが
こちらから
https://jiyodan.exblog.jp/8274589/
漂流目的じゃごじゃんしぇん、あしからじゅ・・