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lds教会の今後を担っていく教会指導者の一人、デビッド・A・ベドナー長老は日本をも訪れ、教会員にお馴染みになってきた。ところで、日本の教会員には知られていないが、ベドナー長老の次のような発言がアメリカの教会員の間で時折り話題となっている。それは長老のごく一面を示すにすぎないかもしれないが、紹介しておきたい。
1「私(の言うこと)が聖典である。」(“I am scripture.” anonimousbishop.com Aug. 10, 2015) これは、ある質疑応答で答えた時、それは聖典のどこにありますか、という姉妹宣教師の質問に、出典を示す代わりに答えたものである。権威主義的な響きがする。
2「この教会に同性愛者は存在しない。」(There are no homosexual members of the Church. Feb. 23, 2016)
彼はここ数年同じことを明言してきて、注目されていたが、最近教会の「モルモンであり、同性愛者である」(Mormon and Gay*)というサイトで、モルモンであり、同時に同性愛者であり得る、という主旨のもとでメッセージを発することになった。一見、何の問題もないビデオメッセージであるが、彼にとっては複雑で微妙な(バツの悪い)仕事であったと想像される。持論を覆えして、受容的で柔軟な方向から語ることを求められたからである。
*当ブログ、ひとつ前の記事、2016.10.27 「lds教会、一歩同性愛者受容の方向に」参照。
(そのほか、外からでは私たちに知られない人物像として、ハロルド・B・リー長老は教会幹部の集会で出席者を凍り付かせるような、雰囲気をもった人であったと伝えられている。彼がいると人々はピリピリし、いないとくつろぐことができた、と伝えられる。来日時、応対した日本の教会指導者も彼は大変難しい人だと言うのを私は聞いた。一例として、プログラムの詳細な点まで訂正を求めたと言う。また、最近ではボイド・K・パッカー長老のことをある後輩使徒は近寄りがたい熊のような存在、と表現した。エズラ・T・ベンソン長老も政治的に大変保守的で強い個性を持った人であった。)
どのような質疑応答だったのか気になるところですが、私が聖典である自体はエズラTベンソン元大管長の「生ける預言者は,わたしたちにとって標準聖典よりも重要である。」の別表現と捕らえれば不思議ではないように思われます。
>「この教会に同性愛者は存在しない。」
こちらのほうは体育会系の乗りの失言のたぐいだったと思われます。 神のご意思はそこにはなかったので、後でやりにくい仕事をやる羽目になったのは、自然の流れといったところでしょう。
それは、引用したサイトでも触れていた見方で、そのとおりだと思います。ただ、それは周辺や聞いた側が心中考えることで、本人がいうべきことではないように思います。(私[の言うこと]が聖典である、と言った幹部はまだいないように思います。)
なお、姉妹宣教師が聞いた内容は、神権と女性に関連する質問だったと伝えられています。
有能でリーダーシップのある人は偏屈な一面があるということでしょうか。
モルモンで薩摩隼人でアップル信者である私オムナイはトレッキー(「スタートレック」シリーズの熱心なファンの総称)でもあるのですが、
ウィリアム・シャトナー扮するカーク船長は他の共演者からは「彼がいなければエンタープライズの旅はもっと平穏だった」と揶揄されていたとか。
トランプ大統領ではありませんが「憎まれっ子世に憚る」ということでしょうか。
聖典に忠実と言いたいのでしょうが、他の教会からみると高慢な言葉に聞こえることでしょうね。
聖典から引用すれば、自分の言葉=神の言葉ということでしょうが、もう少し謙遜な表現が好まれると思います。
似たような言葉でフランスで絶対主義を貫いたルイ14世の<「朕は国家なり」(L'etat, c'est moi)>という言葉を思い出します。
天上天下唯我独尊ってことです。
ギネス級の統治期間を誇るルイ14世は死んだ後、民衆に大変喜ばれたそうです。
教会にもそんな厄介な指導者がいるのかもしれません。
「この教会に同性愛者は存在しない。」
というのもソ連が内情を偽って言ってきたことと似ています。
長老の意味するところは<同性愛者を認めない>と捉えられます。
熱意から来る詭弁なのでしょうが、残念な表現ですね。
そのようなことはこれから外部には通用しませんので、内側だけでしか使用できない表現となることでしょう。
これって、単に聖典を読んでなくて、答えられなかっただけ。
>2「この教会に同性愛者は存在しない。」(There are no homosexual members of the Church. Feb. 23, 2016)
これって、教会の現状を把握出来ていないだけ。
つまり、単に頭が悪いんじゃないですかね??
長年、教会の中で居るうちに、思考しなくなってるのだと思います。
アニメ「巨人の星」で知ったエピソードですが。
故二出川延明審判は「俺がルールブックだ!」と同時セーフってルールブックのどこに書いてある!と食ってかかる監督にそう答えて退けたとか。
「神権と女性に関連する質問」とのことですが、おそらく聖典の根拠は難しいし野暮な質問に対するシンプルな切り返しだったのかなと想像します。
ベドナー長老はシンプルな表現が好きなようで「グッドボーイ・グッドガールでありなさい。」という言葉が印象に残っています。
ルカやキリストの表現に似てるかな?と思ったこともあります。
誤解を受けやすいという点も含めて。
>「この教会に同性愛者は存在しない。」
実はこれ、個人的には同意できます。
言い換えれば「本質的な意味での異性愛者しか教会は受け入れる準備をしていない」と思えるからです。
“18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
”
なんかと、引き比べてしまいそうな。
理想的には教会員一人一人が「74 今や私たちの心に光が注がれ、聖文をはっきりと理解できるようになってきた・・・」みたいになって喜びを得るというのが本筋なんでしょうね。
極端に妄想すれば、外部から見れば、教会内は環境過剰適応障害者群みたく見えるのかも。そこでは指導者は神に近くあり、常に霊感を受け無謬性であり、そして一般会員は文字通りそのように受け止める、それぞれ役割をサド・マゾ的にまで無意識的に演じ習慣性となっているみたいな・・・そのへんがカルト的と見られるんでしょうか、指導者への絶対服従みたいな。
ホモ・パワーでは、たまWEBの知り合いでは、結婚したら相手は、バイセクシュアルで結局離婚になったとか、あまりポジティブなことはないんですよねぇぇ。
まぁ、一種の圧力団体のようなものでは?
しかも政治家の上の人たちがねぇぇ、松下政経繋がり?、某民進議員さん後門に香水だなんてあながち偽りでもないのかもですよ。
については、今の時点で誤解する教会員はまれ(せいぜい眉をひそめる程度)でしょう。 ですが、組織につきものの過剰美化の影響で半世紀先100年先には内部事情のようなデリケートな情報が失われたとすれば、べトナー長老による「この教会に同性愛者は存在しない。」発言を真に受けて、2015年~2016年時点ではLDSの同性愛者は、ほぼ全員が自主脱会か破門か矯正もしくは自殺によって、粛清されていたと理屈で理解してしまう(なぜなら預言者は真理なので)大マジメな教会員(センスの欠けた地元指導者)が出ないとも限らないです。
本人一人がやってる分には構わないけれども、同じようなセンスの仲間が寄ってきて、そうだという共通認識が生まれてしまい、「背教」の錦のもとに新会員や常識はあるけれども気の弱い会員にどんどん押し付けることが頻繁にあるとしたら(特に身内に同性愛者がいる家族は絶望してしまうので)そういう「信仰」は傍迷惑ですよね。
教会内の古い資料を漁ってきて色々と楽しめるのはあくまでも「古い資料」だと分かってる人たちの楽しみであって、潔癖症の会員とかセンスの欠けた会員がそういう火遊びに参加したら、たちまち反モルの餌食になって不幸に見舞われるリスクがあります。
そういう意味で、本人は気が進まなかったかも知れないけれども、比較的に早いうちに自身が修正作業に取り組めたのは評価して良いと思います。