lds教会では日曜学校は成人も参加するクラスで一般会員の中から召された教師が担当する。成人は福音の教義クラスと呼ばれるクラスで聖書を含む4つの聖典(旧新約聖書、モルモン書、教義と聖約)を順繰りに学び4年で一巡する。
優れた教師がよく準備して、聞きごたえのある素晴らしいレッスンを展開する場合も少なくないが、年季の入った会員にとって凡庸で退屈なことが多い。このことについて英語のサイトでも取り上げられていたので、教会全体に言えることと思われる。
英語のサイトに投稿していたのは、レッスンの手引き作成者をよく知る人物(BYUで宗教クラスを担当した人)で、手引きは素人でも準備できるよう、最小の努力で生徒が皆参加できるように組まれている、という。確かに世界に広まる教会にあって聖典に詳しくない会員でも担当でき、現代に生きる会員が信仰を実践していくためにどうすればよいか、聖典に記された教えの応用に重きを置いた構成は理解できる。
では、なぜ物足りなく感じたり、退屈に感じたりするのであろうか。BYUでは宗教が必修になっているため、教師は大人数のクラスを担当することになり、全員がそろって一定の理解に達して単位を得られるようにするので、勢い学生が最小の努力ですむようなものになっているという。手引きの作成者はこの術に通じた先生たちなのである。
そのような背景はうすうす気づいていたが、私の不満は、次の4点にある。1 学んでいるはずの聖典そのものがしっかり扱われていない点が第一で、大変残念である。ごく軽く触れるだけですぐ「今日への適用」の話し合いに移って残りの時間が費やされる。もっと聖典の本文に触れること、その背景、文脈、重要な語句(術語)の説明に時間が割かれるべきであると思う。そうでなければ聖典について学んでいることにならないし、聖典を学ぶ楽しみも得られない。 2 毎回知っていることの繰り返しに過ぎず、求められる答えも前もってわかっているため退屈してしまうのである。 3 末日聖典が優先されすぐそこに直行するため新約、旧約聖書が軽い扱いになってしまうことが、私にとっては大変物足りない理由となっている。 4 現代社会への適応の点(話し合いのための質問)においても、英語の直訳による手引きをそのまま借りるのではなく、文言と意図を咀嚼して、日本の社会や目の前の生徒のニーズに合うよう読みかえる、言いかえれば自分で考えたものを用意して臨むべきではないか。私の経験では外国(米、豪)では質問や意見の挙手が盛んにみられ、ディスカッションにずっと活気がある(手引きは参考程度の)ように思われる。
最小の努力ですむのは生徒の側にも言えることで、何の準備もしないで出席しているのが実情である。努力を払わないと得る収穫もどうしても軽く記憶に残るものにならない。英語サイトの投稿者は言う。
「宿題をしないで出られるクラスで、しかも質問の答えを全部知っているクラスに出た時、それはあなたにとってよいクラスであったと感じるだろうか?」
私は毎年少しでも新しく学ぶところがあって聖典の理解が増し加わるようにしたいと努めている。私たち末日聖徒は進歩向上を目指しているのではなかったかと問いかけたい気持ちである。
参考: John C, “Everything that is wrong with LDS Gospel Teaching” on commonconsent.com 2010/1/5,6,7 計332のレスポンスが寄せられている。
Richard Ballantyne teaching the 1st LDS Sunday School in Salt Lake-- Friberg
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インスティテュートを超える学びの場があるといいですね。
先日の日曜学校ではモーセ書でカインの言った言葉「わたしは自由だ。」に思いをめぐらしていました。
レッスン後教師に「わたしは自由だ。」って言葉があったんですね。
気がつきませんでした。というと私もレッスンの準備をしていて初めて気がついたとのこと、掘り下げて皆の意見を聞きたかったです。
時間が足りないということもありますね。ということは悠長に見える(繰り返しの)部分を刈り込んで、多少の脱線もできる余裕があるといいのかもしれません。
それにしても読書課題の部分を丁寧に読んでいる教師と生徒発見!
この問題は、時間が足りないとか、内容が・・といった話では無いと思います。
モルモンで、日曜学校のテキストと教師に求められている事は、「教義の学習、理解」ではありません。
「信仰を高める」事がその目的です。
教師に求められるのは、「信仰の鼓舞」教会の言葉で言うと「証を強める」です。
考えさせるのではなく、その教義に関する概念をいかに「信じさせるか」なのです。
ですから、同じ事を繰り返すだけで、聖典に書いてある事の研究などは全く必要ないわけです。
教師も生徒も、教会で認めている聖典の解釈に対する疑問を持つことすらタブーになっています。
そのタブーを破る者は、「レッスンを妨害する人」と見なされるんです。
教師はテキストどうりの、質問を答えを用意し、聖徒はそれをなぞるだけ。
つまり、日曜学校のレッスンと言う「儀式」なのです。
儀式と言うのは、退屈なものです。
その儀式は時間つぶしでもある?!(運営)協力には忍耐が必要。SSはもうだいぶ昔から私にとって鬼門。
退屈しない方方が一つ有りますよ。(笑)
妄想、夢想とは違う方法ですね。・・頓知、豚知?
的外れでもモルモン的武勇伝を答えとして返された時は、熱心に聴き入っていたものです。
そんな盲信していた信者から予期せぬ{神学に基づく質問}を妨害と見なす前に答えられないのが本来のモルモン教徒です。
何十年も指導的立場にいる信者に質問しても「知りません、判りません、聞いたことがない」との返答を頂きました。
教育者を指導育成する高位の聖職者が、求道者でも知っている一般的クリスチャン(求道者水準)の、疑問や問いにnullやspaceに相当する返答を返すのですから妨害どころか、道場破りのように忌まわしき者と見なされるでしょうか?。
神学者に対する誹謗中傷は入信数ヶ月から数え切れないほど聞かされたましが、30年間のモルモン時代に、このブログ管理者のような、見識、見聞の広く深いモルモン教徒とは会ったことがありません。
答えは簡単です。
NJさんが教師になれば良いのです。(笑)
モルモン離脱者さん
>何十年も指導的立場にいる信者に質問しても「知りません、判りません、聞いたことがない」との返答を頂きました。
モルモンの場合、指導者と言うのは、組織を管理運営する事に重点が置かれています。
教義に関して詳しく知っているかどうか?と言う事は、指導者になる条件にはあまり成っていないようですね。そこそこ知っていれば良い、と言うことです。
ワードやステークの指導者も、モルモンの教学に関する事よりも、組織運営のための手引きの理解に時間と労力を割かれています。
逆に言うと、あまり教義を掘り下げて考えると、「モルモンの推奨する信仰」から遠ざかってしまうとの認識かもしれません。
「何も考えずに信じなさい」「信仰とは確認せずに信じること」と言う教えなのでしょうね。
教義を深く掘り下げて研究したり、神学なんて研究されたら「看板を掲げるのに必須である専門知識も資格も取得してない素人で構成される病院と同じである」とバレてしまいます。
ある兄弟が教義の探求を深めたいと言ったら、彼と仲の良い兄弟達が研究や探求などしない方が良いと阻止してました。
モルモンではFEBCの認知度も低く、それでいながらFEBCの話をしたら「惑わされるので聴いてはいけません」と先輩会員に怒られました。
必然的に教義そこそこ、重要なのは隷属を求める神(と称する者と代理人=幹部)の教会の聖職者ではなく、経営者としての相応しさが重要視されるのも肯けます。
神学も不都合な要素が多いので、神学者をパリサイ人のように捉えて神学に近寄らせないために、神学者を誹謗中傷し「知識に邪魔され救われなくなる」と初期段階で印象づけたんですね。
管理者様、豚様、参考になります。
2回にわたるコメントをありがとうございました。豚さんがすでに回答されていますが、後ればせながら答えさせていただきます。
ご指摘のように普通の末日聖徒も指導者も一般のキリスト教のことや神学上のことは残念ながら大変うといのが実情です。特に日本の会員はそうであると思います。(その面では他のクリスチャンも平信徒は他宗派のことや神学の知識はあまり詳しくないように思われます。)
私のことを見識・見聞が広いと書いていただきましたが、ダイアログやサンストーンの読者、執筆者などアメリカには大勢仲間や優れた先達がいます。欧州にも。日本にも登場し漸増していると見ています。
教義や神学を学びたいが、と相談するとあまり勧められないのはアメリカでも同様だと思います。これは日本のキリスト教会でも同様のことがあり得ると思います。批判神学は神学生や牧師さえも揺るがすからです。
要するに、1 人はキリスト教やモルモン教について知識と理解の面では究める、いわば超越・達観できるように目指す、2 聖書の直解的知識ないし西欧出自の教会の教えに対する盲目的依存から脱却する、私はこれを思想的・宗教的に日本人として自立することととらえます、3 その上で教会に留まるにしても去るにしても自主的に選ぶようでありたい、というのが私の考え方です。