最近周囲や知人に亡くなる人が増えている。山本尚忠「死と葬儀」(1979年)という冊子を見ていて参考になるところがあったので一部引用・要約して転載させていただきたいと思う。( )の挿入はNJが補足。.
死に備えることは病人や老人だけでなく、すべての人に常に必要なことである。滅び失せる動物のようにではなく、人間として、人間らしく(末日聖徒として)死に直面するためには、そのための準備が必要である。p. 80
生きるための努力があるだけでなく、死ぬための努力も必要なのである。p. 80
(死期が近い病人、老衰者、また家族に)死がすべての終りでなく、死もまた神のみ手の中にあり、私たちが最後に出会う方は神であることを、私たちのすべてが終わる時にも、復活の信仰によって望みが与えられることを語るべきである。p. 81 (あるいは私たち自身がそう悟るべきである。)
「とりなしの祈り」
聖書に葬儀に関する記述が多少出てくるが、新約聖書のテモテの手紙 II 1:18 が取り上げられている。「神に召された人オネシポロとそれを悲しむ彼の家族を、終りの日にキリストが執り成して下さるという信頼をこめて、永遠の憐みのみ手に委ねようとする祝福の言葉である。」p. 73 この祈りをめぐって解釈の違いがあり、いくつかの問題が指摘されているが、私(NJ)はこの祈りは広く一般的に受け取って末日聖徒も通夜や葬儀の席で教会役員が触れてもよいのではないか、と感じた。私など是非必要とする者のひとりであろう。
葬儀が少しずつ内容が乏しく(淡泊に)なり、喪に服する習慣が次第に失われている。(ldsの告別式はいずれも心のこもった、厳粛でしかも列席者を暖かく包む感動的な時である。それでもすぐそばに淡泊化が迫る)。それは葬儀社がほとんどを代行する傾向によるが、・・一般に死の忘却が支配的であり、多忙な日常生活にひたりきって死からの逃亡をはかっている。そこで一旦死に直面するとただ戸惑うだけである。p. 99 (末日聖徒も現代社会に生きている限り例外ではない。)
参考 山本尚忠「死と葬儀」(教会生活の手引き 6, 日本基督教団出版局 1979, 1989三版)
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