教義と聖約131:2, 132:4 に出てくる「新しくかつ永遠の誓約」が何を意味するのか、確認の必要を感じて復習してみた。
この教会は1890年に一夫多妻の制度を廃止し、現在は一夫一婦制を厳格に守っているので、現状にそって説明がなされている。例えば「聖句ガイド」(2009年末日聖典合本)で次のように説明されている。背教の時期をへて改めて啓示されると「新しい」わけであり、神の聖約であるので「永遠」であり、全ての神権時代で享受されてきたという点でも「永遠」なのである、と。そして、そのような聖約はバプテスマ、聖餐、結婚など全ての福音の聖約が含まれると続く。
主だった教義と聖約の注解書(Hyrum M. Smith & J.M. Sjodahl; Sidney B. Sperry)も近年の大会説教も同様である。
しかし、D&C 131, 132章が多妻に関連した章であり、「新しくかつ永遠の誓約」が19世紀末まで、多妻結婚(or 日の栄の結婚)のことを指していたことは明らかである。132章の文脈、本文の内容を考慮しても一夫一婦制を意味していなかったことは明白である。例、後半のエマ・スミスに関連した節で、渋るエマ・スミスに受け入れるよう説いている所など。[この箇所、典拠はThomas G. Alexander, “Mormonism in Transition,” p. 60 ; John Buerger, “The Mysteries of Godliness,” pp. 58-59]
[132章は謂わば最初の公式宣言、saltlaketribune]
なお、近年七十人のマーカス・B・ナッシュ長老が多妻は昇栄に必要ではない、と明白に述べていることが注目されている。(なお、英語圏以外のLDSにとっては当然のことと受けとめられているが)。
以上、日曜学校の福音の教義クラスでは触れる必要があまりない事柄であるが、念のため、備忘録の意味で掲載させていただいた。
でなければ説明がつきません。
ジョセフは天使の警告に逆らったために、エマとの子しか持てず、彼の死後エマが別の教会を作って子供を全員改宗させたため、天使の警告どおりブリガムヤングが引き継いだ本家のLDSにはジョセフの子孫は全員断たれてしまったという結果となってしまったと見るべきではないのかな。
たとえ教会が何らかの事情により隠したかったとしても、DNA解析結果がウソをつかないわけですし、隠しおおせることなど不可能であり、そもそも教会側がこれを隠す動機も見当たらない。
それでなおかつ子孫が一人も見つからないということは、真実まことが指し示すものは、エマが多妻の儀式婚さえ快く思わなかったためにジョセフは本気でエマを裏切る気分にはなれなかったということ。
ブルガムヤングの行為を見ていた、エマが別の教会を作りたくなった気持もよく分かります。
彼の多妻結婚での子供は英語版のWikipediaに記載されています。 モルモニズムがさらに成熟すればこの子供たちの存在を認めるのでしょう。
同意見です。
エマ・スミスが一夫多妻はブリガム・ヤングが始めたと主張しているのに一致します。
https://ja.wikipedia.org/wiki/コミュニティ・オブ・クライスト
多妻婚についての見解
創立当初から一夫多妻制教義は恥ずべき慣習として否定。
一夫多妻制の教義はブリガム・ヤングが分裂後に定めたものとするが、
仮にジョセフ・スミス・ジュニアが事実上の一夫多妻制を行っていたとすれば誤った行為であったとしている。
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https://www.lds.org/topics/plural-marriage-in-kirtland-and-nauvoo?lang=jpn&old=true
25.ヘイルズ,Joseph Smith’s Polygamy, 第2巻,277-302参照。 ジョセフ・スミスが多妻結婚で子供をもうけたと言われることはあるが,多妻結婚の妻との間に二人か三人の子供をもうけた可能性はあるものの,今までのところ遺伝子検査では否定されている。
JSが一夫多妻を行わなかったということであれば、一時的にせよ彼は昇栄に失敗した預言者であると教会が広言していたことになる。
予言者ジョセフの子孫
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/6222d03045a77a44ff9e9a7c6f9f9415
写真
https://www.findagrave.com/cgi-bin/fg.cgi?page=gr&GRid=94165500
母シルビア・ライオン(1828-?)
http://josephsmithspolygamy.org/plural-wives-overview/sylvia-sessions/
母が死の間際にジョセフの子と言ったとされるその解釈は、ジョセフと永遠の結婚なので、永遠の世界で父親はジョセフ、そういった意味だったんだという話もあるというこっちゃなぁぁ
言葉使いと内容から当ブログに対する挑戦的、攪乱的と感じられるものは留保か削除いたします。
「夜這い制度」を守る村落共同体内での「共生主義」の根本精神は妥協や犠牲ではなく、共同体としての素朴な「積極的協調精神」である。
つまり「共生主義」は、女性側に選択権がある「夜這い」と言う極自然発生的な制度や「一妻多夫婚(妻問い婚・通い婚)」の制度である。
また、家族単位の「群れ婚状態」も在り、その家の長男が嫁をとり財産を引き継ぐと、男兄弟が何人居ようとその家に同居し長男の嫁をセックスの対象として共有させてもらう一妻多夫婚が普通である。
逆のケースとして、娘だけ何人も居る家庭では長女にだけ婿をもらい、他の娘はその婿をセックスの対象として共有する一夫多妻も存在する。
そのブータン王国の平均的な結婚年齢であるが、男性は二十五歳、女性は二十歳ぐらいである。」
http://jiyodan.exblog.jp/16893854/
日本も大正期くらいまで、地域によって夜這いの文化・風習が続いてたんでしょうね・・・・
「【大きな愛】
所有欲や嫉妬心で相手を縛る観念のない彼らは、相手と結ばれた後も、他の異性と実に調和的で親密な関係を保っていた。さらに言えば、彼らには私たちのような統制された結婚パターンさえなかった。(p.165)
一夫一妻も一夫多妻も一妻多夫も混在しながら、全体では見事なバランスが保たれていたという。全一性の認識に至っていて、物や異性に対する所有概念がないから、このような共同体が可能なのである。このような愛の形態がまったく理解できないという人は、現代文明が仕掛ける認識の枷に嵌っているのである。
彼らの愛のすべてを実現させているものは、単なる男女の愛そのものではなく、そのすべてを包括する大きな愛(大道)なのであり、そしてそれを支えるものこそ、あの彼らの祭りなのだ! (p.166)
M老人は、グレートタオへと至ったとき、本物の男女の出会いが実現すると言っていた (p.167) そうである。そして、著者は、その言葉通りになったという。
【 「煩悩」 なのか 「神に近づく心」 なのか? 】
現代の宗教にとっては、性に意識を向け続けることは 「煩悩」 でしかない。だが、太古の時代には、同じそれが、神に最も近づく心と見なされていた。性を堕落への迷い道とみなす現代の諸宗教と、神への入り口として認識する世界普遍の太古の宇宙観との対照性は、何を物語っているのだろう。(p.174)
」https://blogs.yahoo.co.jp/chanchan_yanagi/51826390.html
19世紀以降、国家・国づくりが起こり、キリスト教性道徳が浸透、と同時に我欲・物質主義が・・・・
現代の感覚からすると奇妙に感じられますが、そういう状況だったのでしょうね。
あとNJさんに挑戦する気など全くございませんので・・・
聖書のみを宗教上のモットーとしたマルチンルターも一夫一婦制のみが聖書的というわけではないとコメントしている。
ただし一夫多妻が嫉妬による家族の悲劇を一夫一婦制よりも引き起こしやすくて、2000年近くキリスト教と共に続いたならば、聖書的であろうがなかろうが、生理的にも引き返すことも難しく人道的な制度として受け入れるべきでしょう。
その点を甘く見たジョセフスミスやブリガムヤングは失敗をしたと思います。