[右がGong長老。Salt Lake Tribune紙]
5/21(日)ゲリット・W・ゴング長老が来阪される。この教会幹部について、時折写真を見たぐらいでどんな方かよく知らなかったので少し調べてみた。以下Wikipedia からの引用。
1953年12月23日カリフォルニア州レッドウッド市生まれ。2010年以降LDS教会の中央幹部となり、2015年10月以降七十人の会長会(7人の一人)に入っている。幹部になる前、BYUの学長補佐であった。
ゲリットという名前はBYU教授 Gerrit de Jong から取られている。母親がBYU生の時、Jong 教授宅に下宿していたのであった。母方の祖先はハワイの中国系で、父方は19世紀末アメリカに移民した中国人であった。父もBYU教授であった。
ゴング長老はパロアルトの高校を卒後、台湾に伝道した。BYUで学士を得、ローズ奨学生となり修士、博士の学位をオックスフォード大学で得た。その後、ジョージタウン大学,ジョンズホプキンス大学で教授となり、米国国務省の特別補佐官、在中米国大使館の特別補佐官となっている。また、「戦略的国際学センター」の中国担当教授、アジア部長を務めた。また、米国教育省の「教育制度向上と保全」顧問委員会の一員にもなった。
七十人第一定員会に召されて、彼は2011-2013年アジア地域会長会の副会長となり、2013年夏同地域の会長となった。
彼が発表した論文に次のようなものがある。
「日中関係における自己認識、記憶、ナショナリズムの相違を再考」(共著)
「記憶と忘却:東アジアにおける戦争と平和の遺物」
「東アジアと東南アジアにおける記憶と歴史:国際関係における自己認識の諸問題」
「アジア太平洋地域における安全保障と経済」(共著)
「台湾海峡の板挟み:新世紀における中国-台湾-米の政策」
「朝鮮半島における変化と挑戦:過去、現在、未来」(共著)
「朝鮮半島に見られる潮流と米-日-韓関係」(佐藤清三郎と共著)
(引用以上)
以上で分かるように、大変傑出したアジア系教会幹部を迎えることになる。(なお、彼の姓は「江」で中国名は江文漢と表記される。北村富弘兄弟から教えていただいた。我感謝他。)
追記:2017年5月20日、大阪の特別大会を訪れたゴング長老と言葉を交わすことができた。この時、大阪の教会の様子を見、教会員を目覚めさせる(かつを入れる)ために来られたのですか、と聞きました。すると、今朝出会ったこちらの指導者も今話しているあなたも十分目覚めていますよ、とかわされた。ゴング長老と中国語と英語で言葉を交わすことができて好感を覚えた。なお、2018/03/31ゴング長老は総大会で十二使徒に召された。
情報源
https://en.wikipedia.org/wiki/Gerrit_W._Gong
[補]
コメント欄にたまWEBさん(2017-5-16 02:26:51)がリンクを示されたサイトに
Gong, Gerrit, "The Standard of Civilization in International Society." Oxford: Clarendon Press, 1984 を引用した論文が紹介されている。そこでG.Gong は「現代文明の基準論の代表的な論者」と評価されている。竹内雅俊「国際法学における「文明の基準」論の移入」文京学院大学外国語学部紀要 第14 号(2014)。
ゴング長老の妻は写真からみると白人系ですかぁ、子男5人。
日本では新自由経済で、格差、非正規、長時間、低賃金など労働条件下の教会員の生活も増えてると思われますが、この2月のホランド長老の話に、そういったことを聞かされてるみたいなことがあったと思いますが、今回の長老たちも、そういったことに触れますかね??
まぁ、幹部は面と向かっては言わないでしょうが、アメリカの白人の普通の会員なら、人種観点から日本人・アジア人にはハムの血筋が多く入ってて、奴隷なんだよとあっさり判断するケースも多いのでしょうね。
[日本人奴隷
1550年~1600年までの50年間、
戦火に追われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれた。
1596年7月6日
「アルゼンチンのコルドバ市の歴史古文書館」の資料の中の公正証書に
日本人青年が奴隷として、売られた事実が記載されていた・・・]
http://konohana-sakuyahime.cocolog-nifty.com/blog/dorei.html
日本人が奴隷になった、の話は残念な話。しっかり生きていきたいと思う。
これは戦国の大名たちが鉄砲や海外の物品を手にいれるために、農民を捕らえては海外へ売り飛ばしたんですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B1%E5%A6%A8%E5%8F%96%E3%82%8A
日本史の闇の部分です。
アメリカ人といえども、アジアの血が入っていると
なんだか親しみを覚えます。
さてどのようなメッセージを携えてこられるのでしょうね。
皆様の報告をお待ちしております。
秀吉が突然怒った理由がわかってきました。
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-006b.html
豊臣秀吉はイエズス会のコヨリエと明への出兵を語り合い、秀吉はコヨリエにシナ計画を持ち出されて、その誘惑に乗ったというのが「朝鮮の役」の真相であった。コヨリエは、「今に見ておれ、太閤(秀吉)を海外遠征(朝鮮の役)に引き込んで、さんざんな目に遭わせてやる」と言っている。コヨリエの策謀を見抜き、怒った秀吉がコヨリエにたたきつけた五箇条の概略を載せる。
1、なにゆえに秀吉の臣下をキリシタンにしたのか
2、なにゆえに宣教師は教徒(キリシタン大名をさす)に神社仏閣を破壊させたのか。
3、なにゆえに仏教の僧侶を迫害するのか
4、なにゆえにお前たちは耕作に必要な牛もして食用にするのか
5、なにゆえにお前たちはお前の国民が日本人を購入し、奴隷としてインドに輸出するのを容認するのか・・・・
イエズス会が硝石をネタにして奴隷貿易の仲介やキリシタン大名に神社仏閣を焼き払わせるよう命じたことなど全く知りませんでした。
>宣教師バリニャーノは1578年に、マカオの商人と金貿易のために正式な契約を結んでいる。そうして日本人も、ポルトガルとスペインの領土拡張の競争の中に入っていくのである。やがて、難破したポルトガル船の積荷をめぐって争いが起きた。スペインの総督は秀吉に脅迫状を送り、「我々の宣教師は征服者の前触れである。覚悟するがよかろう」と。
この脅迫状が決定打になって秀吉は危機感を募らせてお目こぼしから一転、宣教師や改宗者をを追放・逮捕・処刑していった・・・・
> 『ポルトガルとオランダが諸大名に火薬を売りつけたために、日本は戦国時代になってしまった。信長のキリシタン擁護が腰砕けとなったことで、宣教師たちは明智光秀に新式火薬を渡し、信長殺しに成功した。しかしそのうち秀吉の鎖国政策を嫌った宣教師たちは、秀吉の朝鮮征伐には火薬を供給しなかったために、秀吉の外征は失敗に終わった。そしてこの時国内にいて火薬を温存した徳川が後の政権をとることができた。
イエズス会が明智光秀をそそのかして信長を暗殺させたとかはおそらく説なのでしょうが、驚くばかりです。
それで悪いのは外国だ、みたいに言う人がいるけど・・・自分の行為を棚上げしちゃいかんでしょ
薩摩藩とか自分の領内の農民を騙して売り飛ばしていたらしいからね
「日曜学校で高山右近について聞く」,
http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/912ca4680a7f8ecf88bb0ccd3ef51e53
まぁ、ゴング氏は、アヘン戦争に直接言及とかってはないんでしょう・・・
『国際法学における「文明の基準」論の移入 竹内・・』文京学院大紀要
http://www.u-bunkyo.ac.jp/center/library/103-128(%E7%AB%B9%E5%86%85%E9%9B%85%E4%BF%8A).pdf
p111
国際法学における文明の基準論を論じるうえで最も問題となるのが、その定義法であろう。
本稿の冒頭においても言及されたように、シュワルツェンバーガーは、文明の基準を、19世
紀中頃より国際慣習法として結晶化された、「外国人の処遇に関する、柔軟ではあるが相対的
に客観的な基準(an elastic but, nevertheless, relatively objective standard for the treatment of foreign
nationals)」であるとした37)。すなわち19 世紀にアジア、イスラム諸国(もしくは非西欧型の「国
際システム」)と「遭遇」した「国際社会」に、自国民の通商活動、外交活動、植民地化活動
を円滑に進展させる目的において、自らの「科学的38)」国際法と「非文明世界」における実
情とを橋渡しするための論理、基準が必要となり、これが文明の基準の起源となったという説
明である39)。この文脈において文明の基準の起源および目的自体は明確であったといえる40)。
現代文明の基準論の代表的な論者であるゲリット・ゴングは、19世紀の文明基準の内容とし
て、具体的に以下の5つを挙げている41)。
1. 「文明国」は、基本権(生命、名誉、財産;旅行の自由、通商の自由、信教の自由)、特
に外国人の基本権を保障する。
2. 「文明国」は、国家装置を運営する上で効率的な官僚制を整え、自衛能力を整えている。
3. 「文明国」は、戦時法規を含む、一般的に受け入れられた国際法を遵守する。また管轄
権内の外国民と自国民に等しく法的正義を保障する国内裁判所、法典、明文化された法
体系を有する。
4. 「文明国」は、適切且つ永続的な外交折衝および交渉ルートを確保することで国際社会
の責務を果たす。
5. 「文明国」は、「文明諸国家」に受け入れられた規範および慣行に概して従う。すなわち
寡婦殉死、複婚そして奴隷制は「非文明的」とされ、故に許容されない。
なお、ゴングの説明によれば、5つ目の要件は、西欧諸国の価値観が色濃く反映される、主
観的な要素である42)。こうした一連の基準の上に、英国を中心とした欧州諸国は、上に述べた
ように自らのアイデンティティとしての「文明」概念を構築、本質化し、ウェストファリア型
国際秩序を正当化する「国際社会」概念をも構築していった。法学的に換言するならば、こう
した要件は、国際法主体性を決定する実体法側面を規定し、初期の承認論(とりわけ創設的効
果説)や外交的保護権、国家責任論、領事裁判権制度にも大きな影響を与えたといえる。こう
した概念構築は、非欧州諸国において円滑に通商活動をする上で在外自国民の基本的権利を保
障するという必要性とともに、古典時代から続く「外国人(非キリスト教)≒ 野蛮人」という
言説の貢献があったことは言うまでもない。しかし、以上の5点のみを以て国際法の原則とみ
なすのは、実務の観点からするならば香苗らずしも自明であるとはいえない。ゴングによれば、・・・」
概念を不明確にしている主観的、且つ、暗黙の前提から生じる実務適用面での不都合44) (3) 「文
明」が多様であり、文明の基準論が一つの文明にしか言及しないこと等が挙げられる45)。本
稿では、既に(1)と(3)については論じている。こうした理論的困難を抱えるなかで、ゴングは、
文明の基準に二つの側面があることを述べている。1つは、文明国が備えるべき要素を確かめ
る手段としての側面であり、いま1つは、国際法の主体を定義することにより、国際法が有効
となる領域、すなわち「文明化」された国際社会を画定する側面である46)。この2つは、単に
分析の対象が国家か、もしくは国際システムかというレベルの問題のみを示唆するものではな
い。すなわち文明の基準の作用にも気を配る必要性を示唆していると考えられる。大別すると
文明の基準の作用には、(1)国家の範疇化 (2)異なる規範の適用 (3)(強制によるものであれ、
自発的なものであれ)「文明標準(国際標準)」へ則した国内体制の変革などがある。そして先
行研究の傾向として、分析の重点の置き方によって研究の方向性も異なってくる。
本稿もゴングの緩やかな定義を採用するが、特に文明の基準の作用において(1)国家の範疇
化 (2)異なる規範の適用という点に着目する。「国家の範疇化」とは、ある言説を基に「自己
(we)」および「他者(others)」を峻別し、アイデンティティの一部を構築する作用を指す。
「異なる規範の適用」とは、こうした範疇化に基づき、あるグループ内の国家間では「国際
法」が適用され、別のあるグループとの間では別の規範体系が適用されることを指す。19世
紀において、後者は、「非西洋諸国」における領事裁判権を定める不平等条約、欧州型の司法、
行政、外交、官僚体制の受け入れという具体的な形をとったといえる。次節では、具体的に「文
明」の基準原則がどのように伝統的国際法のなかに見出せるかを外国人の待遇基準を巡る論争
(伝統的国家責任法)、国家承認、各国の法的関係などの分野を通じて検討する。
1)外国人の待遇基準
文明の基準の理論的起源は、元来、「未開国」において活動する在外自国民の保護にある。
こうした外国人の処遇基準(・・・」