聖書やモルモン書の本文が、年月の経過と共に改訂されて変化が見られることがある。
それは文言の範囲から文章にわたることもある。これは本文批評 textual criticism が扱う分野で、ここでは改訂の理由を二つの点 - - - 1 基づく本文の違い、2 社会の変化に対応 - - - から取り上げてみたい。
本文批評は古代の元 (original) 写本が存在しない現在、現存するできるだけ古い諸種の写本を校合し、原文に最も近い姿を調べ上げる仕事である。修道院の文書保管庫からこれまでに知られていなかった古い写本が発見されたり、死海写本の場合のように遺跡から貴重な写本が発掘されたりして、初めの原文により近いものが復元される。また、社会の倫理、思想が変遷(進歩)する時、それまでの古い因習を引きずる表現が改訂されることがある。人種や男女間の偏見・差別などを踏襲しない方がよいと判断されるからである。
以下、聖書とモルモン書について簡単に整理してみたいと思う。
聖書の場合。欽定訳は1611年に出版され、それが準拠した公認本文は10~15世紀の写本を参照したもので、死海写本や他のより古い写本が発見される前の写本は反映されていない。文学的には高く評価されているが、KJVが負っている制約を認識すべきであろう。
モルモン書の場合は聖書と違って、現存する手書き原稿(筆記されたオリジナルと印刷業者渡しのもの)が起点となっていて、本文批評の流れは過去へ遡るのではなく時間の流れに沿って現在に向かい編集・改訂された跡をたどることになる。グラント・ハーディは注目に値いする異同を50挙げている(「モルモン書読者家版」イリノイ大学、2003年、補遺6)。the son of が God の前に入る例(IN11:32他), 「バプテスマの水」が1840, 1920, 1981年版に出ている、など。そして、社会の考え方を配慮した例として「白い」が「清い」となり(IIN 30:6),序文で「レーマン人はアメリカインディアンの主な先祖である」となっていた(1981年英語版)のが「このレーマン人も・・である」と変えられた(2006年)ことをあげることができる。(the principal ancestors → the Lamanites are among the ….)
[Oはオリジナル、Pは印刷業者、I, II, III...XIIは諸版の順を指す。Book of Mormon Critical Text: A Tool for Scholarly Reference, Vol. III, 1987, FARMS]
モルモン書の場合、初版1830年を含め今日まで改訂等変更を経て、発行された年度で呼ばれている(例、1920, 1981年版など。添付の表参照)。日本語版は1900年以降それに沿っているのであるが、その中で異なる版(明治、昭和、平成版)に移る前に変更が加えられる場合があった。コメント欄に指摘されているとおりである。これを丹念にたどり、いわばモルモン書邦訳の「本文批評」を行なうのは日本の教会員が独自に作成していくしかないのではないかと思う。
「社会の考え方を配慮した例として・・・」っ言ってますけど、それって単なる憶測でしょ?
問題なのは、会員信者を勝手な憶測でしか解釈できないような状況に追い込んでおいて、まったく説明責任を果たさない教会本部の無責任さだと思いますけどね。
いったい、どの箇所が抜き取られたり、失われたと言うのか不思議でしょうがない
そもそも旧約聖書について言えばルターは16世紀にヘブライ語聖書から翻訳してるので、いったい、モルモン書に書かれた示現はまったく歴史的事実と相容れないのです
_(#‥# ) ナルホド
そんなことを考えていらっしゃった。日本では稀有な存在ですね。
明治、昭和、平成、令和にどれだけの版があって、異なる表現は
幾つあるのか。
まずはその洗い出しからですかね。
教義と誓約(聖約)もありますが。
ただまぁモルモン書の場合実質対応する英文が実質上の
原点なので、聖書よりは単純ですか。
差別用語への対応、KJVと口語訳との差異、行いを強調するか恵み・信仰を強調するか。などでしょうか。
https://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/ca6a289573d60af5c8765dcb95738e8e
「人は如何ばかり勉め励むとも、其救わるるは偏(ひとえ)に神の恩恵に頼る(よる)」(ⅡN 25:23)明治42年訳
「人がどんなに勉め励んでも、その救われるのはひとえに神のめぐみによる」(ⅡN 25:23)昭和32年訳
「それは人が最前をつくしてはじめて、神のめぐみにより救われることを知っているからである。」(ⅡN 25:23)昭和訳(後期?)
「わたしたちが最善を尽くした後、神の恵みによって救われる」(ⅡN 25:23)平成7年訳
「わたしたちが自分の行なえることをすべて行なった後に、神の恵みによって救われる」(ⅡN 25:23)平成21年訳
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こうして並べてみると、やはり原典(英文のモルモン書)を忠実に反映しているのは初期の訳のような気がします。
生田長江さん(名のある専門の英学者)、言語学者であるNJさんもそう判断しているのでというのもありますが、
すぐその下の25節にはこうあります。
それゆえ,律法はわたしたちにとってすでに無用となって,
わたしたちは信仰により,キリストによって生かされている。
それでも,神の戒ましめに従たがって律法を守まもるのである。
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つまりこの2ニーファイ25章全体が律法の行いよりもキリストの恵みを優先してますからね、やはり初期の訳の方が理解しやすい。
BofM(日)に見える文言変更の理由について書きましたが、それは憶測ではないか、教会は何も言っていない、とコメントされました。
憶測と言われても仕方ないかもしれません。聖書協会の場合、改訂される毎に冊子を出して説明したり、翻訳に関する刊行物を出して広報・啓発を行なったりしています。2018年に冊子「聖書協会共同訳について」を出して、翻訳方針を掲げています。その一つに「言語、文化、社会の変化に対応する」という項があります。
lds教会の場合、内部の研究者や外部のメディアが文言、表現の変更について反応しますので、教会も同じ改訂の理由から聖典の文言・表現を改訂したな、と判断したわけです。私は思われると書きましたが、確かな判断だと考えています。
1985年に英文のモルモン書が一部変更されました、レーマン人が「白くなる」(white)との表現を、「純粋になる」(pure)、に変えたのですね
当時この出来事はアメリカの教会機関誌 Ensign にも掲載され、大管長会からは、ジョセフの初期の原稿の表現に hark back した、と説明がありました
ところが日本はどうでしょう? そんなこと誰にも知らされませんし、誰も知りません、そんな話をしたところで誰も関心を持ちません
普通なら、教会に誠実な対応を求める!って怒るべきところでしょう、アメリカのモルモンはそうです、だから教会も機関誌で公表するのです、しかし日本のモルモンは・・・
このリベラルなブログのコメント欄でさえ、教会の問題点を書き込むとイエローカードです、何も言わない大人しい人しか日本ではモルモンでいられない、そんな状況だから教会は日本人会員に対して何も情報を提供しないのだと思います
この「リベラルなブログ」の主宰者はそのカードを見せた同じ人物だったのですよ。
矛盾は私にもありますが、あじフライさんにもありますね。気を付けて共同の働きができればと希望します。
古代の教会員・聖徒の律法に対する態度が真逆なのが面白い。
ローマの教会員はモーセの律法を守らねば救われない。と思っている人々に向けて書かれている。
だからこそ、モーセの律法の行いでは救われない、恵みによりたのむことでした救われないと強調した。
(インステのテキストには現代の信仰のみなキリスト教徒を見たら、逆に行いの大切さを強調したに違いないと書かれています。)
一方モルモン書の聖徒は我々にはモーセの律法はもう無用だが。。とキリストの恵みを理解しながらモーセの律法を守り続けていた。
(これは現代の末日聖徒の戒めに対する理想的な態度を示しているのかもしれない。)
末日聖徒の新正統派という言葉が出てきます。
うん。そうだ!新正統派に賛成。
https://www.mrm.org/2-nephi-25-23
”The LDS Bible Dictionary”では「永遠の命と昇栄」に至る恵みは、「受け取る側の全面的な努力がなければ」不十分であると述べています。
恵みは受け取る側の全面的な努力がなければ十分ではありません。
したがって「わたしたちが自分の行なえることをすべて行なった後に、神の恵みによって救われる」(2ニーファイ25:23)
という説明が成り立ちます。
神が私たちに惜しみなく与えてくださる祝福をすべて得るために、
キリストの条件に従ってキリストのもとに来なければなりません。
わたしたちはキリストを思い出し、主との聖約を守り、主の戒めに従うために『できるすべてのこと』を行うことによってキリストのもとに来ます。
(教義と聖約20:77、79参照。アブラハム3:25も参照)」
(2ニーファイ25:23)確かに、私たちは世の救い主の贖いの血によって救われますが、
それは各人が自分の救いを達成するために全力を尽くした後でのみです…
------VS-------最近の新正統派、修正主義的な解釈
「After」は時間を表す前置詞ではありません。
ニーファイ第二25:23の前置詞 "after "は、時間の前置詞ではなく、分離の前置詞であると私は理解しています。
それは時間的な順序ではなく、論理的な分離を表します。
私たちは「私たちができるすべてのことから離れて」、あるいは「私たちができるすべてのことにかかわらず」、
あるいは「私たちができるすべてのことにかかわらず」、恵みによって救われるのです。
多くの理由から、モルモン教徒は一般に「後」という言葉を時間の前置詞として受け入れてきました。
"ときどき私たちの耳に響く聖句の一部は、"私たちにできることはすべてやった後 "であり、
私たちは何とかして十分であろうと人生を急ぐ。しかし、その聖句が私たちに語っているのは、
私たちの努力では決して十分ではなく、私たちは愛の記念碑的行為によって救われるということなのだ。"
ーーーーー
灰のための美しさ: イエス・キリストの贖罪
エンサイン1990年4月ブルース・C・へーフェン
教会員の中には、たとえ継続的で立派な努力をしているにもかかわらず、
私生活の状況で落胆して重荷を感じている人もいます。
多くの場合、このような自己失望の感情は、不正行為からではなく、自分のせいではないかもしれないストレスやトラブルから生じます。
イエス・キリストの贖罪は人生すべてに当てはまるため、これらの経験にも当てはまります。
私たちにできることはすべて、救い主は私たちの涙をすべてぬぐうことができます。
ニューズウィーク誌は次のように述べています。「正統派キリスト教徒とは異なり、モルモン教徒は、
人間は罪を犯さずに生まれ、イエス・キリストの恵みによってではなく、自由意志を適切に行使することによって神への道を獲得すると信じています。
したがって、モルモン教の見解におけるイエスの苦しみと死は、他人の罪を償うものではありません。」
(ニューズウィーク、 1980 年 9 月 1 日、68 ページ。)
ニューズウィークが私たちの中心的な教義の要点を見逃しているのではないかと不安に思います。
間違った考えを他人に伝えるのは残念なことです。
しかし、私たちが限られた教義的理解によって、人生の重要な瞬間に切実に必要とするかもしれない安心感や導きを自分自身で否定するのはさらに悪いことです。
クリスチャンの中には、何をしても恵みによって救われると信じている人もいます。
極端に言えば、この教義は自由意志を完全に否定し、神は救うべき人々をその行動や好みにさえ関係なく選ぶことを暗示しています。
こうした注意すべき理由があるにもかかわらず、贖罪を私たちの生活の中心にすることの祝福は、
それに伴うあらゆるリスクを上回ります。
贖罪の広範な意味を習慣的に軽視すると、慰めの安心感を与えずにお互いを離れるよりも害が大きくなります。
なぜなら、自信喪失と霊的疲労で限界点を超えて重荷になり、
単にレースから脱落する人もいるかもしれないからです。
救い主ご自身は、自分が罪に対して寛容すぎる、または甘すぎるように思われることを心配していませんでした。
「すべて働き、重荷を負っている者は、わたしのもとに来なさい。
わたしがあなたたちを休ませてあげます。……わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからです。」
(マタイ 11:28,30)
イエスは,憎しみ,欲望,怒りを消すほど純粋な愛を培うよう追随者たちに求めるという文脈でこれらの慰めの言葉を語られました。
調べてみます。
また、賢くなります。(英語学の資料からも調べて確認したいと思います。)近年の neo-orthodox lds がいるのですね。・・オムナイさんにguide されている!