![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/33/b5/02ac4ffa5adcb50a9a0bd40378a8dfe0_s.jpg)
LDS教会の祝福師であり、歴史学者であるリチャード・ブッシュマンは、最近参加したファイヤサイド(談話会、6月)の質疑応答で次のように語った。
質問者: モルモニズムの起こりに関して、複数の物語(narratives)が許容されると思いますか。それともこの教会が強い宗教として残るためには、現在定着している [正統な] 物語を語り続けなければならないと思いますか。
リチャード・ブッシュマン: この教会が強い宗教として残るためには、教会の説いてきた物語を構成し直さなければならないと考えます。定着している物語は真実ではないし、それを言い続けることはできません。教会は新しい情報を全て吸収しなければならない。そうしなければ足元が大きく揺らぐことになるでしょう。それで教会はまさに再構成の作業に着手しようとしています。それは、多くの人たち、特に年輩の人たちに緊張(動揺)をもたらすことでしょう。しかし、語る物語は変わらなければならないと私は思います。
http://www.mormonstories.org/richard-bushman-reaffirms-his-testimony-of-angels-plates-translations-revelations
そのへんが豚先生派とたまWEBの信仰面の切り口の違いとでも・・・
それはともかく、これ、当たってるかも・・・モルモン英語情報で何か役立て得ればうれしいっすよ~~
”頼まれ事が豊かさを・・・今回であれば
明日から来週水曜日くらいまでの間に
人からなにか頼まれごとをしたり何かについて調べたり、
勉強したりしなきゃいけないことになると思うのね。
たとえば、上司から 「これ、調べといて」 って頼まれたり・・・・
ここで頼まれたことややらなきゃいけなくなったことが、
ゆくゆく あなたの 価値 や 評判 を高めることになるはず。
もしかすると、「え、私って こんなことできるんだ~」って、 自分の 意外な適性に・・・”
http://ameblo.jp/hikiyose358/entry-12194241270.html
説明できる人が居ないのではなくて、「言えない」だけだと思いますよ。
何が真相なのかははっきりしているが、それを言っちゃーおしまいよー!
https://www.lds.org/topics/accounts-of-the-first-vision?lang=jpn
最初の示現では、高価な真珠版(1838年)は、シドニー・リグドン副管長らの協力を得て出来上がったもので、1832年版のが、彼の自筆原稿もあり真相っぽいとかって言ってますかぁぁ・・・
http://trevorprice.net/2014/01/02/richard-bushman-on-the-first-vision-accounts/
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=narrative%20richard%20bushman
英語圏だとおそらく伝統的にはキリスト教文化の影響でヴィジョンの第一義は聖書の意味するところなんでは、現代は一般的には薄れてるんでしょうけど・・・
モルモンは示現という仏教語ですか、借用してきたんでしょうね・・・
ジョセフの最初の示現が、「幻」なら、文句言えないですね。
でも、教会で「ジョセフは幻を見た・・」って言う指導者は居ない様な気がします。
居たとしたらそれは幻?
で、vision はぁ、70箇所以上、英文聖典にあって、その箇所は、日本語で、新約は、全部、幻・まぼろしとなってますかぁ、旧約だと、たいてい、ダニエル書なんか、幻で、他に黙示というのが若干あって、末日
聖典では99%示現かなぁぁ・・・
その意味合いとしましてはぁ、
12:6 彼らに言われた、「あなたがたは、いま、わたしの言葉を聞きなさい。あなたがたのうちに、もし、預言者があるならば、主なるわたしは幻をもって、これにわたしを知らせ、また夢をもって、これと語るであろう。(民数記)
ジョセフ・スミス歴史では、1:24 それでもわたしが示現を見たことは事実であった。とありますので、そういうことなんでしょう。
「現実」か「示現」かと言う質問は、間違った質問でして、聞くならば「その示現は現実だったのですか?」と言うべきですね。
示現と言うのは、仏教用語で、仏様や菩薩さまが、人間の前に現れることですからね。
英語の、「vision」は、「頭の中で描くもの」と言う意味合いが強いのでしょうか?
英語に強い人教えてください。
ただ、どっちにしても、聖典には、ジョセフに神と御子が現れたと言う事は事実として書かれているので、そこんとこを変更するのはちょっと無理が有るような気がします。
と言うか、そこを変更したら、モルモンの存在意義が無くなる。
なるほどです。
モルモン書の扉のページにあった
「このレーマン人がアメリカインディアンのおもな先祖である」
が
「このレーマン人もアメリカインディアンの先祖である」
に変えられたのも、新しい情報を吸収した一例でしょうしアフリカ系黒人=カインの子孫の思想の排除もそうでしょうか。
モルモンは判り得た「真実」に対して常に真摯に対応してきたと思います。
これからもそうであるでしょうし、そうあって欲しいと思います。
その変化を「教会の嘘」という面々の気持ちもわからなわけではありませんが。
普通の会員であれば、定期的にこの質問に答えなければいけない。
モルモン信仰の基本です。
さて、どう答えるのか?
「それは、事実じゃなくて、示現です」
現実の出来事だと主張する方が謙遜な信仰で偉くて、啓示・ビジョンであると信じていたら、正さなければいけない教会員たちということでもないでしょう。
>現実の物語なら事実に即して再構成というのも簡単でしょうが、示現となると難しい側面もありますね。
教会はおそらくすでにどちらの捕らえ方の会員でも尊重する意味でビジョンと述べているのに、どっちが謙遜でどっちが高慢かみたいなことを決めたがる教会員をどのように導くかが、物語の再構成という意味でしょう。
ファースト・ビジョンは"ビジョン"だったのでしょうか?それとも"リアル"だったのでしょうか?
最初の示現は"示現"だったのでしょうか?それとも現実だったのでしょうか?
ステーク会長は「私は現実だと思っています。」とのお答え。
リーダの資質に満ちた素晴らしい信仰だと思いました。
この質問をした時には"ここら"の良いというか悪いというか。。の影響を受けていましたから、示現とかビジョンとか表現してあるんだからリアルな現実の物語とは違うのだろうな、と思い始めていました。
現実の物語なら事実に即して再構成というのも簡単でしょうが、示現となると難しい側面もありますね。
末日聖徒の若い世代はどんな風に受け止めているんでしょうね。
もちろん、青少年くらいまでは「現実の物語」として教えるのが妥当だとは思いますが、ブッシュマンさん的情報は探せば見つかるところに載せておく必要があるでしょうね。
どうなんでしょうね。周囲というか反モルモンは喜んでいっそう馬鹿にしてくるでしょう。
しかし一般大衆にとってより馬鹿にされ易くはなっても、広い意味での社気的な信用はより得られるということはあります。
たとえば昔カトリックさんが運用上、権威のある聖人が残した古文書を支持するあまり、立場上地動説を現代まで否定し続けたことで、信用されなくなってしまい、20世紀の末に改善したことで、ある意味、宗教と科学の本質の理解が進み、その結果洗練されて益となり、世間一般からの信用が回復されたのと同じような構造と思われます。
ついにそこまで来たかという感想です。
問題は過去の指導者がどういう意図で発言してきたかということで、そこは神にしかわからない理由という説明で通さざるを得ないと思います。
いずれにせよ再構築は必要ですが、聖徒は教会がどういう方針を出そうが、それを支持するでしょうから、それなりに宗教活動は続けられると思います。
ただ土台に大きな変更があると周囲は教会をもっと信用しなくなります。
教会にとっては、困難な時代が待っているように感じます。
そのうち『最初の示現』を事実だと思っている会員は信仰が足りない、『金版は実在した』と信じている会員は背教の可能性がある、とか言いだすんじゃなかろうか。
でも相変わらず、大管長はまことの予言者であると支持する・・・そこだけは変わらない気がしますね。かつて反モルモン活動していた知人が言ってましたが「モルモン教会では神を否定しても許される、しかし大管長を支持しないことだけは許されない」と。まさに名言でした。彼の言う通りになっていくようです。
何十年も教会員をやってると教会の主張が180度変わるのを目の当たりにして面白いですね。でも熱心な末日聖徒はそれに気がつかないんです。地表にいる人間が地球の自転に気がつかないのと同じかも知れないですね。私のように教会からちょこっと離れて眺めていると、ああ、すごい勢いで明後日の方向に向かってるなぁってことが見えるんですけれども。
さぁて今日も稀代のエンターティナー、ジョセフ・スミスにならってビールを飲み、葉巻をふかすとしましょうか。
現在の大管長を支持できる成熟した教会員ならば、JSの凝った説明が仮になくても(つまりこれらのものが初心者用のエンターテイメントだとしても)JSが神に召された末日の預言者であることを支持できると思います。
JSやブリガムヤングがもしも地味で平凡な宗教人であったなら、救いの計画の教義はごく少数にしか聞いてもらえず、19世紀の騒動の中に埋没してしまって我々の耳には届かなかったと思われます。
19世紀末のエンターテイメントがなければ、後発のLDSが世界宗教にならない環境であったのなら、エンターテイメントは必要なものという位置づけで良いのではないかと思われます。
後半部(3行)、もちろんです。
そのとおりだと思います。
末日聖徒イエス・キリスト教会はそれを繰り返してきたからこそ、成長を続けてこれたのでしょう。
聖徒もそうであるべきだと思います。
ここで言う祝福師は、教会の役職のことですか?
それともエバンジェリストって意味ですか?
いずれにせよ教会がウソをついてきたことを認めるのは賛成ですが、その理由を教会員が勝手に勘違いしたのであって教会も幹部も悪くないのだという落としどころにするつもりなら許せませんね