ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

タスマニア行:世界遺産ポートアーサー史跡

2024年02月29日 | オーストラリア:タスマニア

2023年3月のタスマニア2日目


世界遺産ポートアーサー史跡



この地の流刑植民史は1830年
に質素な木造の建物として始
まり、1833年に流刑施設とな
るやその重要性が急激に増し


1845年には流刑囚が4階建て
の製粉所兼穀物倉庫を建設。

(※写真は1870年代)


1840年代の受刑者数は1,100
人にのぼり、1854年には製粉
所兼穀物倉庫の刑務所への改
築工事が始まり1857年完成。



格子窓に刑務所を感じます。



同年に2階建ての台所や洗濯
場も増築され、時計台も設置

その後も増改築が続きます。


建物は自由に参観できます。



改築により、1、2階には各
136室の独房が設けられ、重
刑の素行の悪い囚人を収容。



人1人が横になるのが精一杯
な大きさだったようです。



3階は食堂、図書館、教会で
夜間は学校に。4階は素行良
好な囚人348人の寮でした。



当初7年間1862年頃まで、こ
こはトイレのある休憩場兼運
動場で、囚人たちが仕事後の
時間や週末を過ごしました。



1862年以降、施設が閉まるま
での15年間はトイレを撤去し
てレクリエーションルームに


素行良好な囚人は喫煙もでき
1815年のワーテルローの戦い
戦勝記念パイプも発掘され当
時の暮らしぶりを知ることに



1870年の報告では、11ヵ所
の風呂にはタオル、石けん、
櫛も用意されお湯も出たそう


しかし、ここが刑務所である
ことには変わりなく、夏場は
4時45分、冬場は6時15分起
床で1日重労働に駆り出され



看守への不服従や粗暴な言葉
使いでも処罰がありました。



ここを出て自由になるには長
く厳しい道のりがあり、その
期間と労力こそが、植民地建
設を推し進めるカギでした。

(※流刑囚が焼いたレンガ)



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