不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

さあ~てと 帯しめましょか。

人生、山あり谷あり
向かうはわが身の置き場所よ。
帯締め、気を染め、往きましょか・・・  ~part 2~   

御訪問者の皆様へ

ようこそ、いらっしゃいました♪ いつも御訪問頂きありがとうございます。 訳あってコメント欄閉じていますので、《おしゃべり広場》は閲覧のみとなっております。 本年もよろしくお願いします。

      

家紋 11 ≪桐紋≫

2011年04月28日 09時28分00秒 | 家紋

 

桐紋 
(きりもん)

  

朝廷から下賜された名紋

 

images           images         images 

五七の桐       中輪に五三の桐       五七の桐に笹

 

images                 images   

桐車             五三鬼桐 

 

五三の桐 は ≪家紋4≫で呉服屋さんの陰謀かも知れないという

記事を書いたが、桐自体を書いていないようなので補足しておこう。

 

家紋の由来  

 リンク(主な使用家)

HP:KAMON WORLD様より~
いつもお世話になりありがとうございます。

 

 

皇室の副紋とされる桐紋は格式の高い紋章

後醍醐天皇足利尊氏に下賜された史実は、

朝廷の
御紋章として鎌倉末期に確立していた証拠でもある。 

尊氏は、拝領したこの桐紋を、一門の吉良細川新田

今川、山名、一色、斯波、畠山 
 などの諸氏に分け与えた。 

 豊臣秀吉も同様に、下賜された桐紋を多くの将士に与え、

いに普及させた。が、菊に継いで最も名誉ある紋章は、

武将の憧れの的であった。地方豪族の中には、いろいろな

理由をでっち上げて、この紋を使った者もあった。

 

〔『応仁後記 』には大河内備前守が遠江と三河の武士を集め、

菊一揆と称し十六葉の菊を用いたとある。これは皇室から下賜 

されたものではなかった。こうした不逞のやからが増え出すと

 あわてた皇室では、禁令をただちに発布した。天正十九年、

『多門院日記』 6月7日の記述には 、菊や桐の紋はつけては

いけないと、 奈良じゅうに御触れ書きが出た、とある。〕

 これが天正十九年の「菊桐禁止令」である。

ついに秀吉も”禁令”を発して、その無断使用を厳禁した。

*****************************************************

文禄三年(1594年)八月三日
『豊臣氏大老連署掟(おきて)追加』

 一、衣裳紋御赦免以外、菊・桐つけるべからず、御服拝領者
 においては、その御服所持の間は、これを着るべし、
染替、別の衣裳に御紋を付けるべからずの事、

 
この掟によると、限られた人々の衣裳の紋所には菊花紋と桐紋を
特に許可され、免許された特殊の人々以外は一切の使用禁止。
特許を蒙った本人のみで、当然、その家族・一族には及ばない。
また免許にも厳しい制約が設けられていて、「御服拝領者」とは
紋付の御服であるから、拝領の一着限りということになる。
免許は生涯着用の資格までには至っていないのである。

この法令は、菊花紋取締りに仮托した豊臣家の太閤桐を擁護
することによる太閤秀吉の権威の確立政策の一環であった。

*****************************************************

豊臣家滅亡後も

桐紋は天下の大紋として栄え、現在でもベスト5 に入る。

 

また、秀吉の養子となった結城秀康(家康の次男)系

越前家一門は、姓は松平氏であっても葵を用いず、桐紋を使用し、

豊臣朝臣(とよとみのあそん)”のシンボルを受け継いでいる。

桐紋は、花の数によって ”五三の桐” ”五七の桐” に分類する。

桐はゴマノハグサ科の落葉高木、スミレ色の花は下むきに咲く。

中国の伝説では鳳凰の住む聖樹 とされている。

 

 

「見る知る楽しむ 家紋の辞典」 真藤 建志郎著より

2008-07-06 20:40:20 記.

 

〔 〕内を追記致しました。ーー「家紋総攬図鑑」よりーー
2008-07-26 18:07:00 追記
 

******** から********までを追記致しました。
「日本紋章総覧」(歴史読本歴史百科シリーズ臨時増刊'74-12)より

 

 

 

コメント (20)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家紋 29 ≪椿紋≫

2011年02月28日 16時01分00秒 | 家紋

椿紋
(つばきもん)

 縁起の悪い「椿紋」 

ツバキは、春を飾るまことにあでやかな植物。
なので昔からも着物や帯、調度品などに良く見かける
文様であるが、いざ家紋となれば見当たらない。

 椿の花は、突然「バッサリ!」と落ちる。
これが、人間の首が落ちるに似て武士には嫌われる。
家紋にも採用されないゆえんなのだそうだ。

ところが、
山脇東洋という幕末の医者がこれを用いている。
この人は、日本で最初に人体解剖をした有名な人。

 今の京都市中京区六角大宮西六角獄舎で、
14人(男10人、女4人)の首の無い刑死体を腑わけした。
宝暦4年(1754)、彼が五十歳の時であるが、
西洋人の解剖図によく一致しているので、深く感動した。
五年後にあらわした『蔵志』には、その感想が載っている。


昭和45年発行  歴史読本臨時増刊
歴史百科シリーズ『日本紋章総覧』
 「家紋採集の旅」 丹羽基二:記 (特別読み物)

~~~ より以下引用 ~~~

山脇家は代々医者であるが、家紋は千葉椿(八重椿)紋である。
ところが、この千葉椿の実形が未だにわからない。いわば幻の
紋だ。ところがあるとき、教え子の結婚式で、一席をやって着席
すると、隣席の山脇さんという人が、心安く話しかけてきた。
いろいろ伺ってみると、この人が山脇東洋の末孫。
いま、芸大の教授をしていらっしゃる山脇洋二先生だ。

「お宅の千葉椿紋は、カタチがわかりますか。」
「確か、古いつづらか何かあったはず。探してみましょう。」

ということで、頂いたのが下図の「千葉椿」。

千葉椿紋



花弁を見ると十四枚、首を切られた十四人の数と同じ。
この十四人の戒名の刻まれた墓は今、京都の誓願寺に
あるが、その一つに「利剣夢覚信士」とある。首を切られた
人たちが自分の迷いを覚ましてくれたという意味か。

千葉椿は、
東洋の人体解剖を記念した創作紋ではなかろうか。

~~~引用終わり~~~

  

椿紋で検索すると、
【椿紋の由来水天宮】と出てきた。

第八十代天皇の高倉天皇と建礼門院の皇子として、
治承2(1178)年にお生まれになり、生後まもなく立太子となり、
数え三歳にして第八十一代天皇に即位された安徳天皇。

歴史には安徳天皇は、御年わずか五歳の生涯を閉じたと
記述されているが、言い伝えとして、官女の按察使局に
守られて筑後に潜幸されたと久留米に残っているらしい。


その安徳天皇と玉江姫の恋物語の由縁から、
椿の花が神紋になったとされる。

画像は「水天宮」のHPを参考にしてください。→ 「椿紋の由来」

 

 




ご訪問の記念に、1クリック募金のご協力を!
 ↓↓↓
 
クリックで救える命がある。 
いつもありがとうございます!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菊紋に込められた願い

2011年01月18日 16時00分00秒 | 家紋

≪なぜ菊紋は天皇紋になったのか?≫

それは不老長寿の薬草として、
中国から伝えられたことによるといえる。

『万葉集』には菊を詠んだ歌が一首もない。
但し百代草(ももよぐさ)として、小輪の花が
歌われているのが野菊とみられている。
もともと日本にも野菊は自生していた。

天皇紋の菊紋は小菊ではなく大輪の菊である。

日本にもたされたのは桓武天皇の時代とされる。
延暦十六年(797)十月の歌会に、
天皇はこの花を諸侯に鑑賞させている。

『日本紀略』(平安末期の史書)
「曲宴。酒を楽しむ。皇帝(桓武天皇のこと)歌っていわく。

『この頃のしぐれの雨に菊の花 散りぞしぬべきあたらその香』」
と記す。 

中国から来たこの大輪の菊は、酒に浮かべて飲むと、
不老長寿の薬になると信じられた。
菊は翁草・千代見草・齢草(よわいぐさ)とも呼ばれ、
桓武天皇に始まり、多くの天皇家がこの花を愛した。

 

 

翁草(おきなぐさ)は長寿をもたらす花という
「菊慈童(きくじどう)」の伝承が、
中国から美しい大輪の花と共にもたされた。


≪菊慈童伝承≫
甘谷(かんこく)の菊水(咲き競う菊花の露が落ちた水)

を飲んで菊慈童は七百歳までも生きたというもの。
| |
大輪の菊は長生きの妙薬とされ、菊の花を酒に浮かべて
飲む菊花酒は、桓武以降の天皇が好むところとなった。

 桓武の子、嵯峨天皇も菊花を仙薬として重視
「神仙の霊薬をめで喜び、俗世間の世情を忘る」
と漢詩にも詠んでいる。


≪最も菊の魅力に取り付かれたのが後鳥羽上皇≫
衣服・牛車・けんのはばき(刀身が抜けないように締める金具)

から懐紙にまで菊の文様を用い、菊帝と呼ばれた。
後鳥羽上皇が「承久の変」(1221)で敗れ、
隠岐にに流され不遇な死を遂げた半世紀後、
後深草、亀山、後宇多の三天皇によって、
菊は天皇紋となったのである。
 

十六ヵ弁菊花の紋は
不老不死の精神を根本として誕生したのである。


 

『紫式部日記』
紫式部が九月九日の重陽の節供にちなみ、
自分が仕える中宮の母、つまり藤原の道真の妻である
倫子(りんし)から「菊の綿」をもらったことが出てくる。

≪菊の綿≫
重陽の節供から当日にかけ、菊の花の露と香りを綿に

移し、その綿で体を拭くと、老いないとされた。これを
「着せ綿」といったが、紫式部はこれをもらって歌を詠んだ。

「菊の露わかゆばかりに袖ふれて 花のあるじに千代はゆづらむ」

≪意味≫
菊の露に染みた綿に、私はほんのちょっと若返るほどに

袖を触らせていただくだけにして、千年の寿命は、花の
持ち主でいらっしゃる倫子様にお譲りいたします。

道長の屋敷の庭には、大輪の菊が咲き競い、
宴ではその菊を酒に浮かべて飲んだ。
貴族は美しく見た目も良い長寿の花と信じられた菊を
こぞって栽培した。

その究極にいた西園寺(さいおんじ)家の庶流が今出川家で、
今出川兼季(かねすえ)は、庭一面を菊で埋め尽くし、
以後、子孫は家名を菊亭とするのである。


 

≪徳川幕府≫

 幕府は重陽の節供を五節供の一つに定めて
武家の祝日として重視し、
大名は江戸城に総登城して祝った。
大名は大奥にも紅白の丸餅に
菊花一枝を添えて献上するのが慣例だった。

 


 

~「家紋17 ≪菊紋≫」へ~


『あなたのルーツがわかる 日本人と家紋』 楠戸義昭:参照

 

 

 

 

ご訪問の記念に、1クリック募金のご協力を!
 ↓↓↓
 
クリックで救える命がある。 
いつもありがとうございます!

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家紋 28 ≪久留子紋≫

2010年09月11日 15時02分30秒 | 家紋


久留子紋
(くるすもん)


もともとは十字架の形からデザイン化されたもの
キリスト教のシンボル



久留子はポルトガル語のクロウズスで十字架のこと。
キリスト教が我が国に伝来したのは、天文18年(1549)。
ポルトガル人フランシスコ・サヴィエルが鹿児島に上陸して以来
わずかの間に信者は数十万に及んだ。上は大名から下は百姓
町人に至るまで、当時やたらに胸で十字をきったらしい。

坊主の横暴を憎んだ織田信長の腹いせもあるらしいが、
当時京都の南蛮寺をはじめ、近江安土、周防山口、豊後府内
などにはキリスト教の寺院、会堂、学校等が建ち並び、大いに
この新興宗教が流行した。これらの寺院の屋根瓦や鐘、墓碑
などには十字架が据えられ、高々とキリスト教が宣布された。

また、彼らは武器、馬標、旗印、陣幕にも日本の家紋と同じ
ように使い、自分達の信仰を誇示した。しかし、それはほんの
わずかの間で、やがて厳しい弾圧の時代に転じた。

日本西教史」によれば、慶長15年大坂籠白の兵士に
十字架の旗を用いたものがいる。これは、切支丹の兵士
が禁令を解いてもらう約束で大坂方に味方したものである。
計画は豊臣氏の敗北で水泡に帰したが、それから23年後の
寛永15年(1638)島原・天草島に再び十字架の旗が翻った。

徳川氏が徹底した鎖国主義をとったのはこの後であるが、
それでも秘密に信仰した隠れキリシタンもいた。
マリヤを観音様に、十字架を轡紋十の字紋と偽ったり
して密かに信仰していた。


【 形 】

原形・・・十字

マルスター形(十字の先に切り込みがある)・・・切り竹久留子

アンドリウス形(※直〈筋〉違(すじかい))・・・丸に直違

花形(先が錨のように三分されているもの)・・・花久留子

桛(かせ)形で囲ったもの・・・丸桛木、丸に桛木(=中川久留子


祇園守のように十字架の一部を取り入れた
ものや、島津氏の「丸に十文字」と
外見はなんら変わらないものも存在した。




                 
     花久留子              四つ子持ち久留子



             
 切り竹久留子       中川久留子      変り花久留子菱
  (丸に桛木)



≪ ※ 直違(すじかい) ≫
筋違ともかく。二本の線を斜めに交差させたいわゆる×印で、
違棒ともいう。普通は建造物の柱の間に入れた材木をさすが、
江戸時代領地や財産の没収刑の目印に用いられた。
交差する線の面白さが紋章の起こりとされている。


≪ ※ 桛木(かせぎ)≫
かせぎとは、つむいだ糸を巻き取る「エ」字形糸巻きのこと。
桛木紋は、簡略化したカセギを縦横に重ねたもので
キリスト教信仰をカムフラージュする目的でも用いられた。
馬の轡に煮ているので轡紋とも言う。

 

家紋の由来

 

いつもお世話になっている↑↑家紋ワールドさんです。
いつもありがとうございます。


 

戦国時代、摂津地方の豪族
池田高山中川伊丹能勢枚岡
の諸氏が教徒として十字架紋を用いた。


その他、備前、因幡の両池田氏
筑後の立花、有馬氏など。






家紋大図鑑』(秋田書店):参照
見る知る楽しむ 家紋の辞典』 真藤建志郎著:参照

 

 






ご訪問の記念に、1クリック募金のご協力を!
 ↓↓↓
 クリックで救える命がある。 
いつもありがとうございます!

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家紋 27 ≪轡紋≫

2010年09月10日 12時50分00秒 | 家紋

轡紋
(くつわもん)


馬具の轡をデザインした紋章
尚武的意義

【 読み方説 】
① 口喰(くちば)み説 → 馬の口に含ませる鉄の口金から
② 口輪(くちわ)説 → 口にかませた輪から


銜(はみ)と呼ぶ棒状の金具を馬の口にかませ
面繋(おもがい)で頭に止め、銜の両端にある
引手鉄(がね)に手綱をつけて馬を操縦する。
引手鉄には輪(轡の鏡板)がついている。

紋章となったのはこの轡の鏡板である。

武家の轡にはたいてい丸形の中に十文形
がつけられているが、変化形もあった。

S字形・・・・・唐鞍轡
杏葉形・・・・・掛け轡
菱形・・・・・菱轡





                      
      陰轡菱         待ち合い轡



                              
                             月輪に豆轡         轡             卍轡          


            
                  三つ重ね轡           花轡     




    家紋の由来

 

いつもお世話になっている↑↑家紋ワールドさんです。
いつもありがとうございます。


 

江戸時代、キリスト教信者の疑惑を避けるため
十字架や十文字を使っていた武将は
「轡」と幕府に届けたり紋帳に記したりしたが、
紋章学上は、発生が違うので正しい分類ではない。


島津氏・・・「丸に十文字」

平氏維将流 島崎氏・・・花クルス紋(花轡紋) 

豊後中川氏(清和源氏頼光流)・・・クルス紋(十字架紋)
を、『寛政重修諸家譜』に「轡紋」として届けている。



【 轡紋を用いている諸氏 】

『見聞諸家紋』・・・小笠原氏流の大草氏「掛轡紋」
               祖先の三郎左衛門公経「三階菱の掛轡」
『寛政重修諸家譜』における大草氏は八家に及ぶ。
 
その他、島崎、後藤、浅井、島、久保田、下田の諸氏。







(「仏教の話 ☆ 11≪江戸宗教政策≫」私のブログ参照→こちら


家紋大図鑑』(秋田書店):参照
 『日本家紋総覧コンパクト版』編集 能坂利雄:参照 


 

 







ご訪問の記念に、1クリック募金のご協力を!
 ↓↓↓
 クリックで救える命がある。 
いつもありがとうございます!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家紋 26 ≪蝶紋≫

2010年08月29日 16時03分00秒 | 家紋

 

蝶紋

(ちょうもん)

 

艶麗優美な姿態の千変万化
蝶紋は、桓武平氏の代表紋


昆虫の蝶をデザインとして紋章として用いたもの。
胡蝶の場合は、胡(=西湖)から異郷の蝶を意味する
らしいが、小蝶を胡蝶に置換えたぐらいにしか見えない。
 

 平清盛の父貞盛が「天慶の乱」を討伐した功
により、朝廷から鎧を頂戴した。
この鎧に向い蝶(対い蝶)の文様があったので、
これをとって平氏の紋にした、と伝えられる。


平家は、壇ノ浦で滅んだが、残党もいた。
平頼盛は、母池禅尼(いけのぜんに)が源頼朝の命を救った
関係から、六波羅に居を構え、朝廷に仕えることができた。
この一族を“六波羅党”という。


              

変り向い揚羽蝶         剣片喰揚羽          伊豆蝶  

 

               

    揚羽蝶              中陰蔦飛び蝶

 

         

  熨斗胡蝶         備前蝶        三つ反り胡蝶



 

    家紋の由来

 

いつもお世話になっている↑↑家紋ワールドさんです。

いつもありがとうございます。

 

 




『餝(かざり)抄』・・・蝶紋が文様から転じたと見られる資料
「加茂祭り使用車」には「透かし蝶の円」と記があり、
平維盛(重盛の子)が治承の頃用いていたとある。

『大要抄』・・・・・「蝶円は六波羅党 」と記がある。

『雲上明覧』・・・・・西洞院、松平、長谷、交野、石井の五公家



武家では、六波羅党の平氏が蝶の丸を用いている。
戦国期になって関氏、一門の亀山、神戸、峯氏らが使用。
桓武平氏では伊勢氏、つづいて織田信長。
江戸期になって大名、旗本など約三百家が用いた。




  蝶紋は、その描き方のスタイルで五つに大別できる。

① 飛び蝶
② 揚羽蝶(とまったポーズで羽を揚げる)
③ 蝶丸(輪蝶)
④ 胡蝶(真向きのもの) 
⑤ 浮線蝶、などの変形







見る知る楽しむ 家紋の辞典』 真藤建志郎著:参照
 『日本家紋総覧コンパクト版』編集 能坂利雄:参照 




 



 

ご訪問の記念に、1クリック募金のご協力を!
 ↓↓↓
 クリックで救える命がある。 
いつもありがとうございます!

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寛永通宝紋

2010年05月23日 19時10分00秒 | 家紋

.寛永通宝紋


寛永通宝は徳川初期の寛永年間に鋳造された通貨。
幕府は最初、江戸浅草・江戸芝・近江坂本の3箇所で
「寛永通宝」の生産を開始。その後、佐渡、京都、石ノ巻、
足尾、仙台、大坂、長崎など全国数十箇所で鋳造された。

詳しくはこちらのサイト様へ
↓↓↓

 様の「寛永通宝」



使用家は
「寛政重修諸家譜」によれば、藤原氏流の福島氏。

伝に福島氏の祖・正勝が、東照宮に参拝し、
社殿にぬかずいた時、偶然 寛永通宝が
懐中より転がり出、広げた扇の上にとまった。
そこで、「これはおめでたい」とばかり、
以後、この形を家紋にしたという。




『家紋大図鑑』:参照


家紋 25 ≪銭紋≫へ戻る。





ちょっと気になるリンク集

そうそう、そういや~寛永通宝って
見たことあると思っていたのよね~。
で思い出したのがこれ!

小学生の時からずーっとみてたっけ!
「あの投銭は回収するのだろうか?」
「紐が付いてて引き戻すねん。」
とかいうお笑いもあったような…?

ほんと、懐かしい~♪




 様より変な寛永通宝

貨幣一覧
資料出典:日本銀行金融研究所 貨幣博物館等



銭形平次 主題歌
http://www.youtube.com/watch?v=4M3UjvDLp7g&feature=related
  (2011.11.8 動画を変更致しました)

大川橋蔵さんが銭形平次をはじめたとき、
それまで一番人気だった長谷川一夫さんの
強烈な印象があったようですが、
私はこの大川橋蔵さんからしか知りません。

1966年5月4日~1984年4月4日
までの18年間ついついみてましたね。

 

 




ご訪問の記念に、
1クリック募金のご協力を!

     ↓↓↓
クリックで救える命がある。 
押してくれたら嬉しいな~♪

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永楽通宝紋

2010年05月22日 16時28分28秒 | 家紋

1.永楽通宝紋

中国において、明の成祖の永楽年間(1403~23)に造られた
永楽通宝銭を紋章化したもの。これが日本に輸入されたのは
足利時代で、当時我が国では久しく貨幣の鋳造がなかったから、
便宜上用いているうちに紋章に採用された。



初めて文献にあらわれたのは「羽継原合戦記」。
永楽の銭は三河国水野の紋≫とある。



戦国時代に織田信長が旗紋にこの「永楽」の文字を用いている。
部下の将士にも大いに分け与えた(仙石氏、荒尾氏、黒田氏)。
水野氏(徳川家康の母・於大の方の実家)もやはり信長に賜った
(信長より古くから使っているとの説も有)が、その子孫の代に
徳川家康に見つかり、「(永楽通宝)の文字を除くべし」と言われ、
仕方なく水野氏はそれに従った。


信長の用いた「永楽」の文字が家康にはよほど気になったらしい。
今、水野氏の紋を見ると「永楽通宝」の替紋として
「裏永楽銭」を用いているのがそれである。


その他「永楽銭紋」使用の諸氏
   源氏系・・・・・松平氏、奥村氏、本郷氏
   小野氏流・・・永見氏
   丹治氏流・・・
中山氏





  『家紋大図鑑』:参照





家紋 25 ≪銭紋≫へ戻る。







ご訪問の記念に、1クリック募金を!
↓↓↓
クリックで救える命がある。 
押してくれたら嬉しいな~♪


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家紋 25 ≪銭紋≫

2010年05月17日 17時48分00秒 | 家紋


 銭紋
(ぜにもん)

銭は訓では「ゼン」というが、これは音の
「セン」が「セヌ」になり、「ゼン」に転じたもの。
銭紋が初めて文献に現れるのは、
「蒙古襲来絵詞」の『
連銭』。




             
 寛永銭       天保銭     六つ念じ銭


               
    青山銭        六連銭(六文銭)


真田六文銭は地蔵信仰による六道銭!

真田氏は、三途の川の渡川料として
六文銭をいつも所持するという秘話からくる、
先陣の旗などで決死を表したものという。
≪六道=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天井≫



【有文銭紋】・・・文字が書かれているもの
             「永楽」などの瑞祥的理由から。
① 政和通宝(中国製)
② 永楽通宝(日本製) 
③ 寛永通宝(日本製) 
④ 康熙通宝(中国製)


【無文銭紋】・・・文字が書かれていないもの
         信仰的理由、文字の省略。
① 裏銭  
② 三文銭
③ 六連銭  
④ 八連銭  
⑤ 銭九曜




  家紋の由来

 

いつもお世話になっている↑↑家紋ワールドさんです。
いつもありがとうございます
 

 



≪ 銭 ≫

古代には稲米、布帛、、家畜、勾玉、鏡、剣
などの現物が用いられることが多く、稲米と布帛は
法定鋳貨の出る鎌倉期まで一般に使用された。

天武天皇の頃、銅銭が使用されたとか、
朱鳥八年(694)鋳銭司の置かれた伝承はあるが、
最初の鋳貨は和銅元年(708)の「和銅開宝」といわれる。
その後、平安末まで十二種の鋳銭を「皇朝十二銭」と呼ぶ。

銭は唐制にならって、1文を単位とし、千文を一貫。
しかし、日本の銭は人気が無く、十世紀にやむなく廃絶。
十二世紀に、中国の銅銭(鎌倉期の宋銭、室町期の明銭)
が輸入され、これに諸国の私鋳銭が加わり、
十五世紀辺りまで続いた。

天正、文禄、慶長のころには、ようやく国家権力が統一
されて諸通宝が鋳造され、金・銀の半金が登場した。
江戸期には、金座、銀座、銭座の貨幣発行機関が
開かれ、貨幣の統一を実現。


『家紋大図鑑』:参照

 『日本家紋総覧コンパクト版』:参照





ちょっと気になるリンク集


「音読・日本の絵巻」
by:  楊 暁捷 (X. Jie YANG)様


 様より「永楽通宝の謎」
永楽銭は嫌われたり好まれたり、大小いろいろな
サイズのものが唯一残っている銭とのことです。


戦国武将 家紋ロータリーキーホルダー
真田幸村六文銭紋


 

 

 






ご訪問の記念に、1クリックを!
押してくれたら嬉しいな~♪

↓↓↓
クリックで救える命がある。 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家紋 24 ≪餅紋≫

2010年03月26日 00時10分00秒 | 家紋

餅紋

(もちもん)

 

石高加増の縁起かつぎ!

 

餅を紋章としたのは、

古くから餅が、神祭や祝儀の際に用いられた

めでたいものとされてきたからである。

特に「黒餅」は〈こくもち〉とも読め、

先陣ではよく出したから≪石持(こくもち)≫に通じ、

石高加増の幸先よしと縁起をかついだものである。

「白餅」「枡に餅」「水に餅(一名月水)」など。

餅の中に他の紋も組み込んだ紋もある。

いつの間にか、黒餅・白餅・月の区別も混乱した。

 だから、餅を月と呼んでいるところもある。

  

もっとも、かなり古くから黒・白に関わらず、

「餅紋」を「石持」と呼ぶようになっていたらしい。

基本は、白あるいは黒の円形だが、

他の図形をこの中に入れたものもあり、

二つ重ねた「重ね餅」、「菱餅」もある。

 

 

         
菱餅           白餅              黒餅
     

       
石持地抜違い鷹の羽                 重ね餅      

 

「白餅紋」

「城持ち」を表すといわれている。
 

① 近江西大路藩主市橋氏
「三つ盛り菱」「柊に打ち豆紋」と併用。 

② 備後福山藩主阿部氏(⑤)の分家、上総佐貫藩主阿部氏
「丸に左重ね鷹の羽」と「白餅」を併用。

③ 同じく(=⑤の分家)磐城棚倉藩主阿部氏
「白餅に違い鷹の羽」に「中輪」を併用。

 

 

 「黒餅紋

「石持ち(こくもち)」として多くの土地を持つ
ことを意味する。


④ 福岡藩主黒田氏
 「藤巴紋」に「黒餅」を併用。 

⑤ 藤原北家八田氏の後の備後福山藩主阿部氏
「丸に右重ね鷹の羽」と「黒餅」を併用。

⑥ 武蔵七党丹治党加治氏の末の上総久留里藩主黒田氏
「黒餅の内に木瓜」と「枡に月」を併用。

⑦ 羽前ノ山藩主松平氏
「黒餅の上に酢漿草」「五三の桐」「山桜」を併用。


 旗本では、浅野・島田・竹中・谷・黒田・

五十嵐・筑紫・市橋・阿部の諸氏が用いた。 

 

 

  家紋の由来

 

いつもお世話になっている↑↑家紋ワールドさんです。

いつもありがとうございます。

 

 

【 追記 】

餅は、①黐(もち)のようにねばる、

②もとは丸形のもちが多いので望(もち)の意、

③腹もちがいい、④持ち運ぶに便利な飯(いい)

などの諸説がある。

また、餅紋は、ふつう外郭として用いられ代表家紋はない。

 

 

 

   『家紋大図鑑』;参照

 

 

「石持紋」は、

留袖の既製品を作るためのものと思っていました。

着付け関連の本家紋の本には、

そのような説明しか載ってませんでした。

今の時代は、普段の家紋で「白餅紋」「黒餅紋」を

使っている人を見たことがありませんでしたし、

自分が持ってる家紋の本にも載ってるのがありませんでした。

今勉強してる古文書がらみで、「石高」がよく出てきます。

なので、「石持紋」が気になっていました。

本当に由来は「石高」からだろうか、と思っていました。

 

しかし、食料の餅からとは思いませんでした。

 そういや、腹が減っては戦は出来ぬといわれるし、

祭りや正月などお祝いの時に良く供えられるもの。

考えてみれば、納得でした。

 

 

 

  『家紋の由来と美』丹羽基二著:参照
 『苗字・名前・家紋の基礎知識』監修・編者:渡辺三男


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リンク