帯結びは、かなり久しぶりです。 今日は、
ひとつの帯結びでの”バリエーション”をみてもらおうと思います。
最後の仕上げの、形の整え方によって
どれだけイメージが変わるかを研究してみます。
さあ~てと、帯しめましょか。
まず、基本型の ≪寿文庫≫ です。
手先で短冊ひだをとって文庫の上に置いたものです。
これなら少し心得のある方ならできると思います。
花飾りは、髪結い用飾りを使ってます。
次に、 ≪リボン文庫≫
手先を少し広げました。感じ変わったと思いませんか
リボンのように見えるので、リボン文庫としました。
名前は適当です。他の本では違う名が
載っていたりしますが、解り易く呼びます。
次に、 ≪花文庫≫
同じく手先を中央より左へずらせて、
交差するようにねじりました。
ほら、優しい雰囲気になったと思いませんか
最後、 ≪舞姫文庫≫
さらに手先をくるりと二段重ねになるように
豪華な感じに仕上げます。
どうですか
かなり、華やかな感じになったと思いませんか
ーーーで全部を並べて、比べてみましょう
どうでしょうか?
1番目と4番目じゃ、同じ結び方とは思えないと思いませんか
これが、変わり結びが無限にできるという所以なんですね。
ひとつも結べないというあなた
ひとつだけしか結べないの、というあなた
ひとつだけでいいから、完璧に基本を覚えましょう
そして、自分だけの帯結びを楽しんでみては如何でしょうか
今日、友達申請をして下さった方がいらっしゃいましたが、
初めて御断り致しました。
なぜなら、「プロフィールわけあって表示できません。」
と出たからです。ニックネームは一応ありましたが、
メールをしようにもプロフィールが出ないなんて
やばい人と思われても仕方がないですよ。
プロフィール表示しないなら自己紹介ぐらい
友達申請メールに入れておいてください。
でないと友達なんてなれっこありませんよ
『ラ・パティスリー クルール』
http://blog.kansai.com/maa/574
去年できたお店です。
めちゃくちゃちいさなかわいい店です。
これは、スィートポテトのようですが、
「焼きモンブラン」 です。
確かにモンブランの味です。
そして、これがプリン。
最近人気が出てるらしいです。
この店の隣にスーパーがあります。
そこも去年同じぐらいにできました。
たまに行くので、一度食べたかったんです。
とろーりで有名らしかったのですが、最初みたときは
固まってないわ、と長いこと冷蔵庫に入れていました。
ゆうちゃんが見つけて、
「これは、こんな柔らかいやつなんやでぇ~」
と、あっと言う間にたいらげてしまいました。
今日は、ゆうちゃんの帰らぬうちに頂きました。
あ~、おいしかった
吾亦紅(われもこう)は2007年2月21日に発売の杉本真人のシングル
作詞 : ちあき哲也作曲 : 杉本眞人
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND57302/index.html
(2010年1月著作権の見直しのためリンクにしました≪2010.1.13.修正≫)
私なりのこの曲に対するイメージです。
母を遠いふるさとへ一人ほったらかして、仕事が忙しいと
あまり帰りもせず、亡くなってから初めて母の偉大さに気付いた。
母は、どんなにほっとかれても、気強く寂しさを堪えて、
子供の自分には、この母のことは気にしなくてもいいから
「自分を生きろ」といっていたのでしょう。
母は、形見の言葉どおり「母として生きた」。
けど・・自分は・・というといろいろあって自分を殺してきた
(自分を見失ってた)ことも多々あったのじゃないかな。
そのうちの一つが離婚の原因じゃないでしょうか。
そして、離婚話が出て自分を見つめなおすことができ、
母に近い年になってきて初めて、母が言ってた「自分を生きる」
という意味が理解できた。離婚することになったけど、
威張って自分を生きていくからみていてほしい。
「おふくろ 俺はいくつになってもあんたの子供だよな
」
お墓前でそんなこと言ってる情景が浮かびます。
母としては、めちゃめちゃしびれるセリフですよね。
吾亦紅(われもこう)すぎもとまさと
http://www.youtube.com/watch?v=3Dh4W_zpjOI
久しぶりに昔の匂いがする曲に出会いました。
暫く弾いてなかったギター、弾きたくなる曲だなあ・・
今度少し練習してみるかな。
こんな曲を子供から歌ってもらえたら、
最高にうれしいだろうなあ。。。
あ、もちろんもっと年、くってからの話だけど・・・
ところで、もし自分が宣告を必要とする病気になったら・・・
という話題で、家族とも話をしたことがあります。
まず、夫であるマーちゃん
この人は気で病気になるタイプのようです。
自分でも言っていました。
「自分がなったら、絶対言わんといてな 気になって気になって、
たぶん寝られへんとおもうしぃ、気分が滅入る思うわ・・」
ーーー だろうねえ。そんなこととっくにお見通しですよ。
じゃあ、次、長男 マーくん
かなり自我が強いくせに、心がもろいところがある。自分では大丈夫、と
言いつつ気になるが、悪くなっても悪くなってると思わないし言わないタイプ。
こんな人には、絶対言ってはならない。危ない・・・ と思う。
次、次男、ゆうちゃん
「僕、あかんあかん。絶対言わんといて・・ 気になってしつこく
ほんまのこと言うてって聞くけど、絶対言わんといて 」
ーーー おいおい、もう今から心配してるぞ・・・ だめだ、こりゃあ
ーーー ハイハイ、わかりました。
ーーー うちの男どもには、本人宣告はだめということね。
ということで、結果・・
私ひとりが絶対に本人宣告してや、ということになった。
いろいろ家の片付けなど、銀行関係、保険関連、その他諸々、
私がいないとわからないことだらけなのである。
家族が困らぬように整理していくのん、たいへんだろうなあ。
あ、でも病気のこと考えるひまなくていいかも・・・
なんて、凄く 能天気なことを考える私なのでした。
私の人生の中での忘れられないことを、「思い出語り」として書いてきました。
看病記、としては前回の『看病記3☆9』で、一応終了しました。
今まで読んで頂いた皆様、本当にありがとうございました。
あ と が き
さて、小学三年生(8歳)の夏休みから始まった母への看病は、
高校一年生(16歳)までの8年間に、なんと3回も経験してきました。
本当は、後2回、第4部、第5部を父の部と合わせて5部作にしようと
企画してましたが、どうも私は小説家タイプではないようです。
長編は苦手みたいです。しんどくなってきました。
なので、「つづく。。。」 を 「完」 と修正しました。
また、新たに父の話はいろいろ混ぜたものを、いつか書こうと思います。
また、その時は読んで頂けたらうれしいです。
母以上に、いろんなこと話したので、かなり面白く興味あるものになるかな。
私の子供へのオープンな教育は、父の影響かもしれません。
応援して頂いた方々に、お礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
2008年3月25日 記
、
私の人生の中での忘れられないことを、「思い出語り」として書いています。
今は、 『看病記3☆9』 高校1年生、冬休み前~春休みの時の話・・
第3部_9話 ≪別れの日≫
学期末テスト最終日、この日が終われば6日間のテスト休みに入り、
そして終業式の後、2週間の春休みの予定でした。
さあ、あと20分で終了という時でした。
それは、突然・・・本当に突然・・・でした。
ーー 母、危篤の連絡が入ったのは・・・
病室へ入ると、異様な雰囲気が漂っていました。
直接心臓に注射するのと、電気ショック、この二つをみると
もう最後の手段という気がしてしまうものです。
ーーー もう、やめて もういいんじゃないの
ーーー せめて最後は静かに逝かせてあげて
私は、声を出しそうになって、両手で自分の口をふさぎました。
なんだか死者に鞭打つような気がして見ていられませんでした。
親族が見守る中、私は病室から外へ出ていました。
私は母と別れをするのが嫌だったのかもしれません。
父が泣き崩れる姿をずっと見ていられなかったのかもしれません。
暫くするとみな病室から出てきました。後々の相談をするためでしょう。
私は入れ替わりに中へと入りました。
私はなぜだか、冷たい子供だと思われるかもしれませんが、
ものすごく冷静に受け止めていました。
看護婦さんがエンジェル・ケアをしてくれていました。
「綺麗に体を拭きましょうね・・・
どんなに年とっても、女性だものね。
お化粧をして口紅もつけて、髪もとかしましょうね」
ほんのり化粧された母は、見違えるぐらい美しく、
まるで眠っているようでした。
そして、今までの煩わしさから解放されたかのようでした。
看護婦さんが エンジェルセットを片づけて、出て行かれました。
ーーー かあさん・・・
ーーー よかったねえ きれいにしてもらって・・・
私は ・・・ とめどなくあふれくる涙を・・・
もう ・・・ 抑えきれませんでした。
看病記_第3部_完
私の人生の中での忘れられないことを、「思い出語り」として書いています。
今は、 『看病記3☆8』 高校1年生、冬休み前~春休みの時の話・・
第3部_8話 ≪コンサートが終わって・・≫
二月のクラブのコンサートは無事に参加することができました。
本当のこというと、私は出られないかもと、いつも思っていました。
優秀賞には至りませんでしたが、思ったよりうまく調和し、
特別奨励賞のようなものをもらって、達成感がありました。
女性ながらに医療研究へと進まれた先輩の指揮を思い出します。
三月に入ってから輸血治療は、全くやってませんでした。
たぶん私はそのころいえ、もっと前から
少しは自分で血を作るようになっているのだろうな・・と、
だから輸血は必要なくなったのだろうと、思っていたと思います。
今は・・・、全く逆だったことを理解しています。
輸血はもう、しても意味がないくらい検査数値がどんどん減って
いったのでしょう。母もほとんどベッドから降りなくなっていました。
父はどんなにか辛い毎日だったことでしょう
私に気付かれまいと、母に気付かれまいと・・我慢していたんだろうね。
刻一刻と、その日が近づくのを不安げに見守っていたのだと思います。
娘の前では平気を装って、冗談下手な人が一生懸命笑わかそうとし、
何も知らぬ私の顔を見ては安らいでいたのかも知れません。
私は知らなかったので ・・・・・・・・
・・・・ いいえ ・・・
ーーー 私は、感が鋭く、理解力はあった方です。
ーーー 心の底では感づいていたのです。
ーーー 知らぬ振りをしている方が楽だったのです。
ーーー そして、・・・ その時は、突然、やってきました。
つづく。。。
久し振りの家紋です。
いつもお墓参りの後、書いてるようです。
【巴紋 (ともえもん)】
形もルーツも神秘的
左三つ巴 左二つ巴 左三つ丁子巴
「オマジャクシのように頭でっかちで、尾が流線型に
渦巻く巴は、一種の独特の神秘的な魅力を湛えている。
この形のルーツ探しも、不思議なフォルムに似つかわしく、
一筋縄ではいかない。
雷や雲、火焔、渦巻き、それに人魂や胎児、精霊を形象化
したものだとする説までいろいろある。が、通俗な例としては、
雲の上のカミナリ(雷神)の鬼の子が背負っている太鼓に描かれて
おり、昔から巴と雲、雷、子供のへそが暗示されているのも面白い。
巴紋の始まりは、公家では西園寺、武家では鎌倉時代の宇都宮、
小山、結城の三氏。室町時代になると、このほか曽我、小早川、
長尾、赤松らの諸氏がバラエティーに富んだ巴紋を用いた。
江戸時代にはさらに多くの大名が用い、
その数は300家以上にも達した。
また、神紋としても著名。石清水八幡宮、鹿島神宮、香取神宮、
宇佐神宮、日枝神社などが用い、子孫繁栄の”勾玉”とされている。
巴は、世界各地にも見られ、古くは中央アジアやスキタイの銅器、
中国・周代の印などに描かれており、考古学的な興味もそそる
人類共通の代表的な文様。」
真鍋建志朗:著 「見る、知る、楽しむ、家紋辞典より」
よく陰陽で使われるものは、上の真ん中の右が黒で
左が白の『陰陽二つ巴』 といわれるものだそうです。
勾玉って子孫繁栄のものとは、知りませんでしたね。
ちなみに、奈良の方は、この巴紋のお墓が多かったです。