御炊(みかしき)
≪炊・爨(かし・かしぎ)≫
かしぎ・爨・カシワ(柏)。カシギの原型がカシ(炊)である。
カシグ・・・葉などに包み、湯に入れて蒸すことをいう。
その葉がカシワ・カサノハであり、
カサが椀・椀の蓋などの意になった。
カシギ・・・炊事・食物を作ること。
山村・漁村で、これに当たる若者・少年をカシギという。
≪カシギは山小屋・船舶の炊事役≫
カシギは山神や舟玉様の奉仕者となるがゆえに、舟が遭難
してもカシギだけは不思議にも死を免れると信じていた。
飯櫃の蓋をとり、右手に蓋、その真ん中に左手の杓子で、
飯粒をのせ供える。この役をまた「飯を食おう」ということを、
「マエロ(参ろう)」というゆえ、「マイロシ」ともいう。
≪カシギは火の神と縁が深い≫
カシギの少年は、心の汚れのない純真な徒が食物をつかさどり、
火を神聖に保つ資格ありとされたのである。こうして神に初物を
献じるために、神に愛され身に降りかかる危難を免れている。
すなわち、カシキは神に仕え神を祀るもので、これにあずかる者が、
神意を得るために行う歌舞が、「殊舞」である。
【殊舞(たつつまい)】
起ったりしゃがんだりして舞うゆえというが、家の精霊を小人
(こびと)としていた時代――今のザシキワラシにあたる――
の侏儒舞(ヒキウドマイ)の古いもので室寿(むろほ)ぎの折、
家長の祝福のために小さいものが舞い出たこと・小人舞・
「顕宋紀」である。
この歌舞は、風を呼ぶ神技と後々にはなり、カシキは
風を呼ぶ呪法になっている。
『日本民族語大辞典』石上堅:著
苗字いろは歌 (伊) 古代珍姓珍釈篇へ
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【 八坂神社の由来 】
平安京遷都以前東山一帯に住んでいた渡来人の八坂造
(やさかのみやつこ)の氏寺に起源する。(八坂神社由来より)
八坂神社はながらく、「祇園社」「感神院」などと称したが、
明治維新の神仏分離にともなって、「八坂神社」と改称した。
八坂神社公式HP→ こちら
(伝説)
八坂氏の祖先、伊利之使主(いりしおみ)が、656年に朝鮮半島から
移住してきて新羅の神をまつった。この新羅の神がのちの素戔鳴尊
(すさのおのみこと)と同一の神様であるとされ、これが八坂神社になった。
この伝説により祇園信仰の本社争いなるものがあったらしく(今も続いて
いるのかな?)、広峯神社(姫路市)の記事に祇園信仰の本社争いのこと
が書かれている。
(姫路市)広峯神社記事はこちら→ ◎京都・八坂神社との関係
(戸原様HPより)
【 八坂 】
八坂神社や八坂の塔がある京都市の東側の山麓の一帯。
古代には「愛宕(おたぎ)郡八坂郷」と呼ばれていた。
現在では東山区に、八坂上町の小地名(町名)だけが残っている。
≪大和時代のやさか≫
古代には、八坂氏という中流豪族に支配されていたが、
八坂の地名は八坂氏にちなむものではなく、呪術的な意味をもつもの。
説1)坂を下ると異界に入り込むことがあるという迷信から
坂の多い東山山麓地帯を異界に繋がる地で「八坂」。
説2)様々な悪霊を鎮魂する地が「やさか」
「安らかに魂を休息させる処(ところ)」が「安息処(やさか)」。
かつて東山山麓で、人々に災いをなす霊魂を集めてしずめる
まつりが行われて来た。そのため「安息処」と名づけられ、
読みやすい「八坂」の表記になったという。
【 八坂の塔 】
古くは八坂寺と呼ばれたが、聖徳太子が建立したものとも
八坂氏がひらいたものとも伝えられている。
八坂寺は古代の大寺院だったが、平安時代に有力寺院どうしの
抗争にまき込まれて消失した。
その後、臨済宗(鎌倉時代の禅宗の一つ)の寺院として
永観寺(えいかんじ)と改名された。
何度かの焼失と復興を繰り返したのちに、1440年に建てられた
八坂の塔 を残すだけになってしまった。
『意外な歴史が秘められた関西の地名100』 武光誠:著参照
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今日のアクセス解析で「和邇中」という文字がありました。
・・で、検索をすると、
「滋賀町の町名」というのが気になりました。
「滋賀県の町名・字名が変わります」という大津市のホームページでした。
http://www.city.otsu.shiga.jp/www/contents/1144049602335/index.html
平成18年3月20日に変更になったそうです。
しがぐんしがちょうおおあざ きたはま
滋賀郡志賀町大字 北浜→ 大津市 和邇北浜(おおつし わにきたはま)
しがぐんしがちょうおおあざ なかはま
滋賀郡志賀町大字 中浜→ 大津市 和邇中浜(おおつし わになかはま)
しがぐんしがちょうおおあざ たかしろ
滋賀郡志賀町大字 高城 → 大津市 和邇高城(おおつし わにたかしろ)
しがぐんしがちょうおおあざ わになか
滋賀郡志賀町大字 和邇中 → 大津市 和邇中(おおつし わになか)
しがぐんしがちょうおおあざ みなみはま
滋賀郡志賀町大字 南浜→ 大津市 和邇南浜(おおつし わにみなみはま)
しがぐんしがちょう わにかすが
滋賀郡志賀町 和邇春日1丁目 → 大津市 和邇春日(おおつし わにかすが)1丁目
しがぐんしがちょう わにかすが
滋賀郡志賀町 和邇春日2丁目 → 大津市 和邇春日(おおつし わにかすが)2丁目
しがぐんしがちょう わにかすが
滋賀郡志賀町 和邇春日3丁目→ 大津市 和邇春日(おおつし わにかすが)3丁目
しがぐんしがちょうおおあざ いまじゅく
滋賀郡志賀町大字 今宿 → 大津市 和邇今宿(おおつし わにいまじゅく)
obiログ参照過去記事→ 『鰐(わに)≪古代珍姓≫』(2010年3月29日 記)
たぶん、「春日」は全国にかなりあるから、かろうじて
「和邇春日」という地名が今まで残されていたのが
もともとの「和邇」の使っていた地域まで復活され、
和邇族の及んでいただろう力の範囲がよくわかります。
ちゃんと地名と苗字の関係をご存知の方々が携わって
復活変更されたというのがよその地名ながらも嬉しいです。
こんなふうに古代の地名復活は、住んでいても知らなかった
地元の大人やこれから勉強する子供たちにも興味をそそり、
地元の歴史を学ぶきっかけになり日本史が好きになるかもしれません。
日本史(歴史)が大嫌いだった私は、地名が苗字と密接な
関係があるなんてブログをはじめてから知ったようなもの
ですから、子供時代に知っていたらもっと楽しく勉強できた
だろうなあと、今更ながらに感じます。
欲をいえば、なぜこんな地名復活がなされたのかを、
ホームページにも載せて頂けたら、もっと興味が湧く
面白いホームページになるのになと思いました。
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鯰江(なまずえ)
滋賀県愛知(えち)郡愛東町。
愛知川右岸氾濫原に位置する。
鯰のいる江。鯰にちなんだ川の出口など。
護岸工事のできていない自然にまかせられた港。
主な関連姓氏は鯰・鯰田・鯰谷。
【中世】
鯰江荘・・・鎌倉~室町期に見える荘園名。
興福寺領。愛知郡のうち。
創草は秦朝廷の開発地というが不明。
荘内に山野が存在しない。
鯰江・・・・・戦国期に見える地名。愛知郡のうち。
天文21年頃、百姓が鯰江堤を築こうとしたが
無力のため、武士の代官が代わって築堤した。
大阪の石山本願寺はこの地に所領を持っていたらしい。
代官に酒を送っている(本願寺日記)。
鯰(なまず)
岡山県英田郡作東町。
(一)鯰の生息していた池などあるところ。鯰に関係のある土地。
(二)生津で湿地帯になっている港。
関連性氏は鯰江参照。
鯰田(なまずだ)
福岡県飯塚市。
(一)鯰のいる田。
(二)沼津田で湿地。
関連姓氏・・・鯰・鯰江・鯰谷
『角川 日本地名大辞典 25滋賀県』
『難姓・難地名辞典』丹羽基二
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≪ 靭 地名由来 ≫
靭(うつぼ)という町名は、豊臣秀吉が大坂市中を巡見したとき、
「何十文やすやす、何百文やすやす」という塩干魚市売り商人の声を聞き、
「矢栖(矢巣:やす)とは靭(矢を挿しいれる道具)のことだろう」
と戯れに言ったのを聞いた商人らが、上意と受け止め、一町を靭町と名付け、
他の一町は天満鳴尾町から引越してきた因縁で天満町と命名したと伝える。
(『浪花百事談』『靭の歴史』)
しかし、この地は水利の便に乏しく、塩干魚の売買に適当ではなかったため、
元和八年(1622)津村の葭島を開発して移住し、新靭町・新天満町と名付け
た。これによって元の靭町と天満町は、町名を本(もと)靭町・本(もと)天満町
と改名した(→東区伏見町1~5丁目)。
したがって、江戸時代に町名に「靭」の文字を用いていたのは、新靭町だけで
あり、これに新天満町と海部町と海部堀川町を加えた一帯の地名を単に靭と
呼んで、新靭町・新天満町・海部堀川町を靭三町と通称していた。
≪ 靭海産物市場と雑喉場魚市場 ≫
靭(津村葭島:つむらひえじま)の市場・・・塩干物
雑喉場(鷺島:さぎしま)の市場・・・鮮魚
古くは塩干魚も鮮魚も区別なく一緒に天満の大川沿いに市場があった。
↓
太閤さんが大坂城を築城、大坂の町が出来上がった頃
船場の東横堀の伏見町・道修町のあたりへ移動
↓
鮮魚商が少し南へ移る(備後町・安土町)
↓
雑喉場(※3)の地に移る。
残った塩干物屋さんが靭へと移る。
永代浜(※1)といわれるところで干鰯市(ほしかいち)(※2)が開かれていた。
干鰯は金肥(お金で買う肥料)になり農村への需要が凄かった。
(大和川改修工事による稲が作れない綿作農家が増えていた為)
(※2)干鰯(ほしか)=「干したイワシ」
江戸時代を通じて、天満青物市場・靭海産物市場・雑喉場市場は、
それぞれの発展をとげた。明治になっても、取引の方法など旧に
比して変わらない状態であった。
昭和6年11月11日、大阪市中央卸売市場の開設によって、旧市場
は11月10日限りで閉鎖される事になった。
ここに300年来の旧市場の歴史を閉じる事になった。
なお、天満市場と江戸時代の末に出来た木津難波市場(浪速区北
高岸町)の二市場は、配給所という名目で残された。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【(※1)永代浜】
明治元年、(1868)に大坂商法会所より、市場問屋仲買に商業
鑑札が下され、市場の取り締まりが行われたが、現実には農商人
との間に直売買がなされていた。
生魚・塩干魚類は大坂城近くで売買は許されず、最初靭町(現東
区伏見町)で始められた。こののち塩魚・干魚商人は、元和8年
(1622)幕府の許可を得て津村のひえ島に移り、新靭町・新天満町・
海部町(いずれも西区靭上・中・南通)を作った。そして、舟運の便
をよくするため京町堀川と阿波堀川を連絡させるべく海部堀川を
開削し、その堀留を永代堀、その浜を永代浜と呼んだ。
ここで、塩魚・干魚・鰹節などが商われ、その後靭三町は安永3年
(1774)に株仲間の設立が認められ、靭海産物市場として発展する
ことになる。
【(※3)雑喉場(雑魚場)】
また靭にあった生魚商は、この地が海から遠く、夏ともなれば生魚
が腐りやすいとのことで、天和3年(1683)頃より一年を通じて、
百間堀川の左岸の鷺島(西区京町堀)で取引されることになった。
この鷺島の市場では、近海魚の雑魚(ざこ)も取り扱われたところ
から雑魚場(雑喉場)と呼ばれた。雑喉場は明和9年(1772)に
株仲間の設立が認められて大いに賑わい、取引代金の決済のため
「雑喉場手形」と呼ばれる信用通貨もでた。
そのほか、淡水魚は京橋川魚市場で取り引きされたようであるが、
これについてはつまびらかではない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
≪ 靭公園 ≫
昭和 6年11月
大永代浜を中心とする靭の海産物問屋・仲買は雑喉場魚市場と
ともに、大阪市中央卸売市場に吸収統合されてその跡を絶った。
↓
昭和20年3月(太平洋戦争中)
アメリカ空軍の空襲によって荒廃し、戦後は一時
在日アメリカ軍の小型機発着所地となった。
↓
昭和27年6月
靭飛行場が連合国軍から返還されたのを機に、大阪市は跡地を
戦災復興区画整理事業の公園として着工。
↓
昭和30年10月21日
27762坪(約92000平方メートル)の大公園が完成。
ちなみに上方落語家の桂ざこば師匠は、この雑喉場が由来だそうです。
詳しくはこちら→ 桂ざこば(ウイキペディア)
『大阪の町名 ―大坂三郷から東西南北四区へ―』
編集: 大阪町名研究会 参照
『ー西区を知る、大坂を知る―再発見あれこれ』
大阪天満宮史料客員 近江晴子:参照
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~地名「大阪」とは~
≪2≫小坂→大坂→大阪
☆ 昭和10年頃の郷土研究誌『上方』三十八号誌
元来は「小坂(をさか)」であるが、のち、「オサカ」に変わったとある。
☆ 「大坂」の初見・・・明応七年(1498)
蓮如上人の消息に「摂津東成郡生玉ノ庄内大坂」とみえ、
石山本願寺のことを「小坂本願寺」と称す。
☆ 永禄四年(1561) 親鸞聖人の300年忌の記録
「三月廿八日は、小坂大法会有之云々」とある。
☆ 泉南の積川神社の石灯篭
「正平七年(1352) 願主大坂加賀屋云々」の刻銘がある。
などの「大坂」の用字から、旧熊野街道に接するところ、内安堂寺町
( 現在の中央区安堂寺町(東横堀川以東))付近が大坂の発祥地と推定されている。
このほかに「大坂」と記した中世文書が多く存在し、
『吉利支丹物語』(寛永一六年〈1639〉)刊には「大ざか」とみえ、
「尾坂」とも書いている。
明治元年(1868) 大阪府設置
明治八年(1875)八月 太政官からの公文書以来、「大阪」に定着。
≪3≫各地に存在していた「大坂」
「大字忍阪(おしさか)」(奈良県桜井市)
五世紀頃和歌山県隅田八幡神社所蔵人物画像鏡(国宝)
に「意柴沙加(おしさか)」の銘文より奈良朝以前の地名。
『紀』伊勢本・・・「於志佐箇」
『仁徳紀』・・・「烏瑳箇(おさか)」
おしさかと呼ばれていた時期もあった。
「忍」は「大」「凡」と同義の美称。
「大坂(逢阪とも)」(奈良県香芝市大字)
『崇神紀』・・・「大坂山」「大坂」
『履中記』・・・「大坂」(淤冨佐迦・於朋佐箇〈おほさか〉)
『天武紀』・・・「大坂山」「大坂道」
『崇神紀』・・・「墨坂に墨坂神・大坂に大坂神を祭る」と記され、
現在の香芝市大坂山口神社付近の地名とされる。
(現に大字逢坂がある)
「大字押熊(おしくま)」(奈良市)
押熊=大隅の意味を持つ方位地名。(西南隅に立地している)
『神武紀』・・・「墨坂」は「隅坂」で、この地名に因み、「男坂に
男軍を置く。墨坂に焃炭(おこしずみ)を置けり。墨坂の号(な)
は、此に 由りて起これり」という地名説話が発生している。
「押は意布志にして大の意なり」(=本居宣長解釈)
「大字大熊」(奈良県宇陀市)
肥後国(熊本県)の「熊本」は「隈本」であったらしいが、隈の
文字をヘ阝と畏に分解、阜の丘を畏(おそれ)るとは、一国の
府たる所の地名としては不可と、熊の文字に改めたといわれる。
「大熊峠」(吉野郡)=「大隅峠」
吉野郡下市町内の「野々熊」の「熊」も「隅」である。
イコマのコマはクマで、イは(接頭語)クマ説、イリ(西)クマ説がある。
地名発生当初は単なる「坂」
↓
「小坂」から「大坂」へと改字
「大」は地名の大・小の意ではなく、「小」は美称の好字化。
大和平野の真ん中の田原本町の大字にある「小坂」は
万葉地名の「坂手」の「小坂手」の下略だろうという。
この「小」は小野・小川・小山・小田の「小」で一種の美称。
「小峠」はあるが「大峠」なく、「大きな坂」であっても「小坂」とした。
「大」も美称であるが「大坂」では「土(つち)に反(かえ)る」の用字
構成がよくないということで、好字化したもの。
↓
「大日本」の「大」ように、大きく羽ばたく「大阪」に転訛。
☆ 昭和初期、大阪は地方都市からは憧れの都会だったらしい。
岡山市・・・「千日前商店街」
愛媛県八幡浜市・・・「伊予の大阪」
鳥取市、米子市・・・「山陰の大阪」
福島県郡山市・・・「東北の大阪」
千葉県佐原市・・・「関東の大阪」
佐賀県小城市・・・「西の浪花」
『大阪地名の謎と由来』監修: 池田末則 参照
~地名「大阪」とは~
≪1≫ 津国(つのくに)
☆『古事記』
畿内には大和(倭)・河内(川内)山代(山背・山城)の国名がみえる。
かつては、河内・和泉は摂津の国に含まれていた。
☆『日本書紀』
応神紀四一年二月条、『舒明紀』=三年九月条に「津国」と記載有り。
「津の国」→港津(難波津・武庫津)があることから。
「摂津職(せっつしき)」・・・初見は壬申の乱(672年)後の天武朝頃
【和泉国】
霊亀二年(716)
現和泉市(茅渟宮)に河内国大鳥・和泉・日根の三都を割いて
和泉監(いずみげん)と称し、特別の行政地域を置いた。
一時は河内国に復したが、天平宝字元年に分立。
「和泉」 = 「出水」の意
泉井上神社境内に「出水(いずみ)」という清水井を伝承。
【河内国】
『古事記』・・・「凡(おふし)河内」
『日本書紀』・・・「大河内」
「凡」「大」は美称
※「大野」「大内山」「大原」「大丹穂」「大身狭」などの「大」も一種の美称
和銅官命によって地名の二字・好字化
「出水」 → 「泉」 → 「和泉」
「凡河内」「大河内」→広い河内(汭)の意を避けるため「凡」「大」を省略
※「河中」を「高知」、「上河内」を「上高地」なども好字化
【難波】
≪ナニワは国の名ではなく、地方的な郷(くに)の意味≫
「浪速」「浪華」とも書く。
『万葉集』・・・「魚庭(なにわ)」とあることから、
魚が多くとれる海に面しているという説がある。
『日本書紀』・・・「天皇、難波の碕に到るとき、奔潮(はやきなみ)有て
太(はなは)だ急(はや)きに合ひぬ。因りて名づけて
浪速(なみはや)国と為す。また浪華(なみはな)ともいふ。
今、難波(なにわ)と謂(い)ふは訛(よこなま)れるなり。」
※意:「天皇方の船がこのあたりに来た時、潮流がはなはだ急であった
ので、“なみはや”とか“なみはな”と名づけたのであるが、いま
“なにわ”といっているのは、それが訛ったものである。」
『欽明紀』二三年条の歌
・・・「韓国の城に立たし、大葉子は領巾振(ひれふ)らす見ゆ、
那爾姿(なには)へ向きて…」
『万葉集』・・・「おしてる難波の国…」「難波の院」
『仁徳紀』・・・「難波津」「難波の堀江」
『推古紀』・・・「難波の荒陵」
『孝徳紀』・・・「難波の長柄豊碕宮」
『仁賢紀』・・・「難波小野」
関連obiログ過去記事はこちら→ 『二字化地名』(2011.6.1 記)
『大阪地名の謎と由来』監修: 池田末則 参照
【日本地名の表記方法】
【1】借音地名
漢字の字音を借りて書く
都志麻(としま)・・・一字1音を借りて音訳したもの
信濃(しなの)・・・シンの字音をシナに転用したもの
【2】借訓地名
漢字の訓読みを別の意味の地名に借用して当て字したもの
葛飾(かつしか)→勝鹿
小狭間(おばさま)→伯母様
下(さが)り→十八女(さかり)・・・戯書
我孫子(あびこ)→「我」+「曾孫(ひこ)」=孫の子・・・熟字訓
鳥(とり)の一部をトの音に借用→鳥羽(とば)・・・省略形の借訓
【3】正訓地名
漢字の字義と地名の意義が合致しているもの
陰田(かげた)・・・陰地にある田
【4】正音地名
正訓地名を音訓したもの
陰田(かげた)→陰田(いんで)
【5】音訓地名
音訓を混同した重箱読み、湯桶読みの地名
後世になるほど多い
行田(ぎょうだ)
浦和(うらわ)
『古事記』
表意的なものと一字一音の借音表記の方法
固有名詞に十分な注意を払っている
借音表記は外国地名のようだから借訓表記に固定化へ
☆例) 「白檮原(かしはら)」
「国見(くにみ)丘」
「伊波礼(いはれ)」
「畝火(うねび)」
「真名子(まなご)谷」
「師木(しき)」
「美富登(みほと)」 など
☆音注有り・・・「宇迦斯(うかし)」〈穿〉→「自宇以下以音下效也」
「高佐士野」→「佐士二字以音」
☆すでに表記が固定していたもの・・・「師木(しき)」
「意富(おほ)」
「丸邇(わに)」など
『日本書紀』
純漢文式の記述方を採用
漢字の意味の正用性を重視
一字一音の訓注を施し、借訓表記という方法も用いた
使用文字より地名説話の発生が出始める
☆【神武紀】・・・「橿原(かしはら)」
「磐余(いはれ)」
「畝尾(うねび)」
「繊沙𧮾(まなごだに)」
「磯城(しき)」
「御陰(みほと)」
☆訓注有り・・・「穿邑(うかちむら)」→「此云于介知能務羅」
=「穿邑は穿(うが)ち超えた所」≪地名説話≫
『万葉集』の地名
正訓と一字一音(二字もある)の方式に統一
漢字の音訓を適当に交用
☆義訓の方法・・・例)「飛鳥」
☆二字化・・・「葛山」←「葛城山」
「蛉野(あきつの)」←「蜻蛉野」
『地名伝承学』 池田 末則:参照
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【御所(ごせ)・御森(みむろ)】
『紀氏家牒』に見える里名
「葛城県」・・・葛城里・玉出里・博多里・賀茂里・
長柄里・豊浦里・室里・五処里
「御所(ごせ)」
中心地は「鴨都波(かもつば)」の弥生遺跡。
伝説として孝安昭天皇掖上池心宮にちなむ御所説があるが、
御所(宮都)の所在した場所ではない。
飛鳥に都が置かれる以前に勢力のあった葛城氏と鴨氏の本拠地。
「三室(みむろ)」=「御室(ミムロ)」
ミムロ=御森(みもり)の義、「神森(かみもり)」である。
カミモリの転訛(カミノモリの母・子音脱落)が、
カミノリ→ カミナリ→ カミナミ(カンナビ)となり「雷(カミ)」と書き
明日香村の大字雷(訓読してイカツチ)となったものか。
同大字小字「上ノ山」は「カミノヤマ」の意か。
カミナリーカミナミは「神奈備」と同義語だろうと思われる。
葛城の鴨都波神社には、今も「三室(みむろ)」の地名が残る。
先日、この地域から三角縁神獣鏡などが出土し、早くから
古代文化の開けた地域であった。
『紀氏家牒』の「五処里」の地名は、
「神森」→「御森」→「三室」のことで、このミモリの「御諸(みもろ)」を音読し、
「五処(ごしょ)」→五所(ごしょ)→御所(ごせ)に転じたものか。
なお、神奈備(カンナミ)ー神南(カンナミ)と書き、ジンナンと音読した。
斑鳩町には「神南」(ジンナン)の村名があって、中世には
「コウナン」と称し、同地「三室(みむろ)山」が有名である。
『地名伝承学』 池田 末則:著参照
【御所市の豆知識】
・江戸時代、“大和の売薬”で知られ、有名な家庭常備薬の製造
や行商に携わるものが多かった。
・十八世紀中頃、書家浅野新七(あさのしんしち)が考案した
“大和絣”の伝統を受け継いだメリヤス工業がある。
・皇居名として呼称された掖上(わきのかみ)は、JR和歌山線の
駅名に、室(むろ)は町名として残る。
・現在市内には今城(いまんじょう)、稲宿(いなんど)、五百家(いうか)、
多田(おいだ)、櫛羅(くじら)、蛇穴(さらぎ)、高天(たかま)、
奉膳(ぶんぜ)、重阪(へいさか)など難読地名が残っている。
『生き残る上方の地名』 本間 信治:著参照
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≪地名は無形の考古学的遺物(無形遺産)≫
☆『古語拾遺』の序
「けだし聞く、上古の世、未だ文字有らず、貴賤老少、
口々に相伝え、前言往行、存して忘れず」
☆『古史通』(新井白石)
「地名は上古の語言をありしまゝに伝えるもの」
日本に文字が伝えられる以前にすでに地名は、自然発生的に
誰かが必ず人々に先立って選択し命名を試みていた。
しかし、地名は今に息ずく古代語の化石では有るが、自然に転訛
するばかりでなく、好字・二字化せよというような官命もあって、
人為的な変転をも繰り返してきた。
≪二字化地名≫
和銅六年(713)五月、元明天皇の詔
「畿内七道諸国の郡郷の名は好字を用いよ」
延長五年(927)『延喜式』巻二十二民部式
「凡そ諸国の郷里は二字とし、必ず嘉名を取れ」
という官命によって地名は嘉名、佳好二字を選定することになった。
中国の瑞祥(神仙)的思想が地名表記に影響したものである。
『出雲国風土記』における二字化地名 (秋本吉郎著『風土記の研究』)
郡・郷・駅・神戸・余戸名など・・・100%
山・野名・・・69%
川名・・・98%
地名・・・74%
木ノ国・・・紀伊
火ノ国・・・肥伊
泉ノ国・・・和泉 など。。
全国4028の『和名抄』(那波直円校訂木活字本)郷名も
一・三・四(一七)字地名は全体の約0.5%にすぎず、
それ以外は二字化に徹底している。
【郷名】 【郡名】(同義語を加えた)
上・・・賀美 橘・・・橘樹(たちばな)
中・・・那賀 椿・・・椿木(つばき)
下・・・資母 湯・・・湯泉(ゆーいゆー伊予)
泉・・・泉水(いずみ)
【部民制関係地名】
鳥養部・・・鳥部(鵄〈とび〉)
忍坂部・・・押部(おさかべ)
春日部・・・春部(かすがべ)
額田部・・・額部(ぬかたべ)
機織部・・・服部(はっとり)
錦織部・・・錦織(にしごり)
≪二字化例≫
・外見山(鳥見山)・・・外山(とび)
・常陸国那賀郡日部郷戸主物部大山の日下部桑麻呂
(平城宮木簡天平宝字四年〈760〉)
・北葛城郡河合町の「山坊」・・・山守部ー山部(家)の転じたもの
・磯城郡田原本町の「大網」・・・大依羅部を略したもの
(『和名抄』摂津国の郷名「大羅」が「オホヨサミ」と訓まれている)
・橿原市耳成山南麓の村名「山之坊」・・・路東二十二条三・山部里
(『東寺文書』宝亀八年〈777〉七月の佐位庄券)
・葛下郡真野の条理名「マキ(間城・真木など)野 」・・・牧野(ばくや)古墳付近
・山城国愛宕郡の「栗野(クリスノ)」・・・栗栖野を略したもの
・山城国宇智郡の「小栗(オグルス)」・・・小栗栖 を略したもの
・土佐国長岡郡の郷名「宗我・宗部」・・・曽加へ(高本)・曽加部(刊本)
『地名字音転用例』(本居宣長)
寛政十二年(1800)
・上野(上毛野) かみつけ・こうずけ・・・上州(群馬県)
・下野(下毛野) しもつけ・・・野州(栃木県中南部にある市)
・城上(磯城上) しきのかみ・・大和国の郡(奈良県)
・城下(磯城下) しきのしも・・・大和国郡(奈良県)
・葛上(葛城上) かつらぎのかみ・・・大和国郡(奈良県御所市)
・葛下(葛城下) かつらぎのしも・・・大和国郡
・武蔵(牟邪志) むさし・・・武州(東京・埼玉・神奈川県)
・但馬(太知万) たじま・・・但州(兵庫県の北部)
・美作(美万佐加) みまさか・・・作州(岡山県北東部)
・安宿(安須加部) あすかべ・・・河内国郡(大阪府)
・丹比(多遅比) たじひ・・・河内国郡(大阪府)
・安八(安八磨) あはちま・・・美濃国郡(岐阜県)
・登米(止与米) とよめ・・・宮城県北東部にある市
・英田(阿加多) あがた・・・岡山県
・拳毛(古呂毛) ころも
・都賀(都加波) つがは
・養訓(也万久尓) やまくに
『地名伝承学』 池田 末則:著
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