ゆうちゃんの友達のこと考えながら、なんとなく
SNSの友達を考えてみる。
大体が空想の世界。
言葉の世界。
あるともないともしれぬ、得体の知れぬ世界。
ときには、理想の自分を作ってしまっている人もいるだろう。
後から見て嫌なことを残すには辛い。忍びない。
そう思っている人は、良いことしか書かない、
いや、書けなくなるのだ。
人にはよいように見られたい、それが本音の心。
違う?そうでしょ? ・・・普通はね。そんなもんでしょう。
マイナス面を書くと、なぜかコメントが増えるという人もいた。
コメント返しをしている人にとっては本当はそんなときには、
返すのは辛いものでしょう。だから休むという人もいる。
心のやり場がないからブログに書く。
本当はコメントはその時には必要ないのだ。その余裕がない。
しかし、落ち着いた時、読み返すととてもありがたく、時には
アドバイスになることもあることが書かれていることもある。
本当にうれしいと思えるときもある。ってことね。
誰にも言えないことを書いてる人もいる。
非難されても仕方ないこと、世間では非常識と言われることさえ、
書かずにはいられない人がいる。だから書いている。
しかし、誰かの反応を確かめたいのだろうと思う。
中には、自分に同調してくれる人がいるってことを、同じ考えを
持つ人がいるってことを知りたい、あるいは求めているのだろう。
そういう人は、あまりSNSとブログをつなげていない。
あるいは非公開にしている。どこか後ろめたいのだろうと思う。
ただ単に、中傷されるのが嫌なだけかも知れないが、世間の目が
非常識なことには冷たい者の方が多いのを知っているからだ。
もちろん、大体の人がありのままを書いている人が多いと思う。
人に知られたくないことだけ書かなければいいのだから。
誰にでも知られたくないことはあって当然だと思う。
『そんな中での本当の友人を!』
という人が増えている。
たぶん、それを求める人は現実に顔を合わすはずだ。
逢いたくて逢いたくて、たまらなくなるのだ。
こんな言葉を言える人はどんな人だろう?
自分に心地いい言葉。
やさしい雰囲気のブログ。
素敵な美しい地元の写真。
知的でスマートでカッコイイ~!
きっとそうに違いない。
・・・全ては、内にある自分の心が作りだした想像なのだ。
実際に逢って、ああ、やっぱり思ったとおりの人だった。
それ以上に素敵だった。良かったいい友達ができた。
そう言える人ができたらとても幸せですね。
「本当の友達」
やはり、私は逢わなければ
本当の友達とは言えないと思うのです。
だから、SNSの友達は自分のブログに興味がある人、
たとえば、小説書くために人間観察のためとか、またはブログ内容
に自分の趣味に参考にする材料があるとか、考え方が自分と違って
(あるいは同じで)面白いとか、何かしら引き出しとしてしまっておき
たいから友達になっておきたい。という魂胆があると思うのです。
“ひとこと”だけの(ブログを持たない)人もいます。
プロフィールだけではどんな人かもよくわからない人もいます。
広告だけ見てもらいたいという目的の人もいます。
あるいは、自分のHPを見てもらいたいだけの人も。
けれども、確かにPCの向こうには人がいるんです。
心を持った人がいるのです。(どんな心かは見えないにしても)
一人一人の存在を感じるから、
私は友達申請を承諾しています。
どんな、些細なことでも私のブログで、
あるいはコメントで、
あるいは、“ひとこと”で
何かを感じてくれればいいと思っています。
参考になるものが少しでもあるから、
考え方が少しでも気に入ってもらえたんだろうから、
友達申請をして下さったのだろうと思っています。
最近、ブログ巡りをしていません。
少し調子に乗ると目に負担がきます。できるだけブログを続けたい
ので、申し訳ないですけれど、ブログ巡りをするのをやめました。
けれど確かにブログを読んでくれている人がいます。
覗くだけの人もいると思います。それでもいいんです。
今日はお休みだな・・どうしたのかな?元気かな?・・・
なんて思ってくれてる人もいることが感じられるのです。
だから、私は、ブログも続けられます。
ときどきは、見に行っていますからね。
皆さんに、頑張る力をもらっています。
お友達の皆様、足跡を頂いた全ての皆様方、
本当に、いつもありがとうございます。
今に始まったことではないけれど、
我が家のゆうちゃんの友達の付き合い方は凄い!
先週金曜日から月曜日まで、毎日違う友人だった。
近所の友人たちとカラオケ、さらに違うグループとのラウンドワン
での遊戯、梅田(大阪)での飲み会、長居公園付近の友人と飲み会。
彼はたいてい相手の友人の近所へ行って遊んでくる。
その中には、何年振りかで誘いを受けた者有り、毎週土曜日の朝
までオールカラオケ有り、定期的(3~4か月)な者有り、中高校生時代
の友人(クラブ・クラス・サークル)、そして会社の先輩、後輩・・・
さまざまである。眠らず行った時は、カラオケの場所で眠るらしい。
そのまま会社へ行く友達もいるそうだ。
日曜夕方から出かけた人は、月曜日が休みだったらしい。
自分はというと、夜勤の日で夕方から出かけるので、
私が仕事へ行く少し前に(深夜2:30頃)帰宅した。
「ただいま~! 遅くなっちゃったよ。
11時頃帰ろうと言ってたのにー、おしゃべりしてたら
2時になってしも~た!タクシーで帰ってきたわ。」
な~んて、私が起きていたので報告をする。そして、
「明日、弁当の日やからな。頼んまっさ!」
と次の日(本当は今日)の確認をすると、すぐに寝た。
いつも聞くと、
「何か知らんけど、よう電話かかってくるねん。」
とほとんど断らないゆうちゃん。そういえば、GWだったな。
16連休のやつもおんねん。と言っていた。
たまには、付き合ってくれたからおごるわ、なんてこともあるらしい。
つい、先日も、飲みに行ったはずなのに、「お土産!」なんてくれる
からどうしたのかと思った時があった。自分も買うから教えてって
言っただけなのに、お金払わせてくれへんかったとのこと。
いつも叔父さんが買ってきてくれる、リクローおじさんのチーズケーキ
だったので、何処に売ってるのかと思ったらしかった。だから、
「はい!友達からのお土産!」
って言いなおしてから、くれたのだった。
「あいつは誘ったらほとんど断らんやつやと思われてるのかもよ♪」
なあんて、私はゆうちゃんに言ってみたのだけど、本当は、
その友達はとっても楽しくて嬉しかったのだろう、そう思った。
ゆうちゃんはゆうちゃんなりに、誰かの癒し的な存在になってる
のかもしれないな。。。そんな風に思った。
だが、ゆうちゃん自身は、自分が誘われて嬉しいから
よほどのことがない限り断らないのだろうけど。。。。。
鳥インフルエンザウイルスと、人インフルエンザウイルスの
両方のウイルスを持った豚の中で突然変異として表れたのが
豚インフルエンザ。
豚インフルエンザは弱毒性で、今は、動物から人への感染のみ
確認されているとのこと。
今日夕方には、スペインでも一人確認されたそうだ。
ヨーロッパでは初めてらしい。
これが“新型インフルエンザ”と呼ばれるには人から人への
感染が確認されたらだそうだ。
今のところ、普通のインフルエンザの予防をしていればいい
とのこと。豚肉も調理して火を通せば問題ないらしい。
とはいうものの今、別に豚肉食べなくてもいいか。
っていう人ふえてきたみたい。
このGW連休中、旅行予定している人、心配だろうなあ。
空港・港の検閲もどこまで完璧にできるか・・・
ちょっと、不安を感じるのは否めない。
【追加】 (2009.4.28.記)
http://blog.livedoor.jp/samore2/archives/51125707.html?gclid=CMOo_NzRkpoCFcIvpAodLAeoNA
最近、使い捨てを見直されて割り箸を使う人も減ってきたようで、
“マイ箸”を持ってくる人も増えているようです。ま、しかしながら、
やはり駅弁や道中で買うお弁当は割り箸を使っていますよね。
この間、旅に行った帰りに列車内で駅弁食べた時のこと思い出し
ました。割箸が容器より長いので折って捨てやすくと思って中に
入れたのです。今までもそう思ってましたね。年配の方が大きな
弁当容器の中に入れるときも折るのは不思議でしたが、
その行動に意味があるとは知りませんでした。
『箸折り』の風習
峠は、村の境の所にあり、そこには境の神である「塞(さえ)の神」
が祀られています。
この峠は、境を超えることから、精神的に不安があり、それだけに
旅路の安全を神に祈る場所なのです。ですから食事の後不用にな
った箸を神に供え、安全を祈願したのです。
ところが、一度使った箸にはその人の魂が宿るとされ、使用後そ
のまま捨てると禍がくるとされ、そこで峠の神にその箸を納め、禍を
防いでもらおうとしたようです。
さらに昔は、山に行ったときには、山の木の枝を箸にすることが多
かったことから、この一度使った箸にはその人の魂が宿ると言われ、
家に持ち帰らずに山に捨てるようにしたのです。
しかも、そのまま捨てると、けものが持ち遊んだりしてその禍が、
自分にも降りかかることを防ぐために、その箸は必ず折って捨てる
ようにしたのです。この折る行為は、箸に宿る魂を自分のもとへ帰ら
せるためのものなのです。この『箸折峠』の伝説は、和歌山県や
福岡県にもあり、今でも弁当のあと、その割箸を折って始末する
風習が見られるのはこのためです。
『日本人はなぜ箸を使うか』 一色八郎:著より
といっても、今のところ独学に近いです。
ネットでは結構サークルがあるし、ブログでも頑張っている方も
いらっしゃるようで案外勉強してる人いるんだなと思ってました。
それで、この間から地元であればと探していたんですが、
それらしき講座はありませんでした。
やはり同じ研究するなら住んでる処の方が面白いかなと
思ったんですけどね。残念です。
ま、私の場合、今までも最初は独学が多かったですからね。
ホントいうと、古文書だけは今まで避けてきたんですよ。
解読した書物は「家紋」でも参考文献のうちですから、
部分的には読んだこともあるし、興味はあったんですけどね。
人の字って気分しだいや急いでるとき、あるいは普段の日記でも
後から見たら、自分でも読めない字ってあるでしょう?
綺麗な字ばかりじゃあないってことですよね。
・・・ ところがですね、ある日、
図書館で油井宏子先生の本を開いてしまったんですわ~!
引き込まれるのなんのって・・・
もともと古文漢文が得意分野なもので(歴史は嫌いだったナ)、
解り易くて面白いと思っちゃいました。
当時の生活も一緒に説明してくれてるんです。
これならできそう・・・着付け、和裁のときと同じ感覚でした。
それが、これです。↓↓
今はこっち、これはネット購入しました。
なかなか売ってないんですよ。
次は自分の場合の辞書選びを書きます。
≪古文書(1)≫
この間、TVニュースで見たのが、gooブログ編集画面下の方にある、
「トレンドランキング」にて、話題のサイトとして2位と3位を占めていました。
ニュースではもっと短かったんですが、こちらは長いです。
面白い47歳のおばちゃんって感じです。
観客が総立ちするほど素晴らしい歌声ですね。
なぜ、今まで出てこなかったのか、不思議です。
ニュースのあと、すぐに youtube を探したんですが、
見つかりませんでした。・・が流石ですね。
もう日本でも話題になってました。気づくのが遅かったぐらいかな。
思ったとおり、埋め込みは禁止されてましたので
URLで聞いてください。
完全版は少し聞きづらいのでこちらをチョイスしました。
歌は心/スーザン・ボイル─Susan Boyle (日本語字幕版)
http://www.youtube.com/watch?v=vMVHlPeqTEg&feature=related
今日もミツバチがいないと、ニュースで伝えていました。
ついこの間も聞いた気がします。
女王蜂って輸入しているんだって。知らんかったわ~。
去年輸入先のオーストラリアでミツバチの伝染病が流行り、
輸入禁止になったそうです。
しかし、その前から徐々にミツバチは少なくなっていたようです。
女王蜂がいないと働き蜂は何をしていいか分からなくなるものや、
自殺するのもいるらしいとも言われていますが、はっきりした原因
はわかっていないようです。
今日はなんとかいう農薬(忘れた)が無臭となった為に死んでいる
のではないかともいっていましたね。今まではにおいで解るので
近寄らなかったらしいですが。。。
次の輸入先は、アルゼンチンのじゃじゃ馬、女王蜂らしいですよ。
輸入は決定だけど、まだもう少しかかるらしいです。
果物や野菜など作っている農家では、その受粉にミツバチを養蜂場
から買っているそうです。ミツバチがいないと一つ一つ手作業で
しなければならなく、めっちゃ大変だそうです。
ところがこのハウスの中でも死ぬのがいるとも言います。
少し前のときは苺、今日はサクランボとりんごの受粉の時期と
いっていました。ミツバチがいないので養蜂場人たちは、困っている
そうです。増えたらすぐ出荷するがおいつかないとのこと。
自分のところで出荷するための蜂蜜のための分は置いておかなけれ
ばならないですからね。
女王蜂も働き蜂もメス。
では、オスは・・・というと、交尾するだけの役割だそうですよ。
でも、そのあとは内臓が千切れて死んじゃうんですって。
交尾標識(←リンクしてます)というものが女王蜂のお尻に確認できる
そうです。それがオスの内臓だそうです。ちょっとかわいそう。
果物や野菜が少し高くなるのかな?
【道化(どうけ)】
道化とは、今はおどけの意の使う。もとは、法をもって人を教化する
意。これを苗字に用いたのが戦国の武士、道化六郎左衛門で美濃の
斎藤道三の家臣。
道三は主家を乗っ取った無道で知られるが、子の善竜(よしたつ)も
父にそむいた。 六郎左衛門は、頭半分を剃って善竜の前に出仕した。
「どうした?」
「殿に従うべきか、殿の父君に従うべきか迷っておりまする」
と父子ともにいさめた。道化の語の始まり。
(呂) 中世の珍姓珍釈編
中世のやまとことばは、古代のそれより少し現代風になっている。
太郎丸などがそれだ。太郎は音でその下に丸という訓がついている。
垪和(はが)の垪は、国字だ。漢字だけではいくら当て字を作っても
追いつかない証拠だ。道化という文字も音で通用している。
こうして音読みが少しづつ増えてきた。
『姓氏・家系・家紋の調べ方』丹羽基二:著より
【伊達(だて)】
伊達の語は伊達正宗によって天下に知られた。六〇万石の実力は
ダテではない。しかし、伊達とは砦の館(たて)ことで、阿達、安達など
との区別にすぎない。昔は文字どおり、イダテ、イダチといった。
イを取ったのは動物のイタチに間違われるから。正宗は都に上って
秀吉に面会するとき、いつもイタチの陣羽織に似た妙な服装なので、
人から田舎者と笑われた。伊達者の語もここから起こった。