坂東三十三観音のひとつとして古くから庶民の信仰の場だった飯泉観音では、江戸時代に江戸相撲を勧進して相撲の興行が行われた。その時にあだ討ちの勝負があり、取り組みに勝った力士を称える記念碑が境内に建立されていると知り先日出かけた。 飯泉観音で江戸相撲を勧進して相撲大会が行われたのは寛政元年(1789年)のこと。地元の菊屋旅館が勧進元となって江戸の谷風部屋の力士らと地元草相撲の力士との取り組みが行われた。当時の谷風部屋には相撲史に名を残す雷電為右衛門がいた。雷電為右衛門は寛政年間に活躍した力士で身長2メートル、体重は160キロもある巨漢力士であまりの強さゆえ突っ張りや張り手、かんぬきなどが禁じ手とされたとのこと。 寛政元年の相撲の取り組みが境内のどの場所で行われたのかは定かではないが、現在も本堂横に土俵が設置されている。飯泉観音の勧進相撲の際に、雷電為右衛門があだ討ちの相撲を取り、長く講談や浪曲で語られる事となる。あだ討ち相撲が行われた経緯は、勧進相撲が行われる以前に地元で行われた相撲大会での遺恨があってのこと。伊豆の草相撲大関に大岩岩五郎という粗暴で屈強な力士がいて、地元草相撲力士の相模灘との取り組みで相模灘が岩五郎に投げ飛ばされ、その怪我が原因で亡くなってしまい、相模灘の子供が勧進相撲に訪れた雷電為右衛門にあだ討ちを依頼。雷電為右衛門は大岩岩五郎との取り組みで禁じ手のかんぬきの技を使い岩五郎を投げ飛ばし本願を果たしたというもの。 土俵の横には土俵をかたどった記念碑が建立されている。この雷電の記念碑は昭和52年に大相撲小田原場所が城址公園内で開催されたことがきっかけで建てられることになった。記念碑は高さ1.2m、幅2.4m、重さは約3トン。 記念碑には雷電の手形も刻まれている。この手形は日本相撲協会の相撲博物館所蔵を借りてきたもので、雷電の実物大の左手の手形。長さは24センチ、幅16センチとかなりな大きさ。 この雷電碑の建立は小田原市議OBで結成されていた「二月会」の呼びかけによるもの。真鶴の石材店から地元特産の根府川石の寄付などがあり製作された。 この雷電碑の序幕式が行われたのは昭和52年4月15日。大相撲小田原場所当日の朝、小田原場所の巡業に来ていた旭国と黒姫山などが参列して雷電碑のお披露目が行われた。小田原は江戸時代後期から明治にかけて相撲が盛んだったようなので、また相撲にまつわる史跡などを探してみたいと思っている。
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