2021年10月 古城山(滋賀県甲賀市)
1か月ぶりに古城山にやって来ました。
前回は南西の登り口から上がっていったものの、道の悪さと時間切れで引き返しちゃったから、今回は北側の登り口からリベンジです
悠って誰
明らかに某名探偵のパクリですね(爆)
水口岡山城址(滋賀県甲賀市)
水口岡山城跡の西の丸に到着しました。
天正13年(1585年)に豊臣秀吉が甲賀郡と蒲生郡の一部を支配させるために、家臣の中村一氏に命じて水口岡山城を築かせました。
その後、1595年には豊臣五奉行のひとり、長束正家が5万石で水口岡山城に入りました。
見晴らし台からは水口の町が一望できました。
関ケ原の戦いではもちろん豊臣方の西軍として参戦した長束正家でしたが、吉川広家の軍勢に囲まれて戦線を離脱し、水口岡山城に戻りましたが、池田輝政の命を受けた池田長吉の軍勢に取り囲まれます。
水口岡山城をなかなか落とせない池田長吉は正家に「兵卒の命と所領の安堵」を約束し、正家は開城に応じます。
しかし、それは池田の謀略で正家は捕縛されて自害、その首は京都三条河原に晒されました。
栄子姫は長束正家の正室で、徳川四天王のひとり 本多忠勝の娘でした。
池田軍は水口岡山落城の際、城内、城下で略奪、凌辱の限りを尽くしたと云われてます。
正家の妻 栄子も辱めを受けましたが、正家の旧家臣に救われました。身重だった栄子は後に子を産みましたが、産後の肥立ちが悪く亡くなってしまいます。。
本丸の石垣跡
山頂の南東側には天守跡がありました。
この日は暑く汗だくになりましたが、地元の歴史に触れ、良い時間を過ごすことができました
浄土宗吉祥院福寿山多聞寺(滋賀県甲賀市)
1600年、会津征伐に向かう徳川家康を豊臣五奉行の長束正家(水口岡山城主)は朝食に誘いますが、これが家康暗殺の陰謀であることを甲賀の篠山城領主の篠山景春が家康に知らせます。
そのため、家康の隊列は水口城下を素通りし、暗殺計画は失敗してしまいます。
その後、景春は家康につき、大阪の陣の前哨戦 伏見城の攻防で戦死してしまいますが、その子孫は旗本として家康に取り立てられ、後の当主は佐渡奉行や幕府大目付の役を担いました。
伏見城攻防戦で戦死した景春はこの菩提寺である多聞寺に祀られています。
家の近くのお寺で堂宇も新しく、興味深い由来も無いだろうと思ってましたが、今回調べてみて初めてこの事実を知りました。
新しい発見があるから、飛び込み社寺巡りは面白くて止められません。
お笑いコンビのような石仏ww
大阪城天守閣(大阪府大阪市中央区)
大阪へ定期健診に行った帰り、前から行ってみたかった施設へ行くことができました。
その時の様子はまたあらためて。
つづく
過去記事<Memories of vacations in 2021(8)>
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