ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

第二次大戦下のヨーロッパ - 5 ( 笹本氏の、ドイツ批判の見苦しさ )

2018-08-12 23:38:32 | 徒然の記

 今回はドイツの「伝統的東方政策」につき、笹本氏の著作から教えられたことを、紹介したいと思います。

 ドイツを理解するための、基本的知識でないかという気がします。

  「ここでもう一つ忘れてならない、重要なファクターがある。それは大国ドイツの存続のため、必要な食料と資源はこれを東方に求めなければならない、という考え方である。」

 「19世紀の末以来、ドイツの保守勢力にはこうした東方膨張政策があり、ナチス時代にあっても、資本家、軍部、保守政治家たちから、依然として強い支持を受けていたという事実である。」

 今年の4月、村瀬興雄氏の『ナチズム』を読み終えた時、氏の次の意見に注目しました。

 「西ドイツの政治家たちは戦争責任を逃れるために、ナチズムをヒトラー個人の異常性に帰したが、実際には、ドイツ保守思想のなかに連綿とつづく思考である。」

 ここでまた、笹本氏による同様の意見に接しましたので紹介します。

 「この膨張政策は、第一次世界大戦におけるドイツの戦争目的の、重要項目となっていた。」「1918 ( 大正7 ) 年の、ブレスト・リトフスク講和条約により、ドイツ軍がウクライナを占領し、さらにコーカサス地方まで支配の手を伸ばした事実こそが、この膨張政策を、露骨に表明するものだった。」

 「従ってソビエトを崩壊させ、ここにドイツ帝国の広大な植民地を得るという考え方は、なにもヒトラーの発明でなく半世紀も前から、ドイツ保守勢力の脳裏を離れなかった夢なのである。」

 この辺りから氏の批判は、ヒトラーだけでなく、ドイツ国民へも容赦なく向けられていきます。本が出版された当時のドイツでは、ナチズムに関する国内での議論が、やっと収まりかけた時ではなかったかと推察します。それぞれの家庭で、親と子、祖父母や孫を巻き込んだ激しい対立となり、多くの悲劇を生んでいます。

 確かにドイツは、戦争の責任をヒトラーとナチズムに転嫁し、国際世論を乗り切ったと、私は思います。しかし敗戦後の日本では、GHQの統治下で言論が封殺されていたとはいえ、戦争責任に関する「国民的激論」は、生じませんでした。

 その理由の一つは、かってブログで取り上げましたが、学者や文化人と言われる指導的人物たちが、節操もなく変節したところにあります。

 昨日までの天皇制賛美者が、敗戦となるや、平和と人権を尊重する民主主義の旗手となりました。GHQに積極的な協力をし、戦前の日本を否定攻撃し、国民をアメリカナイズしていきました。ですから、敗戦後の日本では、ドイツのような徹底した追求が行われませんでした。今からそれをすれば、変節した学者や文化人などが、自分の首を絞めることになります。

 笹本氏を朝日新聞に連れてきた、笠信太郎氏は真偽のほどは知りませんが、米国CIAの協力者だったとも、言われています。欧米の政界事情に通じた笹本氏が、笠氏につき何も知らないはずがないと、私は考えます。

 「確かに、ナチスの犠牲者となった人たちはいた。」「しかしそれは、キリスト教関係、社会民主党、共産党、労働組合などの、きわめて小さなグループだけだった。」「国民の多数は、ともかくもヒトラーの侵略政策を支持し、戦争遂行にも協力したのである。」

 敗戦後のドイツ国民の苦悩を知りながら、ここまで批判する氏の気持ちが私には理解できません。

 「従ってヒトラーが、膨張政策のシンボルともいうべき、対ソ侵略に乗り出した時、この連中は大いに歓迎したことなど、もろもろの事実を忘れる訳にいかない。」

 「ドイツを苦境に追い込んだ直接の原因が、対ソ戦の失敗であったことを考えれば、ドイツ社会で指導的地位を占めてきた、中産階級以上の層にとって、まさに自業自得と言わざるを得なかった。」

 氏のような批判もあるとは思いますが、中途半端な戦後処理をした日本人の一人である氏が、ここまで言う資格があるのかという疑問が生じます。

 「別の言葉で言えば、ビスマルクによるドイツ帝国統一以来、ドイツ国民は、心底からの平和愛好国民ではなかった、ということである。」「ヒトラーのような狂気じみた膨張論者を、指導者として迎える下地は、前から十分にできていたということであろう。」

 ユダヤ民族虐殺、アウシュビッツ収容所、冷酷な秘密警察など、ドイツの罪状は世界に知れ渡り、国民は負の遺産を背負い、後ろ指を指され罵られながら、敗戦後を生きています。

 聡明に見えた氏も、捏造の朝日新聞記者の一員となり失望させます。ヒトラーのドイツだけを語れば、氏の意見は嘘でありませんが、歴史をもっと長いスパンで眺めると、別の意見も出てきます。

 別の意見として紹介するのは、大正7年に出版された雑誌『日本及び日本人』に掲載された一文で、第一次世界大戦に敗れたドイツを評しています。ヒトラーが政権を取るのは日本で言えば昭和8年の話ですから、ヒトラーについて語っているのではありません。

 「われわれもまた、戦争の主たる原因がドイツにあり、ドイツが平和の撹乱者であったと考える。」「しかし英米人が、平和の撹乱者をもって、ただちに正義人道の敵となすのは狡獪なる論法である。」

 「平和を撹乱したドイツ人が、人道の敵であるということは、戦前のヨーロッパの状態が、正義人道に合致していたという前提においてのみ言いうることであるが、果たしてそうであろうか。」

 「ヨーロッパの戦争は、実は既成の強国と未成の強国との争いであった。現状維持を便利とする国と、現状破壊を便利とする国の争いである。」「戦前のヨーロッパの状態は、英米にとって最善のものであったかもしれないが、正義人道の上からは決してそうとは言えない。」

 「英仏などはすでに早く、世界の劣等文明地方を植民地に編入し、その利益を独占していたため、ドイツのみならず全ての後進国は、獲得すべき土地、膨張発展すべき余地もない有様であった。」

 「このような状態は人類機会均等の原則に反し、各国民の平等生存権を脅かすものであって、正義人道に反すること甚だしい。」「ドイツがこのような状態を打破しようとしたことは正当であり、かつ深く同情せざるを得ない。」

 これは近衞文麿公が、政治家になるずっと以前の若い頃に寄稿した一文です。若かったとはいえ、近衞公はよくも論文を寄稿したと、感心もしますし軽率さに呆れもします。当時はもちろんですが、現在でもこうした正論を誰も口にしません。欧米諸国の過去を批判することは、世界のタブーのままです。東京裁判への出頭命令が来たとき、自ら命を絶った悲劇の宰相の萌芽をここに見る気がします。

 もしかすると息子たちには、分かりにくかったのでないかと心配し、論点だけを整理しておきます。

 1. ドイツの膨張政策はヒトラーの独走でなく、ドイツの保守思想だということ。

 2. ドイツ国民は敗戦後から現在に至っても、十分に苦悩していること。

 3. 変節漢だらけだった日本が、ドイツ国民を口汚く批判するのは醜いということ。

 4. 膨張政策を未開国で暴力的に推し進めたのは、英仏蘭の列強であったこと。

 5. ドイツを責めるのなら、先行した英仏蘭も同時に責めなくてならないこと。

 6. 戦前の日本批判も感情的な偏見からでなく、国際社会の実情を踏まえた上でやらなくては、妥当性を欠くこと。

  笹本氏のような批判が戦後の日本にあふれたため、時間の経過とともに、反日・左翼思想の跋扈を許すようになったと考えます。笹本氏のような偏見で日本を語るなど、許してはなりません。私が言いたいのは、ここだけです。

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第二次大戦下のヨーロッパ - 4 ( 東條元首相の裁判での証言 )

2018-08-12 08:18:50 | 徒然の記

 有名な真珠湾攻撃は、1941年( 昭和16年)12月8日未明に行われ、日米戦争の火ぶたが切られました。

 これについて氏が、ヨーロッパで得た情報を紹介しています。

 「日米開戦が、ヨーロッパに大きなショックを与えたことは、言うまでもない。」「このニュースに、一番驚いたのがドイツである。新らしい敵、アメリカの登場、世界最強の国を敵に回すきっかけを作った、パール・ハーバーのニュースに、ドイツが、上はヒトラーから下は一般国民に至るまで、少しもたじろがなかったと言えば、偽りであろう。」

 「日本はえらいことをやってくれた、と迷惑を感じたのが、ドイツ人の気持ちだった。」「従ってドイツは、即時対米宣戦をやるべきかどうか、ドイツ指導層の中でも議論が分かれた。」

 「たとえばリッペントロープ外相は、日本は攻撃を受けず、自分の方から攻撃をしかけたのだから、ドイツは自動的に対米戦争に入る、条約上の義務はない、と即時参戦に反対を唱えた。」

 「ところがヒトラーは、即時に対米宣戦を布告した。」「アメリカが如何に強大な国であるかということを、この偏見で固まった独裁者は、まったく知らなかったのである。」

 チャーチルに対しても、ヒトラーに対しても、氏は辛辣な批評をします。ヒトラーが対米宣戦布告をしたのは、ソ連との戦いが初戦の勢いを失い、ドイツ軍総崩れの寸前まで追い込まれていたため、日本の力が欲しかったのかもしれません。それほど、日本の戦果は大きなもので、ヒトラーがアメリカだけでなく、ソ連への攻撃も期待するという、藁にもすがりたい状況にいたからだと私は考えます。

 今では年配の日本人も忘れていますが、真珠湾攻撃の日 ( 12月8日) は、「開戦記念日」と呼ばれ、祝日扱いをされていました。窮地にあったヒトラーが、日本の快進撃に期待したのも、分かる気がします。

 「一方イギリスでは、チャーチルが、パール・ハーバーの報を聞いて、これでわれわれは戦争に勝った、と喜びの声を上げたそうである。」「イギリスがいくら訴えても、実現の難しかったアメリカの参戦を、日本がやってくれたのだから、チャーチルが喜んだのは無理もなかった。」「アメリカが参戦した以上、勝利はこちちらのものだという確信は不動だった。」

 「最後に、私の住んでいたブタペストの反応ぶりを、紹介しておこう。」

「ハンガリーは、古くからの親日国である。」「ハンガリーが、パール・ハーバーの奇襲の成功に示した喜びは、他の枢軸国には見られぬ異常なものがあった。」「巷で愛国行進曲がはやり、若者たちの口笛がこのメロディーを奏でるのであった。」

 「日本の陸軍武官は、社交界のスターにされてしまった。」「枢軸国の最後の勝利をもたらすのは、ドイツでなく日本であるという神話が、ハンガリーでは信じられていたのである。」

 「ヨーロッパの真ん中にいる、たった一人のアジア民族という感傷から、ハンガリー人の見る日本は、バラ色に染め上げられていたと言うべきだろう。」

 ハンガリーがアジア系の民族国家で、親日国だったことは、本を読むまで知りませんでした。氏はヒトラーだけでなく、日本びいきのハンガリーもどうやら気に入らないらしく、やっと朝日の記者らしい立ち位置を見せはじめます。最初に読んだときは、素通りしていましたが、氏の叙述が私の感の冴えを裏付けました。

 「その頃私に対して、朝日新聞で働くようにという話が東京で進み、春からはバルカン特派員として、仕事を始めるようになっていた。」

  ドイツがソ連との戦争で苦境に立ち、日本が真珠湾攻撃で戦果を上げている時、氏は朝日の特派員になりました。氏の経験と知識が、笠信太郎氏に買われたらしい書きぶりです。

 笹本氏のお陰で、日頃考えていたことの裏付けを得ました。分かりやすいように並べて描きます。

 〈 1.  反日左翼学者とマスコミの意見 〉

  ・ 大東亜戦争は領土的野心に駆られた日本が、軍事力でアジアを侵略した。

 〈 2.  氏の著作で得た別の情報 〉

  ・ 日本は戦争をやめたいと努力したが、欧米諸国の戦略に巻き込まれ、自滅の道へと追い込まれて行った。

 アメリカの参戦を願っていたのは、チャーチルだけではありませんでした。スターリンも、そして米国大統領のルーズベルト自身も、ドイツと日本を打ち負かしたいと考えていました。

 この三人が計画したのは、次の二つでした。

  ・「日本の講和を、邪魔すること。」

  ・「アメリカが参戦のキッカケを、日本自身に作らせること。」

 日本に負かされ続け、ともすれば日本との講和を考えそうになる蒋介石を叱咤し、支援したのはアメリカとイギリスでした。講和の道を探ろうとする近衛首相に戦争継続を具申し、邪魔したのは、ソ連スパイのゾルゲと協力していた朝日新聞の尾崎秀実記者でした。

 日本はズルズルと日中戦争の泥沼に嵌まり、座して死を待つよりと、対米戦争を決断しました。氏の本を読み、日本は米英ソの情報戦に負けたのだと納得しました。チャーチルの喜び方と、ルーズべルトとスターリンの意見がその裏付けでした。

 そうなりますと東京裁判で東条元首相が、「日本がやったのは、自衛のための戦争だった。」という証言が、強弁でなかったと理解できます。

  ブログを終わるにあたり、東条元首相の裁判での主張を、再度紹介したくなりました。日本だけを責める反日左翼の人間でなければ、心に響く言葉となるはずです。

 「終わりに臨み、恐らくこれが、当法廷の規則において許さるる、最後の機会でありましょうが、私はここに重ねて申し上げます。」

 「日本帝国の国策、ないしは当年に、その地位にあった官吏の採った方針は、侵略でもなく搾取でもありませんでした。」

 「一歩は一歩より進み、また適法に選ばれた各内閣は、それぞれ相受けて、憲法及び法律に定められた手続きに従い、これを処理して行きましたが、ついに我が国は、彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。」

 「国家の運命を勘案する責任を持つ我々としては、国家自衛のために立つということが、ただ一つ残された途でありました。我々は、国家の運命を賭しました。しこうして敗れました。しこうして、眼前に見るがごとき事態を惹起したのであります。」

 「戦争が国際法上より見て、正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題は、明白に分別できる、二つの異なった問題であります。第一の問題は、外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。」

 「私は最後まで、この戦争は自衛戦争であり、現時承認せられたる国際法には、違反せぬ戦争なりと主張します。私は未だかって、我が国が本戦争を為したることをもって、国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、敗戦国の適法なる官吏たりし者が、国際法上の犯人となり、条約の違反者なりとして、糾弾せられるとは考えたこととてありませぬ。」

 「 第二の問題、すなわち敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は、私はこれを受諾するのみならず、真心より、進んでこれを負荷せんことを、希望するものであります。

        昭和二十二年十二月十九日 於東京 市ヶ谷 供述者 東條英機 」

 
  次回からは、笹本氏の著作へ戻ります。
コメント (2)
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