日米英の抗議を受け、ロシアは満州からの撤兵を6ヶ月ごとの3期に分け、一年半で完了すると清国に約束しました。
第1期の撤兵が終わり2期目の期限が近づいても、ロシアは約束を守らず、返って増員しているという情報も入ってきました。撤兵期限を10日過ぎた時、ロシアは清国に対し七ヶ条の新しい要求を出し、日本は清国側から、ロシアの新提案の内示を得ました。
ロシアの要求は、次のものでした。
1. 清国へ返還する土地はいかなる事情があっても、他国へ売却や譲渡をしてはなら
ない。そのようなことをすればロシアへの威嚇とみなし、利益保護のた
め、断固たる措置をとるであろう。
2. 蒙古における、現在の政治組織を変更しないこと。それを変えると人民の暴動な
どの騒乱が、起こる恐れがある。
3. ロシアに予告せず、満州に新たに開市開港を行い、外国領事の駐在を許しては
ならない。
4. 清国が行政事務のため雇う外国人の権力は、満州北部地方に及んではならない。
もし外国人を雇う場合は、ロシア人管理のもとに特別の官局を設けね
ばならない。鉱山技師を雇う場合は、満州と蒙古に関してはロシア人技師に
任せられるべきである。
5. ロシアが北京ー営口間の電柱の上に仮設した、電信線は、ロシアが盛京省に有す
る電信線と、連結し、維持されなければならない。
6. 営口の税関を返還した後も、収税金は露清銀行に預け入れなければならない。
7. 満州占領中、ロシアの人民や会社が正当に獲得した権利は、撤兵後も有力とする
こと。流行病の蔓延を防ぐため営口に検疫局を置き、税関長と医師は、ロシア
人を採用すること。
眠れる獅子と言われた清国が日清戦争で日本に敗れ、北洋艦隊を失い、軍事力が弱体化するとこの有様です。7カ条と言いながら、中身は9カ条になり、撤兵してもロシア支配は変わりません。世界最強の陸軍を持つというロシアは、日米英に非難されても簡単に妥協しません。
清国からの情報で内容を知った小村外相は、イギリスとアメリカへ通告し、両国政府も強い抗議を行いました。3国の反撃を受けロシアが譲歩の色を示し、清国はロシアの要求を拒否しました。
ロシアの譲歩を見て、イギリスとアメリカは納得しますが、肝心の撤兵が曖昧になるため、日本は納得しません。黙っていれば、増員をするばかりでなく、満州から朝鮮へと侵略が進むので、事態を危機的と捉えました。
予感が的中しロシアは、鴨緑江の朝鮮側の土地を買収し、中国人の人夫を率いて、大規模な工事を始めました。日本は実情を探るとともに韓国政府に抗議を繰り返しますが、ロシアは獲得した権利の上で行う森林事業だと、説明するだけでした。
韓国駐在の林公使の調査によりると、現地のロシア人は軍人で、中国人は馬賊であると判明します。ロシアは周辺に軍隊を駐留させているだけでなく、韓国国境の要所に、兵隊を置いていることも分かりました。危惧していた通り、ロシアは日本防衛の生命線である朝鮮へ、手を伸ばしていました。
清朝が崩壊したのち中国は中華民国となり、袁世凱が初代大統領となりました。大正4年の大隈内閣の時、加藤外相は袁世凱大統領に対し、世にいう「対華21ヶ条の要求」をしました。
こんな要求を突きつけるのでは、日本が中国人に非難されても仕方がない。帝国主義の日本と嫌悪されても、返す言葉がないと思いました。しかし今、ロシアの清国への要求を具体的に知りますと、「対華21ヶ条」の手本はここにありました。
息子たちのために「対華21ヶ条」の一部を紹介します。ロシアの要求にそっくりです。。
・ドイツが山東省に持っていた権益を、日本が継承すること
・山東省内やその沿岸島嶼を、他国に譲与・貸与しないこと
・膠済湾鉄道の敷設権を日本に許すこと
・旅順・大連の租借期限、満鉄・安奉鉄道のの権益期限を99年に延長すること
・日本人に、各種商工業上の建物の建設、耕作に必要な土地の貸借・所有権を
与えること
・他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のため他国から資金援助を受ける
時、また諸税を担保として借款を受けるときは、日本政府の同意を得ること。
・政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合は日本政府に協議すること
・中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として、有力な日本人を雇用すること。
・中国内地の日本の病院・寺院・学校に対して、その土地所有権を認めること
・福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関して、建設に外国資
本を必要とする場合は、まず日本に協議するここと。
「対華21ヶ条」だけを取り出し現在の視点で読むと、反日・左翼の学者たちの言う通りです。傲慢な日本、軍国主義の日本、横暴な侵略主義者、中国を軍靴で踏みにじった日本など、どれも当たっています。
しかし当時の国際社会を考慮すれば、別の見方が出てきます。ロシアや日本だけでなく、イギリスも、フランスも、オランダもドイツも、アジアの弱い国々に対し、同様な要求をし、一方的な通告をし、自国の勢力下に入れていました。当時の常識は「武力」であり、武力の如何が外交の勝利をもたらしていました。
袁世凱に要求を突きつけた時、日本は日露戦争の勝利者でした。列強も一目置き、アジアで特別扱いされる強国になっていました。その延長からすれば、ロシアの「7ヶ条」より多い「21ヶ条」だとしても、現在ほどの批判はなかったのかもしれません。
日本が中国において特殊利益を有することを、イギリスとフランスとロシアが、明文もしくは黙示の承認をしていた事実が証明します。ただアメリカは態度を明確にせず、ドイツは不承認でした。ドイツが不承認だった理由は、イギリスのグレイ外相が、加藤外相に語った言葉で分かります。
「自分が非常に懸念しているのは、日中問題から生起する、政治上の事態進展にある。」「ドイツが中国において、盛んに陰謀をたくましくしつつあるのは、事実であって、中国をそそのかして、日本の要求に反抗させるために、百方手段を講じつつある。」「これによって、日中両国間に衝突を見るようなことがあれば、ドイツの最も本懐とするところであろう。」
「自分は、今回の問題について何か質問を受ける場合、できる限り日本の要求を支持して、同盟の友好関係を全うしたい精神である。」
息子たちに言おうとしているのは、「日本は正しかった。」という話ではありません。「昨日の敵は、今日の友」という、国際社会での国々のせめぎ合いです。力のある国が生き残り、力の無い国は属国として生きるしかない現実です。