昭和14 ( 1939 ) 年の9月、第二次世界大戦はドイツのポーランド侵攻から始まりました。笹本氏の著書から、その概要を紹介します。
「新鋭爆撃機と大量の戦車隊による、いわゆる電撃戦によって、ドイツ軍は一週間でポーランド軍の主力を潰した。」「そのあとドイツ軍は、無人の荒野を行く勢いで、全ポーランドを席巻し、3週間でポーランド軍の抵抗は、終わってしまった。」
「あまりに呆気ないポーランドの敗北について、ポーランドは作戦を誤った。」「全国戦線を守ろうとし、防衛陣が薄くなってしまった。もっと防衛戦を短くし、重点主義をとるべきだった。」「というような批評も、出てきたが、本当のところは、戦術や戦略がものをいう以前に、ポーランドの戦力はあまりに貧弱だったのである。」
「ポーランド兵がいかに勇士とはいえ、槍と剣のみでは戦車には、かすり傷さえもおわすことができなかった。」「これが、ポーランド戦の実態である。」
敗北の原因は、それだけではありませんでした。氏の叙述を読みますと、いざ戦争となれば同盟国といえども、あてにならないということが分かります。
「英仏はポーランドとの同盟条約で、ポーランドが攻撃を受ければ、あらゆる手段によって、ポーランドに軍事援助を与えると約束していた。」「ところが英仏は、まるっきり動こうとしなかった。」
「ドイツ軍の猛爆を受け、ポーランドがドイツの飛行場を爆撃し、少しでもポーランドへの空襲を、鈍らせてもらいたいという火急の訴えにも、英仏は応えなかった。」
「それは、文字通りの見殺しだった。誰の目にも明らかな、同盟義務の違反だった。なぜ英仏は、ポーランドを助けようとしなかったのであろう。」「英仏はそれをやるだけの、空軍も地上兵力も、十分に持っていたのである。」
「なぜかについては、戦後色々な説明や解釈が行われているが、英仏の責任ある筋からの答えというものは、ついに出ずに終わっている。」「つまり、うやむやにされたままなのである。」
第二次大戦後に、チャーチルは偉大な指導者として、英国はもちろん、世界でも賞賛されますが、筆者は激動のヨーロッパで、実際に見聞した事実からそうなっているのか、詳しいことは分かりませんが、徹底したチャーチル不信を語ります。私には、こういう見方も新しい発見でした。
結果から見ればチャーチルたちは、ポーランドをけしかけ、ドイツに挑戦させていながら、いざとなると見殺しにしたと氏は語ります。英仏は、最初からドイツと本気で戦う気は無く、初戦では傍観すると密約していたと言います。
日米安全保障条約に限らず、現在でも各国は同盟を結んだり、条約を締結したりしていますが、いざとなった時どうするかは、自国の利益次第と歴史が教えています。
知らない訳ではありませんでしたが、次の叙述を改めて肝に命じました。
「スイスでも9月1日に総動員が行われ、人口の1割以上にあたる、43万人が召集された。国境地帯の警備が厳重になり、入国が難しくなった。」「市民生活にこれという変化はなかったが、となりの大国が戦争を始めたのだから、スイス国民も平然としてはおれなくなった。」
「まさかスイスの中立が、開戦と同時に犯されるはずはあるまいというのが、大方の考えだった。」「しかし万一、攻め込まれるようなことがあれば、断固として戦うという決意は、ありありと見えた。」
「5年8ヶ月の戦争を通じて、独仏どちらかが、戦略上スイスを通過する、つまり侵入を受ける危険がなかった訳でないが、スイス軍40万人を敵に回しては、割があわないという計算が、この冒険をたじろがせることになったようである。」
「国民一人一人が、自分の国を誇りとし心から愛し、また満足しているスイスでは、」「国を守る気概は、指導者のお説教を待たず、国民の間から自然に生まれてくるのである。」「スイスの例は、国を守る気概というものが、上から押しつけられるものでないことを、教えている。」
氏は当時の日本が、愛国心を上から押しつけていると、暗に批判しているのですが、今は別の押しつけがあります。敗戦後の日本は、国民が国に誇りを持てないような教育をし、国を愛することさえ罪悪だと教えています。
スイスは、戦争に反対する永世中立国ですが、国民皆兵の国です。成年男子は、年に一回軍事訓練を受け、銃器の扱いも徹底的に教育されます。国境の河川や、峡谷には、目に見えませんが強力な爆薬が、あちこちに仕掛けられています。敵が来たら、容赦なく爆破し侵入を防ぎます。祖国防衛をここまで徹底しているから、スイスの中立が守られています。
「戦争はダメです。」「人殺しはいけません。」「平和が一番だから、武器はいりません。」「平和憲法を守れば、世界が平和になります。」
スイス人からみれば、現在の日本人はお人好しのバカにしか見えないはずです。スイス人だけでなく、外国人から見れば現在の日本は異様で、奇怪な一団でしかありません。笹本氏のような記者がいなくなり、日本中のマスコミが戦後70年間も、「平和教の念仏」を褒め称えたため、こんな風になってしまいました。
日本最高の祭典が、やがて来る「終戦の日 ( 敗戦の日 )」の、追悼と反省の大合唱です。大きな活字が紙面を飾り、子供や老人を使い、「戦争の悲惨さを忘れるな」と、語らせたり、嘆かせたりします。
「外国の軍隊が攻めて来たら、私は逃げます。」
森永卓郎氏は著名な経済評論家ですが、悪びれもせずテレビで語ります。
「外国軍が攻めてきたら、僕は一杯やろうと言って、話し合って撃退します。」
シールズという学生集団にいる一人が、テレビで意気軒昂でした。
全てではありませんが、これが戦後日本人の一つの姿であり、マスコミが賞賛する「平和愛好者」たちです。自国の平和を守るため、訓練を積んでいるスイス国民には、理解不可能なはずです。努力なしに手に入る平和や安全は存在しないという、当たり前の思考が、日本人の中から薄れつつあります。
笹本氏はこうした貴重な経験をし、帰国したのち、朝日新聞で何をしていたのでしょうか。朝日という巨大組織の中で、反日・左翼の大砂漠に埋没し、砂の一粒と成り果てたのでしょうか。
そんなことは書かれていませんし、ブログの本題から外れてしまいます。明日からはまた氏の著作を元に、現在の日本を考察していきたいと思います。