これまで、楯岡高校の社会部が発行した「郷土 Ⅱ」を取り上げてきましたが、大変うれしいことに、新たに貴重な資料も入手できました。楯岡高校が調査した昭和45年ごろは、多くの高校において、郷土について調査研究するクラブ活動がありました。それでは、地元の尾花沢高校では、どんな活動が行われていたただろうかと、期待してインターネットで尾花沢市民図書館を検索しました。すると、尾花沢高校の郷土クラブが昭和46年2月1日に発行した「尾花沢の苗字」が出てきました。さすが地元の高校ということで、嬉しくなりました。地元の高校が活躍して嬉しいのは、何も夏の高校野球だけではありません。地元の若い世代が頑張っている姿には、地元住民としては常に応援したい気持ちがあります。今回は私が応援するのではなくて、私が同校から大きな応援をいただきました。
ところで、実際に図書館に行ったところ、図書館の職員の方が次の資料も探してくださいました。地元の高校だけでなく、地元の図書館も私を応援して下さいました。
「尾花沢伝説集」 尾花沢高校の郷土研究部 昭和41年3月1日に発行
「おばなざわの地名考察」 尾花沢市教育委員会 昭和49年4月1日発行
今日から何回かにわたって、これらの資料のうち「尾花沢伝説集」から畑沢に関係した伝説を掲載します。なお、楯岡高校社会部の資料についても、引き続き掲載していきます。
「尾花沢伝説集」第一回目
-29 峠の弘法清水と弘法大師像- (以下は原文のままです。)
昔、古瀬○○という人が、楯岡へ米二俵を馬につけて米売りに行く途中に、弘法大師の掘った清水の伝説がある弘法清水の所で、馬は米をつけたまま崖をころがり落ち、沢まで落ちてしまった。驚いて沢におりてみると、馬は米をつけたまま立ち上がって草を食べていた。また不思議なことにどこもけががなく元気だった。
そこで、これは弘法様のお蔭であると、庄右エ門家で弘法大師像を刻んでもらい、その地に立てたといわれている。
そして後年現在のところに移されたのだということである。
以上が伝説として記載されているものです。引用文中「古瀬○○」としたのは、「○○」が現在でも畑沢で屋号として使われているので、差し障りがないように名前を伏せました。
ところで弘法清水とは、私が「背炙り峠(5)えっ弘法大師が来たの」で紹介した「弘法水」のことで、今でも美味しい水が出ています。
伝説の「弘法大師像」は、確認できず、「水神」の石碑がありました。