常盤中学校のグランドの北側には、戦争で亡くなった方々を慰霊する「忠魂碑」があります。太平洋戦争では日本の戦没者は240万人とも310万人とも言われています。随分と人数に差があります。当時の日本全体の人口は7千万人ぐらいだったようですので、約3%の国民が短期間のうちに悲惨な状況で亡くなりました。若い世代だけでの割合となると、どうなるでしょう。とんでもない割合になります。そして、犠牲者は死亡者だけではありません。傷病者が大勢いました。外見からでは分からない「心に深い傷を負った」まま、黙して語らない生活をしている方も、やはり大勢いらしたようです。そのような方々とは全く逆に、軍隊での階級を平気で自慢されている方もおられました。
水上徳太郎氏が平成7年に発行された「日清戦争以降常盤地区戦没英霊芳名簿」によりますと、畑沢では、日露戦争で1人、太平洋戦争で11人が亡くなったようです。当時の畑沢の戸数は約50戸ですから、5軒に1軒の割合で悲しい戦死の知らせを受けました。
年代別では、20歳代が7人、30歳代が4人です。
亡くなった場所は、フィリッピンが4人、中国が3人、ビルマが1人、内地の陸軍病院が2人です。
亡くなった時期は、昭和15年が2人、17年と18年が各1人、20年が6人、21年が1人です。21年に亡くなった方は亡くなった場所がビルマとありますので、恐らく、無謀と言われた「インパール作戦(昭和19年)」に参加して既に亡くなっていたがその時は確認されずに、戦後になってから死亡が確認されたようです。
昭和19年ごろは日本敗戦の色が濃くなっていたにもかかわらず、戦争を続行したため大事な人命が次々と失われていきました。戦争で次代の担い手が失われたことによって、畑沢のような小さな集落では、その後の村の運営に大きな痛手を受け、衰退に拍車がかけられました。
太平洋戦争で亡くなられた方々の中で、最も若い世代は、もしも御存命であったら90歳を迎えられていたでしょう。
ところで、Wikipediakの「背炙峠」に背中炙り峠の歴史と現在の写真を載せてもらいましたので、御覧ください。